Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

新宿センタービル52階から眺めた東京

2013年01月24日 21時22分55秒 | Journal


 大成建設が創業140周年を迎えたとかで、記念行事の取材のため、本社がある新宿センタービルの52階へ出かけた。そこのセミナー会場から眺めた東京の風景。これはなかなかの景色だ。下の写真の遥か向こうに霞んで遠く見える東京スカイツリーからでは、こうは撮れまい。

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鴉のポスターと作品

2013年01月06日 10時38分36秒 | 作品スケッチ


 ――もう忘れてしまった人も多いかと思いますが、鴉はけっして忘れません。
 世の中には鴉にとってやっかいな政治家がいるもので、21世紀の初頭、平成時代に東京都知事を務めた石原慎太郎氏(1932‐)は、増える鴉を撲滅せんと鴉の肉をミートパイにして東京名物にしようではないかと提唱し、ご自身もテレビ番組でパイに調理した鴉を「美味い!」と食べてしまったと言うことであります。愛国者であり文人でもある石原氏は、日本の神話に登場する三本足の八咫烏(やたがらす)が、この国の初代天皇の神武(紀元前711‐585)を大和に導いた大功績を知らぬわけはないでしょうが、路上に愚連隊風に映る今どきの鴉によほど腹を据えかねたのでありましょう。
 大正から昭和時代にかけて童謡作詞家として活躍した野口雨情(1882‐1945)の「烏(からす)なぜ啼くの 烏は山に 可愛い七つの子があるからよ」ではありませんが、かつては鴉に対して子の心配までしてくれるほど優しくなれた日本人が、なぜ、ここまで獰猛で容赦なくなってしまったのか、疑問に思うのであります。また、野口を師と仰いだ中村雨紅(1897‐1972)の「夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘がなる おててつないで みなかえろう からすといっしょに かえりましょ」などまことに、鴉と人が仲睦まじく共生する名曲中の名曲でありまして、残念ながら鴉の音痴の身では歌うわけにもまいりませんが、人間界の鴉に世知辛い仕打ちの数々を見るにつけ、余はカーカーと啼きながらも、実は心の琴線にいつもこの懐かしい唄を歌っておるのであります。

 これは、小生が鴉(カラス)を主人公に考えている作品の冒頭にでてくる鴉の口上(予定稿)である。人間に悪さをするのですっかり嫌われ者の鴉だが、それは鴉が頭が良く、頭上から見下ろしていて人間のやっている愚行をからかってやりたいとつい思うからではないか。上掲の写真は、昨年の秋口、近所の公園か何かでiphoneで撮ったものらしいが、忘れていたのを今になってパソコンに添付送信してアップしたもの。小生が作品に登場させる人間に、いつも帽子をかぶっている男がいるが、このポスターを見ると、子育てに警戒心の高い鴉も帽子を頭にのせた人間には遠慮か安心かはたまた尊敬が働くようだ。
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2013年新春の北京と天津Ⅲ 新幹線で天津へ日帰り旅行

2013年01月04日 21時10分15秒 | Journal
 元旦の日に、北京南駅から天津へ新幹線の和諧号で妻のお兄さん夫婦と向かう。30分ぐらいの乗車時間だが、1人の片道切符代が54.50元(760円)と安い。乗り心地も良い。誰もあの一昨年に起きた悲惨な事故のことは考えていないようだ。天津へは、妻の父親の妹(すでに亡くなっている)の旦那さん(95歳)が住んでいるので、その訪問が目的だった。妻は、かつて商人としてはぶりも良かったそのおじさんや、いつもヴァイオリンケースを手に北京の妻の実家に現れた背が高く素敵なその長男の姿を忘れられないようだ。

   

 中国の新幹線は前に唐山へ行ったとき乗って2回目だった。唐山へは北京駅からだったが、天津へは北京南駅からだ。切符を購入する際にパスポートが必要で、そのナンバーは切符にも印字されている。中国人の切符には漢字で指名が記載されている。今回の和諧号は、外観は一時代前のさえないフォームだが、少なくとも車両の乗り心地自体は日本の最新鋭の新幹線とそん色ない。揺れがまったくない。お兄さんの話では「フランスの技術を導入している」ということだが…。窓から見る景色は典型的な東北部の殺伐とした冬の風景。並んだ鉄塔の日本では見かけない形を写真に撮る。

   

 一つ、この新幹線で面白いと思ったのは、窓の上部に赤いマークがあり、非常時にこのマークを据え付けのハンマーで叩くと、緊急脱出が可能だとのこと。以前、乗ったときはこれはなかった気がするから、事故後の改良なのであろう。天津に近づくにつれ、にゅきにょきと奇妙な高層マンションが荒野に出現する。最寄にあんなものに住む人は居るのだろうか。ろくに需要も考えずに供給サイドが突っ走る経済がまだ続いているのだ。

   

 天津については「天津甘栗」ぐらいしかイメージにないが、実際には天津甘栗は日本人観光客用の土産としてしか存在しない。ここ天津市は清末に李鴻章や袁世凱による洋務派の拠点となった開明的な都市で、今も中国国内でも先進的な工業地帯。GDPも中国の都市の中で第5位という。それだけに街中には高層ビルもあるが、往時をしのばせる赤煉瓦の古いビルも残っており、港町特有の魅力がある。おじさんの住むアパートは市の中心街だが、その一角だけ発展から取り残されたような煉瓦造りのアパートが並ぶ。1976年の唐山大地震で倒壊したものを建て直したらしいが、余り立派なものではない。おじさんは日本人が来るということに当初、難色を示した。「自分らの貧しい生活を日本人に見られることは国の恥になる」と考えたからだ。しかし、行ってみると、あたたかいもので何度も力強く手を握ってくる。ただ、「日本人は心が狭い。相手のことを先に考える姿勢、平和が大事」と痛いところを繰り返し言われた。62歳になる長男は、今も父親の家に独身で同居する。文化大革命のときに下放され、いじめに合って、精神を病んだ。その後遺症から廃人化してしまった。裕福な家にお坊ちゃんとして育ち、ブルジョワジー階級出身者として田舎で散々にいじめられたのだ。会ってみると、力なく薄ら笑いを浮かべる初老の男性だったが、妻から聞いた昔の颯爽とした青年の面影がないでもない。彼は最初、玄関に私たちを迎えた瞬間、小生を見て日本人憲兵でも来たかのような強い恐怖の表情を浮かべた。30分ぐらいお相手をしたおじさんの部屋から出て、ひどく狭いトイレを借りたついでに、老人の部屋と壁ひとつ隔てた長男の部屋へ行くと、立っていた彼はパソコンの前に座る同行のお兄さんと何かを話していたが、やがて箪笥の上に今も置かれているヴァイオリンケースをお兄さんのリクエストに応じて下し、ケースの蓋を開いた。そこにはけっして安物ではない上物のヴァイオリンが50年前の青春の輝きをそのまま伝えるように収まっていた。何らかの成人サイトを見すぎたからだろうか、彼のDellのパソコンはウイルスに汚染されてフリーズしたまま動かなくなっているらしく、先刻からお兄さんに直してもらおうとしていたが、結果はとても無理だった。そして、長男は今になって結婚を熱心に求めて、近くに住む妹が嫁さんを連れてこないことを怒っているとも聞いた。小生はいまさら色気づいて何になると長男を下世話に笑う気にはなれなかった。むしろ、生きることの暗澹たる、しかしわずかに希望のある悲しみを覚えた。そのとき小生は、自分が同じ境遇だったら似たことになっていたかもしれない、いや、自分は少々ずるいところもあるからこうはならなかっただろうと、いろいろ想像してみた。いずれにしても生活力に乏しく気弱な小生の先輩がこうして中国の天津にも居たと認めざるを得ない。アパート内での写真撮影は、しっかり者のご老人から丁寧に断られた。

   

 老人の娘もやってきて、玄関先まで出てきた老人に見送られて近所のレストランに昼食へ行った。娘は、静かな老人や長男と正反対に、老舎の「駱駝祥子(ロートシアンツ)」に出てくる主人公の女房のような男勝りで、ずけずけとよく喋る。長男は料理にはほとんど手を付けず、ビールが好きらしく黙って何杯も飲み干し、ぬっと立ち上がって大皿の料理を箸で小生の小皿に運んでくれたり、ときどき小生の方をちらっと見ては照れくさげに笑みを浮かべた目を逸らしたりした。レストランの外で新年を祝う爆竹が破裂する。それから兄妹と握手に別れ、天津の繁華街にタクシーで向かった。老人のアパートから遠からぬ場所にある、かつて長男が通った天津一の名門中学「耀華学校」の前を抜ける。この中学の校長は、戦時中に親日教育を拒否して日本軍に殺されたという。軍刀をふりかざした心の狭い日本人は、中国の高潔の士をこの世から有無もなく抹殺したのだ。

        

 目抜き通りはどっと人が繰り出して大した賑わいだ。「天津勧業場」なる古いデパートに入り、日本の母親にダウンの袖なし上衣を買う。物価は、北京に比べ安いようで、特に靴の店がフロアを埋め尽くしてあるのには驚いた。中国人はとにかく靴が好きなようだ。

       

 そこから天津駅に戻るためにタクシーを探すが、見つからないので、タイのトゥクトゥクのような三輪車に4人で乗り込んだ。交叉点に信号がないせいか、前後左右から交叉点に殺到した車で大変な渋滞だ。三輪車は猛スピードで混雑する道を逆走して、路地に入り、難なく交通渋滞を回避して駅前の広場にたどりついた。来たときは駅の裏側に出たので気がつかなかったが、天津駅前は大変広く、しかも川向うは欧風の建築で美しい。アマチュアカメラマンのお兄さんから妻との記念写真を撮ってもらい、また15分おきにある北京行きの和諧号に乗り込んだ。首都の北京では、新年から交通規制が厳格化し、自動車が交叉点に黄色信号で進入したら、即、罰金だそうだ。市内の信号機にはカメラが設置されていて、あとになって自動車の持ち主のパソコンに罰金と減点の知らせが届くのだそうな。そこへいくと、信号機自体が少ない天津はまだまだ公に細かく管理されぬ、天津商人が路上にうごめく活気ある街だと感じた。昔から「北京には官僚が多い、天津には商人が多い」と言うが、現在も「まさに」ではある。

   

 ◆追記――自動車が黄色信号で交叉点にさしかかってはいけないとする北京市の方針は、国内外の新聞メディアから現実的でない意味がないと批判されて、北京市は、しばらく教育・啓発期間として、違反があっても罰金・減点を科さない方針に転換したそうだ。また、その迅速な方針転換がこれまでなかったことと称賛されているというのも皮肉。
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2013年新春の北京と天津Ⅱ 中国の日本報道と習近平氏

2013年01月04日 18時06分05秒 | Journal
 安倍晋三内閣が成立した直後に北京に入ったので、中国のテレビ報道は時間枠を長くとった特集を含め「危機突破内閣」の中身を分析する番組が多かった。その報道ぶりは、日本のメディア報道をベースにしながら、ある意味、日本よりも客観的・分析的・総合的との印象を受けた。感慨もある。日本人が慰安婦問題のような「不都合な歴史」を余り深く考えたくないのは、一つのエリート民族意識の現れで、その薄っぺらな選民思想を一度破廉恥に洗濯して、もっと無垢な感情のあふれでる大和魂を取り戻さないと、この国は国際社会にあっても本当の活力が出ないような気がする。

        

 面白いのは、中国は日本の政治状況や命運がアメリカの傘の下にあることをよく認識していることだ。日米でホットラインがあるというのも日本の首相からアメリカ大統領に厳しい意見が言える対等なものならばともかく、主従関係が明らかでは自慢できたものではない。そのアメリカの庇護頼みをよしとしない日本の政治家の強がりや、経済の閉塞感に不満がある国民の右傾化についても、解説つきの報道があった。特に、反中国の右派言論の代表格として、巫女さんふうに日本の取るべき道をいつもご託宣のように話す櫻井よしこさんについて詳しい紹介があるなど、なかなか分析が細かい。また、少子高齢化で厳しくなる社会保障についても触れていた。これは中国の近未来の問題だから関心も高いのであろう。

       

 大晦日にニュース番組や新聞で大々的に取り上げられたのは、習近平氏が河北省の寒村を訪れたニュース。新京報には「黄土変成金」と見出しにあるから、寒村の黄土を金に変える経済政策を行うということであろう。ところで、テレビの映像を見ていると、一瞬、貧しい農民の家でおばさんに手をかたく握られていつまでも離してもらえず、そっと自分から手を離した習氏の様子が映し出されていた。このときの習氏の困ったような顔を見て、そう悪い印象はなかった。自分はできる人間だと横柄な態度をとりつづけて逆に人気を得ている日本の政治家よりは、人柄という点で、上質なものを感じた。

           

 ◆追記――中国広東省で発行されている週刊紙「南方週末」の記事が当局の指示で書き換えられた問題で、このブログで取り上げている「新京報」にも波紋が広がっている。この新聞は、北京で創刊の2003年当時、市内のあちこちにスローガン「負責報導一切」(報道のすべてに責任を持つ)と広告を掲げたことで知られる。今回は、南方週末の記者が抗議行動を起こしたことを批判した共産党機関紙・人民日報系の7日付「環球時報」の社説を転載するようにとの党宣伝部の命令され、ぎりぎりまで抵抗、社長と編集局長は転載となれば辞任する意向まで表明する騒ぎに。結局、9日付の紙面に転載されたよし。社長と編集局長が辞任したかどうかは今もって定かでない。
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2013年新春の北京と天津Ⅰ 北京雑景

2013年01月03日 17時44分06秒 | Journal
 

 師走の27日に東京・羽田から北京に向かった。飛行機はANAのボーイング787で、エコノミーにしては座席もゆったりとしており、長居にもいつもの苦痛はなく、映画を1つ半見るうちにもう北京で、映画半分を見終るまでもう少し飛んでいたい気分になる、なかなか快適なフライトであった。スチューワーデスさんたちも極めて愛想がよい。ちなみに、半分見残した映画は吉永小百合さんの「北のカナリアたち」。

  
 

 東京も寒かったが、大変寒く、あちらの新京報という新聞にも「酷寒跨年 冷風助興」などと強がりな?見出しがあった。着いた日は、夜から雪となり、朝、泊まったホリデイ・インの窓から雪景色の北京を撮った。妻のお母さんが入る老人ホームへ行くと、北京市の党から慰問団が訪問して、新年を迎えるお祝いをしていた。大音響でさほどうまくもない歌唱の披露。老人の中で一人だけ足を組んでありがたくなさそうな顔で眺めているのが妻のお母さん。小平のような顔つきだ。

   

 文化大革命の最中、妻とレストランで働いた仲間がホテルに訪ねてきて会食。そのあと、老北京らしいとろを見たいとの小生のリクエストで、土産物屋が並ぶ通りにタクシーで行った。老北京というには、新しい土産ばかりが並んでいた。原宿あたりをふと思い出す。

  

 翌日の大晦日、老人ホームで妻の兄弟二人、それに文革中に、妻の両親がおじいさんから受け継いだ四合院に住んだ隣人の娘さん(当時)が加わって、北礼士路にある峨嵋酒家というレストランに昼食に行く。ここは京劇の名優、梅蘭芳もよく食べに来た店らしい。彼の名のついた劇場からもそう遠くない。年末のせいか大変な盛況で、テーブルがあくまで30分ぐらい待たされた。

   

 昼食後、什刹海の湖上にスケートする人々を撮る。この冬日ならば湖面の氷も十分に厚いであろう。スケートというよりは橇遊びが主。写真では寒さがちっとも伝わらないが、とにかく風もあり寒い。夕暮れの北京、天安門を眺めながらホテルに帰った。

   

 年があけて2日午後に帰国。このところ北京空港もすっかり常連化して、懐かしいようなものである。2階でタイ料理を食べ、同じくANAの787で帰路につく。お正月を挟んでいたとはいえ、往復で飛行機に客の数が少ないのが今の日中関係を象徴している。お蔭で、込み合いもなく、カンファタブルな旅ができたわけだが…。

   

 ◆追記――日本に帰ってくると、ボーイング787の欠陥事故が次々に発生し、それから少し空恐ろしくなった。やはり、見かけで判断してはいけないということか。乗り心地はとても良かったのに…。また、帰国してから北京の大気汚染のニュースがかまびすしい。たしかに、北京の国際空港を離陸したばかりの飛行機の翼の下は、汚染物質で黄色に染まっていますな。
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