Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

表参道の交差点、銀座線と半蔵門線の併走の謎

2006年05月31日 20時37分47秒 | Journal
 写真を右へ行けば、渋谷を抜けて、多摩川を渡って、国道246号で、わが家までたどりつける。そのうち大地震があって、運よく地下鉄の中で死ぬ難をまぬがれたら、とことこ、この道を歩いて帰ることになるかもしれない。
 ところで、銀座線と半蔵門線は、この下を平行して走っているが、なぜ次の外苑前を半蔵門線は素通りするのだろうか? その次の青山一丁目ではまた仲良く駅をともにするのに。なんでも、田園都市線は、当初は銀座線に接続する予定だったが、それでは乗客が多くなりすぎるので、半蔵門線を新設したのだとか。そうした乗客の分割策・差別化が関係しているのだろうか。
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表参道のバカ灯籠

2006年05月31日 20時30分22秒 | Journal
 地下鉄に下りようと交差点まで来て、表参道の通りを挟んで馬鹿でかい石灯籠が二つある。いかにもデカイだけで金をかけていない安普請な灯籠だ。上野の不忍池の脇に立っている床しい灯籠を参考にすべきだな。⇒2月26日上野不忍池の石灯籠 こんなバカ灯籠を置いているようでは、表参道は上野の上を行ってるとは思えない。
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青山通りから

2006年05月31日 20時24分26秒 | Journal
 青山通り(国道246号)へ出ると、さすがに賑やかだ。両脇のビルの谷間にぽっかり遠景や奥行きを楽しめる空間があいていたりするのは、画趣がある。道行く女性にデブが少ない。だが、歩道橋の上で、中学生らしい制服の女の子二人が階段に太い股を開けて腰掛け、アネゴ風にタバコをくわえていた。様になっていない。ああ、この景色の中で、イトオカシ。
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青山熊野神社

2006年05月31日 20時18分59秒 | Journal
 こうした起伏のある、少し陰のある土地柄には、熊野神社が必ず登場する。
 右脇に近代的な洒落た建物の社務所がある。ところで、両の狛犬の頭に変なものがのっかっているが、ほかの狛犬もそうだったっけ?
 年寄りでなく、ほっそりした若い娘が、見ている間に二人拝んでいった。そこが青山らしい。
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青山の墓

2006年05月31日 20時14分34秒 | 「ハイク缶」 with Photo
 銀座線を外苑前で下りて、JIA会館で取材。会館を出ると、少し奥まったところに墓があるのを見つけた。つがいのモンシロチョウが空き地の草の上を舞っている。その向こうの墓は、古色蒼然としている。表通りのファッションなど知らない風情だ。

 江戸からか墓を囲んだ森の夏  頓休
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日本橋から京橋方向を眺める

2006年05月30日 09時15分38秒 | Journal
 鈴木理生氏は、通り町筋の屈折を強調している。慥かに、A.筋違橋門(すじかいばしもん、現在の昌平橋)から日本橋北詰間、B.日本橋南詰から京橋北詰間(写真はここの区間)、C.京橋南詰から新橋北詰間の3区間で、道路の屈折がある。Aは旧石神井川の河岸に沿っている。BとCの区間は、下水道の勾配を確保するため微高地を選んだ結果という。富士や筑波山を眺めるため中心道路を不規則に屈折させたとの「景観設計」説を、鈴木氏は否定している。
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日本橋の設計者が伊東忠太だったとは

2006年05月30日 09時01分27秒 | Journal
 大石学氏の『駅名で読む江戸・東京』(PHP新書)をひもとくと、今の橋欄の中央で巨大な獅子と麒麟が四方に睨みをきかせている石橋(明治44年、工費50万円余)の設計者は、伊東忠太だったとか。知らなかったな。
 上を高速が走る日本橋の写真は、いかにもみすぼらしい。忠太も泣いているよ。「日本橋」の揮毫は、徳川慶喜(よしのぶ)。慶喜も泣いているかな。
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日本橋とジャンボ宝くじ

2006年05月30日 08時51分51秒 | Journal
 「日に三箱散る山吹は花の江戸」と、小判を山吹にたとえた千両箱三つがたった一日で空になると威勢よく歌った狂歌があるとか。一つ目の千両箱は、芝居町(堺町・葺屋町・木挽町)、二つ目は、吉原。そして三つ目は、魚河岸がある日本橋とか。
 しかし、写真のジャンボ宝くじは、日本橋にはちと不似合い。ここは、一日に千両が動いた日本橋なのだ。
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日本橋魚河岸と江戸前握り寿司

2006年05月30日 08時39分26秒 | Journal
 日本橋の袂、魚河岸があった付近に写真のパネルがあった。
 なんでも、日本橋北詰の魚市場の起源は、天正18年(1590年)、徳川家康が関東入国の折、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃一帯)の名主・森孫右衛門が、佃・大和田両村の漁民34名とともに江戸へ来て、徳川家の膳にのぼる魚を献上する代わりに、河海一帯の漁業権を得、上納する魚の余りを一般向けに売り始めたことによるとか。大正12年(1923年)、関東大震災を契機に、築地に移転した。
 なお、ここらは、芭蕉の弟子、杉風(さんぷう)や卜尺(ぼくせき)の魚問屋があった場所。芭蕉も一時住んだ。
 江戸前の握り寿司は、文政年間(1818~1830年)に誕生したということであれば、芭蕉の時代にはなかった食べ物。寿司はともかく、芭蕉は、刺身なんか食べたのかな?

COMMENT:(江戸前寿司-Wikipediaから)起源――諸説あるが、最も有名なのが、江戸本所の華屋與兵衛が始めたという説。昭和初期まで栄えた老舗「與兵衛鮓」の始祖、華屋與兵衛の子孫小泉迂外によれば文政7年(1824年)頃、握り寿司を始め、江戸で大ブームとなった。当初屋台で始めたがやがて立派な家屋を構え、安宅の松が鮓(松の鮓とも表記)と並ぶ贅沢鮓となり、へっつい岸の毛抜鮨とともに「江戸三鮨」と謳われた。
 江戸時代から戦前迄は内店と呼ばれる店と屋台店と呼ばれる店に両極分化しており、有名な内店は今日の銀座の高級店以上の贅沢さを誇っていた。贅沢鮓は基本的に持ち帰りであり、今日のファーストフードに相当するのは屋台店で出していた鮓。この両極分化は、銀座の高級鮨店と回転寿司の共存関係と類似している。但し、現在の高級鮨店の大半は屋台店の流れを汲んでいる。

 握り鮨(鮓、すし)はへっつい岸笹巻きけぬきすし等をヒントにしたと考えられている。飯を笹に巻いて軍用携帯食にすることは戦国時代に始まり笹巻きけぬきすしはこの流れを汲んでいる。現代大阪寿司に起源を求めることは出来ない。何故なら現代大阪寿司は天保初め「福本」という店が改良を加えた鮓が大いに持て囃され、以降他店もこれに倣ったと言われるからだ。現在に続く承応2年創業すし萬が「福本」からどの程度影響を受けているかは不明。また握り鮨を計数する際の助数詞である貫も、この時期に江戸前から派生したとされる。当時、1貫に相当する分量が約40~50g(現代の握り寿司に換算して約2個分相当)と確定され、後の世の職人が食べやすく2分割したことから2個1貫と計数されるようになった。

 尚、「寿司の字は縁起の良い寿という字を使った当て字」とされるが、当て字というより仮名と解釈すべき。蕎麦屋の暖簾に「楚者゛」、団子屋の暖簾に「多゛无古゛」由来の仮名が用いられているのと同じである。一部鮨店にある「寿し」表記も漢字で書くなら「寿之」であり、「寿し」表記は「多゛ん古゛」という漢字仮名交じり表記に相当する。

 ■江戸前寿司が成立するためには、酢、江戸前海で捕れる魚、醤油、ワサビが必要である。

 握り鮓成立以前に早鮓と呼ばれる鮓が成立していた。この起源は明確ではなく、一説に延宝年間(1673~1680)幕府御典医松本善甫が考案したおじゃれずしが嚆矢ともされるが、乳酸発酵を待たず酢を使う鮓の原型は安土桃山時代に上方で成立していたと考えられる。更に、握り鮓成立以前の江戸中期には江戸市中に鮓屋台が出現し、錦絵等にも描かれる程早鮓は一般的なものになっていた。

 酢そのものは古代に中国から伝来していたが、室町時代に料理の調味料として一般に使用されるようになり、酢の生産が拡大して広く普及するのは江戸時代である。酢の普及が鮓普及の前提条件となったわけである。握り鮨の酢として重要だったのは半田の山吹。この酢は酒粕から作られた赤酢で旨味もあり、両国の與兵衛鮓でも昭和初期に店を閉める迄この酢を使っていた。従来の酢は酒を造り更に酢酸発酵させるためコストが掛かったが、酒粕を原料する山吹は酢の製造コスト削減に寄与し、早鮓普及の一因となった。最近ミツカンから復刻商品が発売されている。

 握り鮓には江戸前海で捕れる魚が必須だが、冷蔵庫のなかった当時、生のままでは鮓種にせず、煮る(穴子、蛤、白魚、車蝦、等)、酢で絞める(小鰭、鯵、等)、醤油に漬ける(鮪)等の加工が加えられていた。魚だけでなく玉子焼きや、干瓢等も用いられており、鮓種に関しては現代江戸前鮨より寧ろ現代上方鮓に近い。因みに生魚が鮨種の主役の地位に躍り出るのは冷蔵設備が発達してから。尚、江戸前とは江戸前海で捕れる鰻に限定して用いられていたが江戸前海の魚にも拡大して用いられるようになった。

 日本人は古くから生の魚を食べてきたようだが、刺身という言葉が登場するのは室町時代。江戸時代に醤油の大量生産が始まり、刺身に醤油を付けて食べるようになった。但し、江戸末期に至る迄江戸では鯛や鮃等の白身魚は煎り酒で食べるのが普通であった。醤油は紀州等から製法が伝えられた後独自の改良が加えられ野田や銚子で盛んに生産されていた。

 ワサビは山野に自生する植物で、古くから調味料として用いられているが、江戸時代に駿河で栽培が始まり、薬味としてわさびが欠かせないものとなる。握り鮨にわさびを挟む工夫をしたのも華屋與兵衛といわれる。天保の改革で與兵衛鮓は贅沢過ぎるとして與兵衛等は手鎖の刑に処せられワサビ使用禁止となった。この禁制は幕末迄続く。

 尚、鮪が用いられるようになったのは天保年間に江戸近郊で鮪が大量に捕れて以来。與兵衛鮓では昭和の初期に店を閉める迄当時下魚とされていた鮪は用いなかった。今日「鮨種の王」とされる鮪は主に屋台店で用いれていたに過ぎない。因みに当時最も高価な鮨種は玉子焼きで他の鮨種の2倍した。
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通り町筋(現在の中央通り)

2006年05月27日 08時33分12秒 | Journal
 鈴木氏の前書には、慶長8年(1603年)の日本橋創架に始まる通り町筋(現在の中央通り)の建設により、新メイン・ストリートが成立する、とある。それまでの旧メイン・ストリートは、自然発生的にできた大手門、常磐橋門、本町通り、浅草橋門にいたる本町通り(ほぼ現在の江戸通り)だったという。そして、新旧メイン・ストリートが交差する現在の室町三丁目交差点を中心に「一町六〇間四方」の町割が約43区画つくられた。
 写真は八重洲通りから日本橋方面を撮ったものだが、ここを行き交う人々も、400年前の理にかなった町計画の恩恵を受けているのである。
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