Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

老舎の個人主義、漱石の個人主義、アダム・スミスの利己心

2011年01月25日 20時16分52秒 | 哲学草稿


 老舎の『駱駝祥子(ロート・シアンツ)』(立間祥介訳)を読み終えた。読了に1カ月半ほどかかった。その間に、小説の舞台となった北京にもこの岩波文庫を持って出かけた。作品の後半になって、あれほど爽やかな好青年だった車夫の祥子は、自前の車一台を持とうというささやかな野心や幸せな家庭を持ちたいという淡い夢も不遇からかなえられず、自暴自棄、やけくそなな醜い男になっていく。老舎の描写はすさまじい。「いまでは、彼は得になることはどんなことでもやった。人のタバコを一本でもよけいに吸うことに、贋銅貨を使うことに、」(374p)、そして賃稼ぎのデモ隊参加では「どうしてもスローガンを叫ばなければならないときには、口をパクパクやってみせるだけで、ぜったいに声はださなかった。喉を使ってはもったいないと思ったからだ。これまでさんざん汗を流して働いたあげくがなんにもならなかった経験から、彼は疲れるようなことはいっさいやらないことにしたのである。デモの最中でも、ちょっとでも危ないと見ると、まっさきに逃げた。それもものすごいスピードで。命はおれのものだ、生かそうと殺そうとおれの勝手だが、人のために犠牲になるなんてまっぴらだと思っていた。自分のために努力する者は、また、自分を大切にすることも知っている。これが個人主義の行きつく両極端である。」(377p)とある。私は、ここまで読んで、なんだか自分のことを指摘されたような気がした。
 老舎は作品をこう結んでいる。「あのいなせな、がんばり屋の、希望にあふれた、わが身ひとつをいとおしんだ、個人的な、たくましかった、偉大な祥子は、いまや、何度人の葬式に立ちあったことだろう。そして、いつかは、どこかに、彼自身を埋めることになるはずだ。この堕落した、我利我利亡者の、不幸な、病める社会の子、個人主義のなれのはてを!」と。
 ところで、この老舎の「我利我利亡者の個人主義」という言葉ですぐに2つの事柄を想起した。1つは漱石の個人主義である。大正3年11月25日、漱石は学習院で「私の個人主義」という講演をした。この中で漱石はかなり思い切ったことを述べている。講演の最後の方で「国が強く戦争の憂(うれい)が少なく、そうして他から犯される憂がなければないほど、国家的観念は少なくなって然るべきわけで、その空虚を充たすために個人主義が這入ってくるのは理の当然と申すより外に仕方がないのです。(中略)国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもののように見える事です。元来国と国とは辞令をいくら八釜しくっても、徳義心はそんなにありゃしません。詐欺をやる、誤魔化しをやる、ペテンに掛ける、滅茶苦茶なものであります。だから国家を標準とする以上、国家を一団と見る以上、よほど低級な道徳に甘んじて平気でいなければならないのに、個人主義の基礎から考えると、それが大変高くなって来るのですから考えなければなりません。だから国家の平穏な時には、徳義心の高い個人主義にやはり重きを置く方が、私にはどうしても当然のように思われます。」
 この漱石の個人主義はモットーの個人主義で、老舎の病める社会の個人主義とはアベコベなものである。明らかに中国人は、個人主義を利己主義と受け取っているのである。漱石の個人主義は「自己本位」という言葉に代えられるもので、利己主義ではない。
 そして2つ目は、アダム・スミスの『国富論』にあるself-interest(利己心)である。この個人のモチベーションに宿る利己心は、市場経済の推進力となって、国を富ませ得るという考え方である。共感にもとづいた道徳的社会を夢想したアダム・スミスにとって、利己心は必ずしも悪いもの、利己主義や「我利我利亡者の個人主義」ではなく、むしろ漱石流の高い徳義の個人主義、自己本位に近いものであったろう。では、われわれの時代の世界はどうなのか。それは「我利我利亡者の個人主義」的な資本主義が国家的道徳と連携して、自己本位や共感を蹂躙してまわる社会ではないか。そんな感じもするし、明らかにそれへの個人からの抵抗がインターネット社会を通じて流行しはじめているとも考えられる。
 そうした両極端に分岐する世界の中で、極めて祥子的なマインドをもつ小生は、今後、どこにわが身を置いていいのか分からない。やけくそあるのみかもしれない。個人主義をウイキペディアで調べると、市民革命との関係の中に「市民革命の理論的な基礎ともなった社会契約説では、イギリスの哲学者ホッブズが、各個人の有する無制限な自然権は、『万人の万人に対する闘争』を帰結するものとした上、これを避けるためには、各個人の有する自然権が主権者に譲渡されることが必要であるとした。これに対してイギリスの哲学者ロックは、自然状態を平和なものとみたが、これを確実にするものとして社会契約を肯定した。ただし委任を受けた統治者が社会契約に反した場合には、個々人はその自然権を回復するとして革命権を肯定した。」というくだりがある。本来のあまのじゃくな立場からすれば「自然権が主権者に譲渡される」ということは、どうも有り難い話ではない。個人主義(individualism)は、そもそもラテン語のindividuus(不可分なもの)に由来する言葉だそうだ。その不可分なもの、天然なものが社会では分割して、ときには学校や会社、国家に切り売りに提供しないといけないということらしい。少時からとかくこの世が生きずらいのは当然の帰結だ。やはり、個人としては革命に走るかやけくそになるかしかなさそうである。徒党を組むのは大嫌いだ。残るは、やけくそあるのみである。
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私の母は今、グループホームに入っている。

2011年01月18日 21時03分56秒 | Journal


 私の母は今、グループホームに入っている。グループホームとは、認知症の老人が入る施設だ。そこが唯一、普通の老人ホームと違うところである。
 1年と少し前、母は、夜の徘徊が数日続いたところで、あえなく施設送りとなった。長年住み暮らした自分の家を出ることになって本人も大いに不本意だったろうが、息子の私も不本意である。ただ、当時、母の家に同居していなかった私に、その不本意を強く表明する権利がないと感じた。夜中の徘徊につきあうのは兄だった。
 グループホームに入居して半年ほどした昨年の夏、母は、あの外ではまともに呼吸もできないようなギラギラとする酷暑の日の朝、施設から忽然と脱走した。陽射しが強い昼をはさんで母の行方はようとしてつかめなかった。もう日射病で倒れているか、あるいはどこかの家の物陰で死んでしまったのではないかと嫌な胸騒ぎがしてきた夕方、「見つかった」と連絡が入った。施設から家の方向へ5、6キロもいった団地の木陰になった駐車場で、祭りの準備をしているおじいさんたちと茶飲み話をしているところを、通報を受けて駆けつけた警察官に保護され、パトカーに乗せられてグループホームへ帰還したのだ。警察犬まで出動する騒ぎであったが、本人は自分のことではないようにケロッとしていた。
 そう、まったくもって、こうした施設に居ること自体、いまだに母にとっては「現実」ではないのだろう。人生の奇妙な不具合事でなければ、ここに居るのは一時的な仮住まいであり、明日にでも引っ越しが待っていると思い込んでいる。実際、彼女は毎日のように自分の荷物をまとめて待機している。われわれが母の生活が少しでも和やかになるように持ち込んだ装飾品や写真類は、どこかに片づけて部屋のどこにも見当たらない。鏡台の引き出しの奥にしまってしまったのだ。
 しかし、そんな母も、同じ境遇の入居者に彼女特有のスタンスで「社交的」な対応をしてみせる。本人たちの面前で「この人は本当におかしなところがあるよ」と具体的な欠点をぺらぺらと指摘するのだが、言い方にはいつも明るい笑いが入っている。それに相手もボケがあるし、母の早口な人物評など理解できないから、そうは怒らない。喧嘩にならない。例えば、花や葉のアウトラインができている絵をクレヨンで塗りつぶすだけの作業に没頭するおばあさんが、ひまわりの花を葉と間違えて緑色に塗ってしまうのを眺めて「あんたもあんまりうまくもないから、そんなことおよしよ。それよりあんたは字を書くのがけっこううまいからね。字を書いたらいいよ」と指摘して、緑色の上に黄色を塗って失敗の手直しを無駄にこころみているおばあさんを笑いを押し殺したように見下ろしている。
 そうやって、一見、施設の生活を高見から楽しんでいるかのように見えるが、彼女は実は死ぬほど退屈しているのである。何かをやりたいが、ここでは時間があっても意識を創造的に集中するのが難しいのである。そこで仕方なく他人がやっていることを少しからかい半分に見なして、自分の無為を飼いならすしかないのである。私にも似たところがあるから、彼女の傾向は分かる気がする。
 では、母の中でどんな具体的な葛藤があるのか。母の鏡台の引き出しにしまってあったノートの落書(らくが)きに添えられた「形より中身よ」「シャキッと」「気分も大きく」は、現状の自分に満足しがたい気持ちと自己克己的な意志が読み取れる。施設に入り自分のことを自分で決められない今の母に、こうした葛藤を行動を通して解決していく可能性は閉ざされてしまったと言ってよい。人間は多かれ少なかれ自分という限界の中で生きている。それを超えていくには、外にむかって出ていくしかないと強く感じる瞬間がある。母の脱走はそうした葛藤の所産だった気がする。そして、母の部屋に最近、劇的な人生に鮮やかな言葉をおくる「弔辞」を載せる『文藝春秋』を見つけた。87歳の母にも「劇的な人生」が必要なのかもしれない。
 なお、ここまで書いてから今日1月23日、毎度の日曜日のように母の居る施設を訪問した。母は絵手紙の見本が載った冊子を手にしていた。それで思い出したが、以前、絵具やパレットが入った絵手紙セットを買って母に渡したことがあって、それにこの冊子もついていた。どれどれと冊子をぺらぺらめくると、見本の絵に添えられて「形より中身よ」「シャキッと」「気分も大きく」の字も見える。はじめ、それも母が落書きしたのかと思ったが、よくよく見ると印字である。はは~ん、これらは別に母自身の言葉ではなかったかと思うと同時に、そうした見本の文字を絵とともに写実した母のことが、なおさらかわいそうな感じがした。人間には、絵になる物語が必要なのだ。
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阿蘭陀人と行く横浜

2011年01月16日 19時34分53秒 | Journal


 芭蕉が「桃青」と名乗っていた36歳春の句に「阿蘭陀(おらんだ)も花に来にけり馬に鞍(くら)」がある。なんでも芭蕉は、江戸へやってきたオランダ人使節の乗馬姿に鞍馬天狗をイメージして、この句を詠んだのだとか。
 北京から帰ってきた翌日の3日、そのオランダから客を迎えて、ぶらぶらと横浜を散策した。妻の友人夫婦がアメリカのワシントンDCに住んでいて、その夫の方の両親をオランダから呼んで、日本で合流したのだ。オランダの両親は夫が弁護士、妻が裁判官。ワシントンの若夫妻は両人ともIMFの職員で、妻はシンガポール出身という家族構成。みなとみらい線の日本大通り駅で待ち合わせ、中華街の関帝廟に参り、状元楼で上海料理を食べて、山下公園から大桟橋、赤レンガ、みなとみらいと歩いた。道々の会話で、面白かったのは、まず、待遇が良いことで知られるエリート中のエリートIMF職員も有給休暇をとるのがけっこう大変だという話。まあ、それでも日本の一般企業とは比較にならないであろう。裁判官のお母さんは知らない土地なのに先頭をきってどんどん歩いていくが、ときどき小生に近づいてちょっとした確認をする。聞くと、彼女は何事にもてきぱきと判断が早いそうである。仕事中は知らないが、かなり明るい。日本の司法関係者にユーモアを感じたことはあまりないが、アメリカでも外国の裁判官はニコニコしていてけっこうユーモアリストである。一方、弁護士のお父さんは、アムステルダムの交易関連会社の顧問弁護士をやっているそうだが、話がかなり理屈ぽく、方々で引っかかって歩きは遅れがちである。両人とも職業的性格と思われる。その弁護士のお父さん、赤レンガ倉庫のスケートリンクを眺めながら「わたしは毎朝、スケートで滑って事務所まで行きます」と妻に説明した。それから、寒空に男どもはそれぞれ用を足したあと、「日本の男子トイレは壊れているものがないが、オランダは3つに1つは使えない、日本はパーフェクトにオーガナイズされた社会だ」とお父さんが小生にコメントすると、隣の息子が同感だとうんうん頷いたのも外国人親子らしい。そして何より、オランダという異国の本場から来た人々は、150年やそこらの赤レンガレベルの異国情緒や横浜のハイカラさなどてんから馬鹿にすると思っていたら、案外に感心しきりだったことも小生には意外であった。
 ところで、あの江戸時代の花の季節にやってきた阿蘭陀人たちは、日本の何に感心したのだろうか。今の横浜よりも、お江戸はずっともの珍しかったであろうことは間違いない。
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2011正月の北京Ⅲ 没頭脳と鉄腕アトム

2011年01月13日 20時17分17秒 | Journal


 今回の北京行きでは、一つの達成目標があった。それは近頃、小生が妻の小妹からいただいた有り難いニックネーム「没頭脳(メイトウナオ)」の原典となる漫画本「没頭脳和不高興」を購入することであった。そのために王府井書店へ出向いたが、品切れで残念ながら漫画本は手に入らなかった。写真は、日本に帰って来てから、インターネットで検索して得た表紙の写真だ。左側の没頭脳は、背は小生と同じく高いが、はげ頭に毛三本か四本である。実際、自分にはもう少し毛は生えておるが、妻から見ると、こういったイメージが小生なのかと考え深い。没頭脳とは、日本語に直訳すればノータリンといったことであろうが、多分、望むらくは、もう少し穏当に、ポカンとして忘れっぽいといった程度であろうか。いつもポカンとした没頭脳少年は、なんとなくいつも不機嫌な不高興(プーガオシン)少年とともにいろいろな経験をへて、長じては立派な大人になるそうだ。つまり、人間は生まれつきだけではない。心がけ次第で発展できるという教育的な教訓だ。教師でもある妻も小生をそう見ているとすれば言葉がない。それから王府井書店の棚を見てまわると、日本関係の書籍もけっこう見かける。昔の「抗日戦争」は今は「中日戦争」にあらたまり、日本の大躍進の秘訣を探るために「明治維新」についてはいまだに関心が強いようである。そして、鉄腕アトムは少年の愛読者を得ているだけではない。消費を喚起するセールスロボットとして十万馬力を発揮しているのだ。ちなみに、中国語の歌詞で鉄腕アトムは「鉄臂阿童木(ティエビアトム)」。あの懐かしい谷川俊太郎作詞・高井達雄作曲の空を越えてラララの歌は、こうなるのだ。我が雅名、頓休(tonkyu)に近く、実は「没頭脳」も気に入っているのだが、しいて言えば、僕は「鉄腕アトム」と呼ばれたかった。
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2011正月の北京Ⅱ 北京のお母さんが老人ホームを移るまで

2011年01月07日 21時31分45秒 | Journal


 北京のお母さんは齢93である。視力は白内障手術の粗末な失敗で片目が失明同然である。耳は遠く、良い補聴器もないことから聞こえにくい。耳のわきで大声で話しかける。数年前から認知症があり、1分前にした同じ質問を繰り返したりするが、日本と違い、認知症は社会の認知を得られていない。しかし、彼女は、ときとして頭が鋭く働くから馬鹿にしてはならない。昔は、X線技師として病院で働くかたわら、大学教授の妻として4男1女を育て上げた。老いてから、アパートに地方からやってきたお手伝いさんを何人も雇うが、長続きしない。老人ホームでも同室者や入居者となかなかうまくいかない。自分の流儀を譲らないタイプなのだ。今回の北京滞在は、このお母さんを今の介護に問題がある老人ホームから別の老人ホームに移すことが最大のテーマとなり、その案件に私もすっかり巻き込まれてしまった。

 28日(火曜日)、老舎故居近くのレストランをでてホテルへの帰路、王府井の逆光の道路に地下から蒸気の煙が立ち上っている。昔、ニューヨークで見た同じ光景を思い出した。ホテルの部屋で、小妹の三番目と四番目の兄さんを迎えた。93歳になるお母さんを新たに入居させたいと考えていた老人ホームで総経理と会談をもつために、待ち合わせたのだ。現在、お母さんが入居している老人ホームは、北京城区(市街地)から北に遠く離れてあり、息子たちが訪ねていくには不便な場所だったし、施設の介護も不十分だと判断したからだ。食事が入れ歯で噛み切るにはかたく、それを何度も調理場の責任者に抗議しても改善が見られないし、おしめの取り替えも十分ではなかった。ただ、新たに入居を検討した老人ホームに提出したお母さんの健康診断書で、心臓の状態に問題があると受け入れを見送られそうになっていた。少し前、お母さんは突発性の不整脈があって短期間の入院を経験していた。その事実がそのまま先方に伝わってしまい、施設では万が一の対応を考えて受け入れに不安をもったのだ。あらためてお母さんの心電図をとり直し、その診断書を持参することにした。小妹の兄さんたちと同乗した車がホテルから30分ほど離れた北京の南に位置する老人ホームへつくと、ひどく驚かされた。闇の中、建物の輪郭をふちどってネオンが賑々(にぎにぎ)しく輝いている。中国では珍しい趣向でもないが、どうしたって老人ホームには見えない。日本ならばパチンコ屋だ。外まで迎えにでた女性は、いかにもホテルのフロントにいるようなスーツ姿の女性で、手には無線機をもっている。建物内を紹介された。施設には、なぜか派手な仏間、風呂にサウナ、マッサージルームやフィットネスルームがあって、とても老人ホームとは思えない。もともと接待所というか、一種のホテルにする予定で建設して、計画を変更して老人施設にしたそうである。すでに7人ほど老人が入居しているとか。今後、入居可能な部屋を何室も見学した。どの部屋にもHaier(ハイアール)の薄型テレビが置かれており、機能的な都会のホテルといった感じを否めない。総経理は30代半ばぐらいの小太りの男で、今のところどういう老人を入居させたらいいのか、どういうケアが必要なのか、基準が定まっていないと正直なところを語った。小妹のこの施設はどういうコンセプトで運営されているのかとの質問に、総経理は「健康な老人たちを意識している」と答えた。老人介護については認識が欠けているのだ。現地で落ち合った二番目の兄さんが、彼はかつて長春の国営自動車工場で工場長をしていたが、病院と老人ホームは違うのだからここでは病院のような対応は無用だし、第一、母親の心臓はそんなに悪くないので、必要以上に受け入れに慎重になることはないと、いかにも上司が部下に注意するような調子で上段から述べた。病院の近くで患者家族むけに簡易格安な旅館を経営する三番目の兄さんが、経営者責任論で熱弁をふるった。忙しい総経理がこうやって前回と今回の二度、家族との面談に自身からでばってくるのは「見上げたものだ。その熱意だけでも経営者としての立派な資質がうかがえる」とべた褒めしたのである。この言葉に若い総経理は大いに感じ入って、条件付きで入居を許すところまで話は好転した。別れぎわに、小生も「謝謝(シエシエ)!」と総経理と握手した。あとで小妹に聞くと、この老人ホームのオーナーは、山西省の炭鉱開発で大儲けをした人物だそうだ。その山師的なところ、成金的な臭(くさ)みが、施設の雰囲気にいやがうえにもでていた。

 29(水曜日)、遅めの朝食をとってから、小妹のお母さんのところへタクシーででかけた。ついたとき、お母さんはちょうど昼食を他の入居者と一緒に食べているところだった。娘が立っているのに気がつくと、嬉しそうに手をあげて、すぐに立ち上がろうとした。食膳にはほとんど手をつけていない。ただ、昨日の施設に比べて、ここは落ち着いた雰囲気があるし、廊下でも部屋でも窓があって開放的で明るい。お母さんの部屋で、小妹が訊ねると、お母さんも「あの部屋は暗いね」と、息子につれられて施設を訪問した際の感想を述べた。ただし、自分の四番目の息子の家から近いことを最大のメリットとしてあげた。休日をつぶして遠いところから毎週訪ねてくる息子の負担を気に病んでいるのだ。
 小妹は、お母さんを大晦日にホテルへつれてきて、1泊とめることにした。さらに、1日の昼、兄弟親戚が集合して昼飯を食べる計画ももちあがった。そのために、小妹は兄弟への連絡やレストランの選定で多事となり、小生もお付き合いで物見遊山どころではなくなった。

 30日(木曜日)の昼、お母さんの昼食にどうかと、北京飯店7階で四川風料理を食べる。麻婆豆腐が非常に辛い。別の皿には、唐辛子で赤くなった油の池の上に茄子が重なっている。マーボー豆腐を食って鼻水がでるが、うまいことはうまい。茄子のほうは油が気になってほとんど口にしなかった。夜、小妹が仕事でも世話になっている中国統計局の人とその奥さんと上海料理のレストランで会食。泥鰌(どじょう)やらアヒルの血スライスを食べる。そのあと、8時すぎにホテルへ帰ってきてから、昨年、日本でも会い、唐山へも同行してもらった小妹の社会科学院の友人とロビーで落ち合った。彼女に「温かそうなコートですな」と言うと、「蒲団を巻いたような服ですね」と返した。ユーモアがある。部屋で10時ごろまで和気藹々と話した。彼女は小生のために「板藍根顆粒」(北京同仁堂)という風邪薬をたくさん持ってきてくれた。

 31日(金曜日)の大晦日の晩、北京貴賓楼飯店8階の一室で、一人、紅白歌合戦をみた。妻の小妹とお母さんは6階で親子水入らずだ。
 午前中に、お母さんの老人ホームへでかけると、お母さんが部屋に居ない。いつも食事をとる共有スペースで入居者を集合させて職員がゲームを行っていた。職員がゲームに興じ、おじいさんおばあさんがミカンや南京豆を食べながらただそれを眺める図式だ。それからタクシーでお母さんをホテルへつれてきた。(写真の施設全体の模型はこのとき撮ったもの。新しく候補になっている老人ホームではない) 北京も大晦日とあって道はかなりの渋滞だった。夕刻、貴賓楼からレストランの予約をとっておいた北京飯店へ渡ろうとして、階段やエスカレーターがネックになった。中国でバリアフリーは普及していない。エスカレーターの前で、小生が負ぶっていこうかと車椅子に背をむけてうずくまったが、お母さんは小生の肩に手をかけようとせず、いいよいいよと笑った。仕方なく、貴賓楼側に引き返して、そこで晩飯に食べた広東料理に、お母さんも「プーツオ(悪くない)」と満足げだったので、まずまずだった。お母さんは、もともと料理が好きで、グルメでもある。食事後、車椅子にお母さんをのせると、レストランの女性がわざわざエレベーターホールまで先導してくれた。北京飯店は国営企業で、棟つづきの貴賓楼は民営企業。顧客サービスは民営が格段にいい。
 ところで、今朝、小妹の兄さんから彼女に連絡が入って、例の老人ホームは月7000元で個室を用意すると言ってきたそうだ。大体、日本円で10万円だから、小生は「まあ、日本ならば安いとなるがな」と感想を述べると、小妹は「日本ならばそうだろうけど」との返事だった。彼女の兄たちの中には2000元やそこらで夫婦と子供の月々の生活をやりくりしてきた苦しい体験を持つ人も居て、そうした貧乏体験からすれば母親一人にかかる月々7000元は相当な高額に思えるのだという。ところで現在入っている老人ホームは5500元だし、当初の二人部屋の案だと6500元程度の提示額だった。奇妙なことに、この前、北京にきたときに行った小妹のマンションのそばにある老人ホームからも1部屋あいたと連絡が彼女の携帯に入り、料金は一人部屋だと7000元、二人部屋だと6000元という。「中国の困ったところは、なんでも金次第なところよ」と小妹は何度も何度もため息をつく。
 その夜、ベッドで紅白を一人眺めていて、植村花菜さんの「トイレの神様」をはじめて聴き、「日本の女の子はやさしいな」と、ほろっときた。北京的感傷だ。

 2011.1.1(土曜日)、元旦の朝、北京は晴天で、相変わらず風が強く、向かいのビルのずらっと並んだ紅旗がどれも激しくはためいている。元旦なのに朝から車が多い。
 10時ごろ荷物をかつぎ小妹とお母さんが居る部屋に戻り、バルコニーで、この原稿を書いている。今日は2011年1月1日で、その午前11時11分から1並びのゲン担ぎで結婚式を開始するために、吹き抜けの階下は人声と音楽でひどく騒がしい。さっき、エレベーターのガラス越しに見ていると、スクリーンにとりえのない小柄な新郎と新婦が映し出されていた。花婿と花嫁は陳腐でも親はたいそうな金持ちなのであろう。お母さんは、室内のソファーに座って困ったものだと「アイヤー」を連発している。11時にくることになっている息子たちが渋滞に巻き込まれていないかと心配しているのだ。小妹は母親の世話で頭痛がしてきたとこめかみを押さえる。新年から多事多難だ。
 お母さんの心配どおり、渋滞で皆がそろったのは12時近かった。長男夫婦の二男夫婦と赤ん坊も同席することに。皆でエレベーターで下りるとき結婚式が見え、車椅子のお母さんが「ほお」と唸った。それから車3台に分乗して5分ほどの老舎故居にも近い老舗格の山東料理のレストランへでかけた。このレストランを予約した四番目のお兄さんは、外資系企業に働いていて、接待でこういうところに詳しい。素朴で、素材を生かしたおいしい料理だ。しかも、12人で1000元と安い。
 午後2時、皆してホテルに戻ってくると、お母さんの老人ホームの件で小妹と息子4人の家族会議となった。奥さん連中は、亭主たちの話には加わらず、別にベランダで井戸端会議だ。会議は5時すぎまでつづいた。新しいホテルタイプの老人ホームは最初に没になった。それから議論の中途で、安いところと遠いところをインターネットで検索するような動きもあったが、小妹が「今の老人ホームでさえ遠くて訪ねるのが大変なのに、60キロも離れた施設にどうして母親をやれるの。それに、お母さんがアパートを売却したお金や年金などたくわえで老人ホームの費用を払っているのに、その費用をこれ以上安くあげて残す何の必要があるの」と力説し、封じ込めた。お母さんの老後資金は50万元残っているそうで、月々6000元で年間7万元強だから、7年分は足りることになる。7年後、お母さんは100歳だ。そして、小妹と二番目のお兄さんが彼女の朝陽区のマンションそばの病院施設に併設された老人ホームを強く押し、他の二人も同意したので、二番目のお兄さんがすぐに電話で施設と折衝し、入居が決まった。二人部屋の同室者は、清華大学の付属中学で教鞭をとっていた元教師で、99歳だが、まだ一人で歩くそうだ。会議が成功裏におひらきとなって、すでに日が暮れて夜の闇が冷たい空気を重くするホテルの玄関で、お母さんをはじめ一行を見送った。明朝の出発にそなえてトランクの荷造りをしてから、照明にライトアップされて綺麗なホテルをあとに、クリスマスのイルミネーション飾りが残る王府井にでて、「外文書店」で辞書やら老北京の伝説集など何冊かの本と土産用に栞(しおり)を幾つか買ってから、ホテルへの帰り道の途中にある有名な「東来順」で、北京風の羊肉のしゃぶしゃぶを食べた。小妹によれば、この店は、昔は北京の地元民で大繁盛していたが、今は観光ルートになって、値段も高いことから地元の人は寄りつかなくなったという。味は、やはり日本のしゃぶしゃぶの方がうまいに決まっている。あの胡桃(くるみ)のたれはどうも苦手だ。

 日本帰って来てからすぐに、お母さんは新しい老人ホームに引っ越しをした。入居者2人に1人の介護者がつき、食事なども残したものをチェックするなど、かなりレベルの高い介護が実施されている由(よし)。ただし、99歳の先輩と同居する北京のお母さんの生活満足度は未確認だ。多分、お母さんのことだ。文句の一つや二つ、一筋縄ではいくまい。
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2011正月の北京Ⅰ 老舎故居を訪ねて

2011年01月04日 13時02分12秒 | Journal


 2010.12.28(火曜日) 昨晩から妻の小妹(シャオメイ)と北京へきている。彼女の里帰りに同行したかたちだ。この前まで北京へくると彼女のマンションに泊まってきたが、そこはいま貸し出している。1年に夏冬の10日やそこらしか使わないのではもったいない。泊まっているのは写真建物左端の五星紅旗はためく北京貴賓楼飯店(Grand Hotel Beijing)という5つ星ホテル。長安街に面し天安門にごく近く、有名な4つ星の北京飯店(Beijing Hotel)に隣接する。この時期は閑散期なので、1ランク上のスイートに部屋を格上げしてくれた。フロアの吹き抜け空間に面した部屋のバルコニーに置かれた円卓でパソコンを叩いている。外は晴れてはいても氷点下の気温だが、ここは明るく原稿を書くのにはもってこいだ。
 ホテルの外にでることなく、廊下を抜けて隣の北京飯店のわきから王府井(ワンフージン)にでられた。いま、旅行にも持参した『駱駝祥子(ロート・シアンツ)』(1936年)の作者、老舎の旧宅を目指した。外は日ざしはあるが北海道でいう「しばれる」という冷気に包まれており、思わず襟元のマフラーで首を隠す。途中から広く歩行者天国になっている王府井大街をずっと行って、灯市口西街を左に折れると、右手の細い路地を入ったところの豊富胡同に老舎故居があった。老舎は、1950年初めにアメリカから帰国すると、この場所に住居を購入し、以後、1966年8月に北京の北にある太平湖に入水自殺するまで16年間ここに暮らした。入場は無料。スリムで黒の細いジーンズをはいた恰好の良い初老の管理人によれば、出世した老舎の子供は、父親のことをたくさんの人に知ってもらいたくて、ここを入館無料で運営しているのだとか。入ってみれば中庭のある小さな四合院である。文人らしい静かで質素な街中の隠れ屋である。彼の作品に登場する人物たちと同じく、北京をこよなく愛した老舎は、あくまで北京の真ん中で北京の街の音に包まれて暮らしていたかったのだろう。庭に大きな銅製の金魚鉢があって、展示の写真にも残っているが、執筆のかたわら老舎は大鉢に寄りそって金魚を眺めて心を休めた。1年前の冬、やはり北京を訪れた際に魯迅の故居へも行ったが、同じ四合院といっても少し雰囲気が違っている。魯迅は時代の先端に立って厳しく時局と対峙した吶喊(とっかん)の政治的作家だったことから、毛沢東は大いに評価した。老舎はあくまで文人然として、温和な郷愁の作家だった。平和な時代であれば、老舎のほうが幸せな作家であり得たであろう。しかし、彼は、実に穏当な弁明を受け入れない容赦ない過酷の時代に生きた。車引きである祥子の主人、曹先生のように「要領よくたちまわって自分のためにインチキな箔(はく)をつけることを拒否した。良心に照らし、自分が立派な闘志になれぬことを不甲斐なく思うと同時に、いっぽうまた、いかさま闘志になることをも拒否したのである」(岩波文庫189-190p)。老舎先生が周恩来と懇意であったのだと、二人が一緒にうつる何枚かの写真で知る。文革の折、彼の悲劇は周恩来が手を差し伸べる時もなく訪れたのであろう。彼は公衆の面前で耐えがたい辱めを受けた。面子(メンツ)を尊ぶ満州族の出身であったインテリ作家の老舎は、翌朝、家を出、夏の一日を湖畔ですごし、夜に入ってから身を投げた。
 老舎故居に近い北京料理のレストランに入って、昼飯に、ばんばんじゃんと羊肉のうどんを食べた。羊肉はジンギスカンをうどんにしたような味だった。今まで何度か北京を訪問したなかで、このレストランに一番、老北京らしい雰囲気を感じたが、小妹は「これは比較的新しいのじゃない」と言った。来るとき道を訊ねた80前後の婆さんたちの一団が十数人と、一段高いところの円卓2つに分かれて女学校の同窓会のように楽しげに会食をしていた。ここは、ちょっと古風で濃厚に北京だという気がした。まだ読んだこともないのだが、まるで老舎が描いた「茶館」のように。最後の写真は「老舎」の名がついた北京中心街の茶館だ。
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