北京のお母さんは齢93である。視力は白内障手術の粗末な失敗で片目が失明同然である。耳は遠く、良い補聴器もないことから聞こえにくい。耳のわきで大声で話しかける。数年前から認知症があり、1分前にした同じ質問を繰り返したりするが、日本と違い、認知症は社会の認知を得られていない。しかし、彼女は、ときとして頭が鋭く働くから馬鹿にしてはならない。昔は、X線技師として病院で働くかたわら、大学教授の妻として4男1女を育て上げた。老いてから、アパートに地方からやってきたお手伝いさんを何人も雇うが、長続きしない。老人ホームでも同室者や入居者となかなかうまくいかない。自分の流儀を譲らないタイプなのだ。今回の北京滞在は、このお母さんを今の介護に問題がある老人ホームから別の老人ホームに移すことが最大のテーマとなり、その案件に私もすっかり巻き込まれてしまった。
28日(火曜日)、老舎故居近くのレストランをでてホテルへの帰路、王府井の逆光の道路に地下から蒸気の煙が立ち上っている。昔、ニューヨークで見た同じ光景を思い出した。ホテルの部屋で、小妹の三番目と四番目の兄さんを迎えた。93歳になるお母さんを新たに入居させたいと考えていた老人ホームで総経理と会談をもつために、待ち合わせたのだ。現在、お母さんが入居している老人ホームは、北京城区(市街地)から北に遠く離れてあり、息子たちが訪ねていくには不便な場所だったし、施設の介護も不十分だと判断したからだ。食事が入れ歯で噛み切るにはかたく、それを何度も調理場の責任者に抗議しても改善が見られないし、おしめの取り替えも十分ではなかった。ただ、新たに入居を検討した老人ホームに提出したお母さんの健康診断書で、心臓の状態に問題があると受け入れを見送られそうになっていた。少し前、お母さんは突発性の不整脈があって短期間の入院を経験していた。その事実がそのまま先方に伝わってしまい、施設では万が一の対応を考えて受け入れに不安をもったのだ。あらためてお母さんの心電図をとり直し、その診断書を持参することにした。小妹の兄さんたちと同乗した車がホテルから30分ほど離れた北京の南に位置する老人ホームへつくと、ひどく驚かされた。闇の中、建物の輪郭をふちどってネオンが賑々(にぎにぎ)しく輝いている。中国では珍しい趣向でもないが、どうしたって老人ホームには見えない。日本ならばパチンコ屋だ。外まで迎えにでた女性は、いかにもホテルのフロントにいるようなスーツ姿の女性で、手には無線機をもっている。建物内を紹介された。施設には、なぜか派手な仏間、風呂にサウナ、マッサージルームやフィットネスルームがあって、とても老人ホームとは思えない。もともと接待所というか、一種のホテルにする予定で建設して、計画を変更して老人施設にしたそうである。すでに7人ほど老人が入居しているとか。今後、入居可能な部屋を何室も見学した。どの部屋にもHaier(ハイアール)の薄型テレビが置かれており、機能的な都会のホテルといった感じを否めない。総経理は30代半ばぐらいの小太りの男で、今のところどういう老人を入居させたらいいのか、どういうケアが必要なのか、基準が定まっていないと正直なところを語った。小妹のこの施設はどういうコンセプトで運営されているのかとの質問に、総経理は「健康な老人たちを意識している」と答えた。老人介護については認識が欠けているのだ。現地で落ち合った二番目の兄さんが、彼はかつて長春の国営自動車工場で工場長をしていたが、病院と老人ホームは違うのだからここでは病院のような対応は無用だし、第一、母親の心臓はそんなに悪くないので、必要以上に受け入れに慎重になることはないと、いかにも上司が部下に注意するような調子で上段から述べた。病院の近くで患者家族むけに簡易格安な旅館を経営する三番目の兄さんが、経営者責任論で熱弁をふるった。忙しい総経理がこうやって前回と今回の二度、家族との面談に自身からでばってくるのは「見上げたものだ。その熱意だけでも経営者としての立派な資質がうかがえる」とべた褒めしたのである。この言葉に若い総経理は大いに感じ入って、条件付きで入居を許すところまで話は好転した。別れぎわに、小生も「謝謝(シエシエ)!」と総経理と握手した。あとで小妹に聞くと、この老人ホームのオーナーは、山西省の炭鉱開発で大儲けをした人物だそうだ。その山師的なところ、成金的な臭(くさ)みが、施設の雰囲気にいやがうえにもでていた。
29(水曜日)、遅めの朝食をとってから、小妹のお母さんのところへタクシーででかけた。ついたとき、お母さんはちょうど昼食を他の入居者と一緒に食べているところだった。娘が立っているのに気がつくと、嬉しそうに手をあげて、すぐに立ち上がろうとした。食膳にはほとんど手をつけていない。ただ、昨日の施設に比べて、ここは落ち着いた雰囲気があるし、廊下でも部屋でも窓があって開放的で明るい。お母さんの部屋で、小妹が訊ねると、お母さんも「あの部屋は暗いね」と、息子につれられて施設を訪問した際の感想を述べた。ただし、自分の四番目の息子の家から近いことを最大のメリットとしてあげた。休日をつぶして遠いところから毎週訪ねてくる息子の負担を気に病んでいるのだ。
小妹は、お母さんを大晦日にホテルへつれてきて、1泊とめることにした。さらに、1日の昼、兄弟親戚が集合して昼飯を食べる計画ももちあがった。そのために、小妹は兄弟への連絡やレストランの選定で多事となり、小生もお付き合いで物見遊山どころではなくなった。
30日(木曜日)の昼、お母さんの昼食にどうかと、北京飯店7階で四川風料理を食べる。麻婆豆腐が非常に辛い。別の皿には、唐辛子で赤くなった油の池の上に茄子が重なっている。マーボー豆腐を食って鼻水がでるが、うまいことはうまい。茄子のほうは油が気になってほとんど口にしなかった。夜、小妹が仕事でも世話になっている中国統計局の人とその奥さんと上海料理のレストランで会食。泥鰌(どじょう)やらアヒルの血スライスを食べる。そのあと、8時すぎにホテルへ帰ってきてから、昨年、日本でも会い、唐山へも同行してもらった小妹の社会科学院の友人とロビーで落ち合った。彼女に「温かそうなコートですな」と言うと、「蒲団を巻いたような服ですね」と返した。ユーモアがある。部屋で10時ごろまで和気藹々と話した。彼女は小生のために「板藍根顆粒」(北京同仁堂)という風邪薬をたくさん持ってきてくれた。
31日(金曜日)の大晦日の晩、北京貴賓楼飯店8階の一室で、一人、紅白歌合戦をみた。妻の小妹とお母さんは6階で親子水入らずだ。
午前中に、お母さんの老人ホームへでかけると、お母さんが部屋に居ない。いつも食事をとる共有スペースで入居者を集合させて職員がゲームを行っていた。職員がゲームに興じ、おじいさんおばあさんがミカンや南京豆を食べながらただそれを眺める図式だ。それからタクシーでお母さんをホテルへつれてきた。(写真の施設全体の模型はこのとき撮ったもの。新しく候補になっている老人ホームではない) 北京も大晦日とあって道はかなりの渋滞だった。夕刻、貴賓楼からレストランの予約をとっておいた北京飯店へ渡ろうとして、階段やエスカレーターがネックになった。中国でバリアフリーは普及していない。エスカレーターの前で、小生が負ぶっていこうかと車椅子に背をむけてうずくまったが、お母さんは小生の肩に手をかけようとせず、いいよいいよと笑った。仕方なく、貴賓楼側に引き返して、そこで晩飯に食べた広東料理に、お母さんも「プーツオ(悪くない)」と満足げだったので、まずまずだった。お母さんは、もともと料理が好きで、グルメでもある。食事後、車椅子にお母さんをのせると、レストランの女性がわざわざエレベーターホールまで先導してくれた。北京飯店は国営企業で、棟つづきの貴賓楼は民営企業。顧客サービスは民営が格段にいい。
ところで、今朝、小妹の兄さんから彼女に連絡が入って、例の老人ホームは月7000元で個室を用意すると言ってきたそうだ。大体、日本円で10万円だから、小生は「まあ、日本ならば安いとなるがな」と感想を述べると、小妹は「日本ならばそうだろうけど」との返事だった。彼女の兄たちの中には2000元やそこらで夫婦と子供の月々の生活をやりくりしてきた苦しい体験を持つ人も居て、そうした貧乏体験からすれば母親一人にかかる月々7000元は相当な高額に思えるのだという。ところで現在入っている老人ホームは5500元だし、当初の二人部屋の案だと6500元程度の提示額だった。奇妙なことに、この前、北京にきたときに行った小妹のマンションのそばにある老人ホームからも1部屋あいたと連絡が彼女の携帯に入り、料金は一人部屋だと7000元、二人部屋だと6000元という。「中国の困ったところは、なんでも金次第なところよ」と小妹は何度も何度もため息をつく。
その夜、ベッドで紅白を一人眺めていて、植村花菜さんの「トイレの神様」をはじめて聴き、「日本の女の子はやさしいな」と、ほろっときた。北京的感傷だ。
2011.1.1(土曜日)、元旦の朝、北京は晴天で、相変わらず風が強く、向かいのビルのずらっと並んだ紅旗がどれも激しくはためいている。元旦なのに朝から車が多い。
10時ごろ荷物をかつぎ小妹とお母さんが居る部屋に戻り、バルコニーで、この原稿を書いている。今日は2011年1月1日で、その午前11時11分から1並びのゲン担ぎで結婚式を開始するために、吹き抜けの階下は人声と音楽でひどく騒がしい。さっき、エレベーターのガラス越しに見ていると、スクリーンにとりえのない小柄な新郎と新婦が映し出されていた。花婿と花嫁は陳腐でも親はたいそうな金持ちなのであろう。お母さんは、室内のソファーに座って困ったものだと「アイヤー」を連発している。11時にくることになっている息子たちが渋滞に巻き込まれていないかと心配しているのだ。小妹は母親の世話で頭痛がしてきたとこめかみを押さえる。新年から多事多難だ。
お母さんの心配どおり、渋滞で皆がそろったのは12時近かった。長男夫婦の二男夫婦と赤ん坊も同席することに。皆でエレベーターで下りるとき結婚式が見え、車椅子のお母さんが「ほお」と唸った。それから車3台に分乗して5分ほどの老舎故居にも近い老舗格の山東料理のレストランへでかけた。このレストランを予約した四番目のお兄さんは、外資系企業に働いていて、接待でこういうところに詳しい。素朴で、素材を生かしたおいしい料理だ。しかも、12人で1000元と安い。
午後2時、皆してホテルに戻ってくると、お母さんの老人ホームの件で小妹と息子4人の家族会議となった。奥さん連中は、亭主たちの話には加わらず、別にベランダで井戸端会議だ。会議は5時すぎまでつづいた。新しいホテルタイプの老人ホームは最初に没になった。それから議論の中途で、安いところと遠いところをインターネットで検索するような動きもあったが、小妹が「今の老人ホームでさえ遠くて訪ねるのが大変なのに、60キロも離れた施設にどうして母親をやれるの。それに、お母さんがアパートを売却したお金や年金などたくわえで老人ホームの費用を払っているのに、その費用をこれ以上安くあげて残す何の必要があるの」と力説し、封じ込めた。お母さんの老後資金は50万元残っているそうで、月々6000元で年間7万元強だから、7年分は足りることになる。7年後、お母さんは100歳だ。そして、小妹と二番目のお兄さんが彼女の朝陽区のマンションそばの病院施設に併設された老人ホームを強く押し、他の二人も同意したので、二番目のお兄さんがすぐに電話で施設と折衝し、入居が決まった。二人部屋の同室者は、清華大学の付属中学で教鞭をとっていた元教師で、99歳だが、まだ一人で歩くそうだ。会議が成功裏におひらきとなって、すでに日が暮れて夜の闇が冷たい空気を重くするホテルの玄関で、お母さんをはじめ一行を見送った。明朝の出発にそなえてトランクの荷造りをしてから、照明にライトアップされて綺麗なホテルをあとに、クリスマスのイルミネーション飾りが残る王府井にでて、「外文書店」で辞書やら老北京の伝説集など何冊かの本と土産用に栞(しおり)を幾つか買ってから、ホテルへの帰り道の途中にある有名な「東来順」で、北京風の羊肉のしゃぶしゃぶを食べた。小妹によれば、この店は、昔は北京の地元民で大繁盛していたが、今は観光ルートになって、値段も高いことから地元の人は寄りつかなくなったという。味は、やはり日本のしゃぶしゃぶの方がうまいに決まっている。あの胡桃(くるみ)のたれはどうも苦手だ。
日本帰って来てからすぐに、お母さんは新しい老人ホームに引っ越しをした。入居者2人に1人の介護者がつき、食事なども残したものをチェックするなど、かなりレベルの高い介護が実施されている由(よし)。ただし、99歳の先輩と同居する北京のお母さんの生活満足度は未確認だ。多分、お母さんのことだ。文句の一つや二つ、一筋縄ではいくまい。