Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

今朝、家のベランダに木槿の花が咲いていた。

2011年06月28日 21時18分45秒 | Journal


 三か月ぐらい前に買った鉢植えの木槿(むくげ)が今朝はじめて一輪咲いていた。木槿と言えば、なにより芭蕉の「道の辺(べ)の木槿は馬に喰われけり」の飄逸の句だ。ただ、私にとって、ムクゲは、その花の名も知らぬ札幌での学生時代に、よく見かけて、強い印象になっている。その頃は、朝、食パンに蜂蜜をたらしたのを食べ、それっきり昼近くにはたいてい腹がすいて、夏の陽盛りにサンダル履きでふらふらと大学の生協まで何キロもの道のりを歩いて学食のホッケや豚汁にありついた日が多かった。まさに長身の痩身そのもので、句の馬のように木槿を喰ってしまいそうだったが、当時の私はそんなユーモア心もなく、道に茫然と立ち止まり、かなり難しい青年の顔つきになって、この壁の前などにすくっと超越したふうに咲く花を考えもなく眺めた記憶がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霞が関から銀座へ歩きながら、経産省の叙勲とトリウム原子力、その他もろもろについて考える。

2011年06月14日 20時26分46秒 | Journal


 朝、経済産業省へ行って春の褒章・勲章の資料をもらおうとしたら、褒章資料は渡せるが、勲章資料は午後の3時に解禁だと言う。どうも手元にすでに勲章資料もそろっているようだが、決まりは決まりということであろう。昨日、電話した時は、勲章は数日後のようなことを言っていたが、仕方なく「では、また午後来ます」と広報課のアルバイトらしい女性に告げて、午後から出直した。また同じ女の子に名刺を1枚渡して引き換えに勲章資料をもらう。階下で調べると、我が業界の関係者は一人も対象になっていない。くたびれ損だ。この経産省の褒章・勲章対象者の大半は、現か元の「工業統計調査員」である。統計調査員とは、国勢調査や労働力、家計、工業、商業の各種調査に従事する非常勤の公務員で、要は、経産省は自分たちの統計データ集めのためにフィールドワークをしてくれた人々の労をねぎらう目的で、褒章・勲章を発行しているのである。こういうの少し適切性に疑問ありだな。そんなことを考えながら、政府刊行物センターのわきを通ると、窓ガラスに「トリウム原子力を知っていますか?」と本の宣伝らしいチラシが貼りつけてある。知らないな。小生は、宇宙は核反応を繰り返して、現在の物質界をつくりあげ、地球も人間もいわば核反応の産物であるから、人類が核反応自体を無暗に恐れるのはナンセンスだと考えてきた。今回のような原発事故の本質は、人類が核反応を未熟な発想と管理のもとに置いて、この地球表面のような放射能に弱い/放射能から守られた「温室的空間」に人工的な放射性物質を拡散したことにある。だから、別の発想と方法で核反応からエネルギーを得る技術があれば、ベターだとも考える。さっそく800円で買った。「核なき世界」の実現と「核の平和利用」をつなぐ。それがトリウム――と本の帯にある。
 次に、交差点を渡って、日比谷公園にさしかかり、日比谷図書館の耐震改修工事がかなり進んでいるさまを観察。外付けの大きな鋼製ブレースが見えた。前は、ここの地階にある食堂で昼飯をよく食べたものだ。公園を抜けて、銀座側に渡ろうとすると、おや、これまた新装の日比谷花壇の建物が目に入った。なるほどグッド・デザインだ。それから宝塚劇場のわきを通り、有楽町のガード下までくると、いつものように早々とやきとりに一杯やる幸せな人々が座っている。さらに、交差点を渡りながらソニービルの平井堅さんが赤い風船を手に持つ大きな写真を眺める。小生は、彼が紅白で歌った「大きな古時計」ぐらいしか知らない。そのとき、なぜあんなに苦しげに歌うのだろうか?それに、なぜフレーズのあいだに息を吸い込む妙な音をいちいち挟むのだろうか?と素朴に考えて、余り評価しなかった。しかし、あんな大きな赤い風船の写真と一緒に天下のソニービルに出るのだから、世間の評価はさぞかし膨らんでいるのであろう。そんな風に頭の中に真っ赤な疑問のバルーンを浮かべて歩いてくると、最後の写真のような道路に仰向けに寝そべる外人さんと出くわした。小生には、まだこの外人さんの方が理解しやすい。世間が変わっているのか、小生が変わっているのか、そんなのこの際どちらでもいいよ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小学校の応援スローガンに思う

2011年06月11日 23時38分28秒 | Journal


 日本橋茅場町の会社のそばにある阪本小学校は、細川藩下屋敷跡に立地し、谷崎潤一郎が卒業した小学校だ。谷崎が卒業したから由緒ある名門かどうかは知らないが、明治6年(1873年)の創立だから古いことは古い。その校舎の狭い道路に面した掲示板に、東日本大震災への義援金(募金)の報告と生徒たちの応援メッセージが載っていた。どうも気になるのは「たちあがろう東北」だとか「一つになろう!」「みんなの力でのりこえよう!」と大人がつくったスローガンがそのまま貼り付けてあることだ。本当に、あの震災をテレビなどで見て、子供たちはそんなことを考えたのだろうか? 神童で早熟だった谷崎の後輩だから、あるいはそう考えたのかもしれないが、どうも学校ごと義援金・応援ブームに動員され、無難にまとめた結果だとしか思えない。こうした社会の動きに従順な教育が、原爆の怖さを教えられながら原発については語らない従順な人間を再生産してきたのだ。正門の前には、銅像の女の子が考えぶかげにうつむき加減に座っている。折角だから、この女の子が何を考えているのかを聞いてみたい気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尾花沢の奥、水田の風景、そして放射性物質

2011年06月04日 08時59分48秒 | Journal


 芭蕉の『奥の細道』に「尾花沢にて清風と云う者を尋ぬ」とある。その尾花沢も駅を離れ、芭蕉が逗留し、「涼しさを我宿にしてねまる也」と詠んだ紅花問屋の鈴木道祐の家があった市街地から山の中へ、奥へ入ったところに鉄骨ファブを訪ねた。奥と言ってもひらけた景色で、水田がひろがっている。一通り取材が済んで、そこの工場長さんと山形の総会に出るまでに時間があったので、工場裏の水田を眺めに行った。ちょうど田植えの時期であった。トラクターで田をこしらえている農家の人を見かけた。田舎に住む人はこういう景色を見あきているだろうが、小生にはやはり珍しいし、感動的でさえある。背広姿にハンチング(鳥打帽)をかぶり、カメラを首からぶら下げた男が、畦道をぶらぶらと風に吹かれて歩いている姿は、さぞかし滑稽に映ったろう。
 ここは六沢大根と蕎麦の産地とも聞く。芭蕉が訪ねた鈴木家では人をもてなす際に「そば切り振舞」の習慣があったことが確認されている。多分、芭蕉翁も食したであろう蕎麦を工場の事務所で出前のざる蕎麦にいただいてから、山形へ出た。腰のある素朴な蕎麦であった。
 総会の懇親会で、組合の副理事長さんが「私は米沢から来ましたが、米沢の向こうは福島で、今日の風向きはその福島から放射性物質を運んでくる。皆様もできるだけ外に出ませんように」とあいあさつした。そう聞かされると、どうも尾花沢の田園風景をノー天気に満喫して歩いたことが気になりだした。なんだか喉や口内がぴりぴりするような感じがした。ああ、こんなこと何もかもしょうもないことだ! 原発事故によって日本の風景の原画、奥の細道もけがされてしまったのだ!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする