Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

上野公園見聞11 似顔絵描き

2006年02月26日 14時48分10秒 | Journal
 上野へ来ると、いつも公園入口の階段に陣取る似顔絵描きのことを思い出す。昔、パリのモンマルトルの丘で、アラブ系らしい下手な絵描きに似顔絵を描かせたが、あれはどこへやってしまったか。相場も分からず、言われるままにけっこう高額を支払ったから、余計、出来栄えの悪さに立腹、すぐに破り捨てて惜しくない代物(しろもの)だった。以来、二度と似顔絵描きには近づかない。
 カメラを構えたとき、絵描きが客に話す言葉が聞こえてきた。「リストラされて…」。もしかして、絵は趣味だった人が、リストラされて、ここで似顔絵を描いているのかもしれない。ならば、今度行ったときに、禁を破って描いてもらってもいいかな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞10 ああ、夕暮れの上野駅

2006年02月26日 14時42分18秒 | Journal
 仕事を終え、上野駅へ出る途中、西郷さんの銅像のところで、夕暮れを迎え、そろそろネオンも明るくなる上野駅界隈を眺める。
 上野は、いつもゴチャゴチャした街だ。アメヤ横丁の脇に白い防護柵で囲ったところ、新しく洒落たビルでも建つのだろうか。TOKYO然と、くだらなくファッション化されて、このゴチャゴチャさがなくなったら、もう井沢八郎の「ああ上野駅」じゃないよ!

COMMNT:「ああ上野駅」(作詞・関口義明/作曲・荒井英一)【一番の歌詞】「どこかに故郷の 香りをのせて 入る列車の なつかしさ 上野は俺らの 心の駅だ くじけちゃならない 人生が あの日ここから 始まった」
 アメヤ横丁の由来はWikipediaに以下のごとく。

 ――アメヤ横丁(あめやよこちょう)は、東京都台東区のJR御徒町駅から上野駅方向に、山手線の高架線に沿って縦長に伸びる商店街。通称アメ横、上野アメ横とも呼ばれる。正しくは、アメ横商店街連合会で、400軒以上の店舗から構成されている。
 名称の由来としては、第二次大戦後、旧満州からの引揚者等が米軍の払い下げ物資を安く売りたたく店が沢山集まったことからの「アメヤ」の名や、飴を販売する店が多数出店したことからの「飴屋」、米兵が小遣い稼ぎに物資を持ち込んで店を開き、アメリカの製品が大量に出回ったことからの「アメリカ」、の三つの説がある。
 2004年現在では、食品(主に魚介類や乾物)、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中している。特に年末には、正月用の生鮮食品などを買い求める人たちで混雑が激しくなり、季節の風物詩としてニュース番組でよく中継される。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞9 上野精養軒

2006年02月26日 14時11分05秒 | Journal
 写真は、上野精養軒と時の鐘が一緒に構図の中に入るように撮ったもの。
 精養軒は、明治5年(1872年)にフランス料理の草分けとして東京築地に創業。上野精養軒は、明治9年(1876年)には、その精養軒ホテルの支店として、また、上野公園開設に伴う公園内食事処かつ社交の場として開業。なんでも、岩倉具視のお声掛かりで建てられたという。 関東大震災(1923年)により、築地本店が焼失したため、この時より本店機能を果たすこととなった。窓際に座れば、公園の緑と不忍池を眺めながら食事ができる。
 漱石の作品に出てきたのでなんとなく憧れのような気分もあって来たが、現在の建物に昔の面影はない(⇒見聞1のReference)。『三四郎』には、与次郎に勧められて精養軒の会合に出るシーンが描かれている。広田先生が「どうも物理学者は自然派じゃ駄目のようだね」と言ったので、作品にも取り上げた。
 この日は、構造設計者の団体のNPO法人設立総会があったあと、東大の神田順教授が講演した。少しだけ、赤門の匂いがしたな。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞8 大佛パゴダの如来像を建立した堀丹後守直寄とは?

2006年02月26日 13時46分22秒 | Journal
 時の鐘の楼を過ぎ、右手を見上げると、変な、東南アジアにでもありそうな様式の仏塔がある。階段を登って、掲示板を見ると、これは「大佛パゴダ」とある。ご本尊は「薬師瑠璃光如来」、ご脇侍は日光・月光二菩薩(旧上野東照宮薬師堂ご本尊)。
 沿革は、寛永8年(1631年)、堀丹後守直寄公が、釈迦如来尊像を上野山に建立、1660年頃、青銅の大仏に改鋳。大正12年、大震災で破損のため撤去、とある。
 パゴダ(pagoda)とは、東南アジアで卒塔婆(卒塔婆)のことを言う。まあ、仏塔のことだ。このパゴダ建立は、発願者は上野観光連盟、寄進者は大成建設、昭和42年7月吉日竣工、とある。よう分からない。
 なお、掘家は、見聞1に紹介したように、江戸初期にこの上野山に屋敷を構えた3大名の1つ。「酔眼見聞録」なるHPには、「上野大仏と言うのが在るんです。寛永8年(1623)越後の村上城主、堀丹後守直寄公の旧邸内に戦乱に倒れた敵見方の将兵の冥福を祈るため土で釈迦如来像を造立した。明暦・万治の頃(1655から1660)木喰僧浄雲師により銅佛に改められた。元禄11年(1693)露座の大仏に仏殿が建立された。天保12年(1841)火災に遭い天保14年(1843)子孫、堀丹波守直公が大仏を新鋳し仏殿も再建した。大正12年関東大震災で、佛頭が落ち、上野の寛永寺に保管されていたが、第二次世界大戦で、解体され武器と材料として徴収された。昭和47年に今の所に(上野公園のパコダの横)顔のみ再建されている」と詳しい説明がある。
 *見聞1のReferenceのHPを見れば、上述の通りの写真を見れる。
 ところで、新潟港に関したHPには、「元和2年(1616年)7月、長岡城主堀丹後守直寄により、新潟を港町として発展させる方策が取られ、港勢の拡張と町の刷新が図られ、”みなと新潟”の第一歩が築かれました」とあるから、堀丹後守直寄は長岡藩主だったことにもなる。よく分からぬ。
 Wikipediaには、堀直寄(ほり なおより、1577年(天正5年) - 1639年7月29日(寛永16年6月29日))は、江戸時代の堀氏の武将で、堀直政の次男。堀直次の弟。堀氏の本家の当主・堀秀治や堀忠俊に仕えた。1605年、蔵王堂城主の堀親良が父の直政と不和になって出奔した後、蔵王堂城に入って、親良の子・堀鶴千代を補佐した。1608年、父の直政が死去した後、兄の直次が家督を継いだのを不満に思って対立する。そして、直次が僧侶を殺害した事件を徳川家康に訴えた。このため、直次と忠俊は改易され、自身も減封された、とある。
 いずれにしても、戦乱で死んだ人たちへの想い、骨肉相食(は)んだ記憶から、釈迦如来尊像の寄進に至ったのであろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞7 時の鐘「花の雲鐘は上野か浅草か」(芭蕉)

2006年02月26日 11時26分49秒 | Journal
 上野精養軒の看板を見つけ、小道を入ってくると、高いところに鐘楼があり、その下に隠れたように何やら掲示板がある。さてと眺め入ると、またまたの驚き。

 ――時の鐘(BELLS OF TIME)
 花の雲 鐘は上野か 浅草か
 芭蕉が詠んだ句はここの鐘のことである。

とある。芭蕉は、この句を1687年(貞享4年)の春に詠んでいる。見聞1によれば、この上野の地に、芭蕉の故郷「伊賀上野」の藤堂藩の高虎の屋敷もあったというから、江戸へやってきた芭蕉にとって、「上野」は故郷の匂いがする格別な場所だった可能性はある。
 なんでも、時の鐘は、初め、江戸場内で撞かれていたが、寛永3年(1626年)になって、日本橋石町三丁目に移され、江戸市民に時を告げるようになったという。芭蕉が江戸で暮らした元禄には、上野山内、浅草寺のほか、本所横川、芝切通し、市ヶ谷八幡、目白不動、目黒円通寺、四谷天竜寺などにも置かれたとある。
 この時の鐘は、平成8年に、環境庁の残したい「日本の音風景100選」に選ばれたとも。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞6 不忍池から高層ビルを眺めて

2006年02月26日 10時51分46秒 | Journal
 カメラを右方向に振ると、奇妙な高層マンション2棟が池の向こうに聳(そび)え立っている。
 多分、RC造の物件だろうが、細くていかにも危なっかしい感じもある。あるHPによれば、「平安朝の頃まで、今の公園は東京湾に突き出た岬であって、忍ばずの池はその海の名残りであり、最高地点の摺り鉢山は前方後円墳であるなど旧石器時代以来の遺跡があります」とあるから、少なくとも地盤的にこの上野一帯は地震には強そうだ。さて、あの高層マンションの辺りは、海が周囲に広がっていた平安朝の昔、どうだったのか?

COMMENT:地震と寛永寺五重塔。以前、NHKの人気番組「プロジェクトX 挑戦者たち 霞が関ビル 超高層への果てなき闘い~地震列島 日本の革命技術~」(2006/1/11) で、こんな紹介があった。
 ――地上36階、高さ147メートル。昭和43年に完成した「霞が関ビル」は、日本初の超高層ビルである。それまでは、関東大震災に作られた建築基準法により、ビルの高さは31メートルに制限されていた。地震と台風の国・日本では、高いビルの建設は不可能とされていた。建設のリーダーは、鹿島建設の二階盛。二階は、「自分は定年間近。若い世代に技術を継承させたい。」メンバーは35歳以下に絞った。地震に強い柔構造ビルのヒントは、関東大震災でもビクともしなかった寛永寺の五重塔にあった。一本の柱で支えられている五重塔は揺れに強い。147メートルに達する柱をいかにまっすぐに立てるか。これが霞が関ビル建設の鍵だった。しかし、肝心の鉄骨は、建設中に、すぐに微妙に曲がってしまった。計り直して修正しても、翌日にはまた曲がった。一体なぜなのか?その原因が全く分からず、担当の角田勝馬は、焦りを募らす。早く解決しなければ、台風シーズンを迎え、工期に間に合わない。二階と若手技術者は、この危機をどう乗り越え、完成に導いていったのか…。――NHKの番組ディレクターは、地震との相関が強い上野の地盤に触れるほどの見識を持っていたかな?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞5 不忍池と石灯籠

2006年02月26日 10時45分05秒 | Journal
 慥か、順序は、不忍池(しのばずのいけ)へ下りたのが五條天神社よりも先だったか。
 なんだか、子規や漱石の時代から建っていそうな、いかにも古びてどっしりとした石灯籠を見つけた。
 不忍池は、もともと両台地の間の谷(谷中・根津)を流れてきた谷田川(藍染川)が流れ込む場所に自然に形成された池だそうだ。現在では、谷田川は地表から消滅し、不忍池も面積を縮小させているとか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞4 子規の句碑「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」

2006年02月26日 10時32分54秒 | Journal
 この五條天神社の鳥居の前に、写真の子規の句碑を唐突に見つけた。
 なんと、作中のハイク缶にも取り上げた「みちのくへ涼みに行くや下駄はいて」ではないか。もう一句は、「秋風や旅の浮世の果知らず」。
 『明治屋のハイク缶』の①「ソウセキとシキ」には、こういう文章がある。

 ――明治二十六年の夏。ソウセキ二十六才、大学英文科を卒業し、大学院に進む一方で、高等師範でも教鞭を取るようになる。

 舜(あさがお)や君いかめしき文学士   

 こう友の順調な卒業を祝って一句を進呈したシキは、バショウ翁没後二百年という口実もあって、「名月や衣の袖をひらつかす」のロツウではないが、『奥の細道』の吟跡を踏もうとウエノ(上野)駅から缶中4句目の「ミチノクヘ・スズミニユクヤ・ゲタハイテ」の旅に出た。しかし、どこかに友をうらやむ一抹の淋しさがあったかもしれない。旅から帰ると、自由人の負け惜しみに、こんなリエゾンの句も詠んでいる。

 舜に今朝は朝寐の亭主あり 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞3 五條天神社

2006年02月26日 10時24分24秒 | Journal
 上野精養軒への道を探す途中、偶然に、五條天神社という風雅の社(やしろ)を見つける。
 HPによれば、第十二代景行(けいこう)天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷征伐のため、上野忍が岡をお通りになられた時、薬祖神二柱の大神に御加護を頂いたことを感謝なされて、この地に両神をおまつりされましたのが当社の御創祀であるとか。約1900年前の出来事なり…。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

上野公園見聞2 彰義隊の亡霊と「靖国神社」案の却下

2006年02月26日 10時19分15秒 | Journal
 1868年(慶応4年)5月15日(旧暦)、大村益次郎指揮下の東征軍は、上野山(東叡山寛永寺)に立てこもる彰義隊を総攻撃し、半日で制圧した。これが「上野戦争」である。彰義隊は、15代将軍の徳川慶喜(よしのぶ)の一橋藩主時代の側近・小川興郷(おきさと)らが、慶喜の助命嘆願を意図して結成した各藩藩士、不満武士、よく分からない人たちが集まった混成部隊だった。
 彰義隊の遺体は、上野山に放置されていたが、明治2年(1869年)、寛永寺の住職らがひそかに付近の地中に埋葬、後に、掘り出されて火葬。生き残った小川ら隊士が、新政府の許可を得て、明治7年(1874年)、火葬場となった場所に墓を建立した。「戦死之墓」の字は、旧幕臣・山岡鉄舟の筆になる。
 作品では、大村益次郎が、初め、靖国神社をこの上野山に建てようかと検討したが、彰義隊の怨霊(おんりょう)を気にして計画を却下した事実をトピックスとして取り上げている。また、慥か、東京タワーをここに建てるという計画もあったかと…。ともかく、東京の一等地なり。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする