Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

これは小生が50年前に存在した場所である。

2010年10月19日 22時31分58秒 | Journal
 他人から見れば、しょうもない写真であろう。しかし、これは小生が三軒茶屋の産婆の家から移って赤ん坊から幼年期をすごした場所で、建て替えられているが、当時、日本生命の支部だったこの薬局の2階から50年前の幼い小生が顔を出し、道路を走るブーブー(車)を飽きずに眺めていたはずである。そう考えると、小生にとってはまさに無二の特異な空間である。
 写真の後方にある中野総合病院も当時は「組合病院」と呼んでおり、小生は毎日、母親のお古のハンドバックを手にこの病院へ「出勤」したものだが、まるで幽霊がタヌキ寝入りしていたかの如くそのままだ。ただ、病院と隔ててあった小さなどぶ川は蓋がされて、出勤する小生が張り切って渡った小さな橋もなくなっている。しかし全体が、タイムスリップしたかと思うぐらい不思議と50年間変わらない風景だ。
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北京空港で見たシルクロードの隊商の人形

2010年10月16日 20時09分23秒 | Journal
 そういえば、北京空港で、シルクロードの隊商の人形が展示されていた。これもノスタルジーを掻き立てる。
 なぜ、こんなものが置かれていたのか分からないが、良い人形である。駱駝も人間も楽しそうだ。砂漠の旅には夢があったのだろう。
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文明開化期の日本橋

2010年10月16日 18時04分12秒 | Journal
 風景へのノスタルジーは、領土よりも固有なものであろう。
 小生は、こうした古い写真(日本橋の工事現場に掲示されていた)を見ると、しきりとノスタルジーを喚起される。
 文明開化期の日本橋なんて、見たことは、もちろん、ない。毎日、郊外から日本橋に通っているが、茅場町の狭苦しい雑居ビルの職場に居ても、一日のうち数時間を日本橋に居る感覚はなんとなく好いものがある。その職場がある茅場町と兜町の方角に、この図では夕日と五層の第一国立銀行が見える。まるで遊園地にあるようなこの建物がまた胸キュンとノスタルジーをしぼりたてるな。それと、電信柱。小生は、好きでもない電信柱がある風景の下に育った。こういうものがない風景ならばさぞかしすっきりするだろうが、実際はそうではなかった。その電信柱の日本でも一番古いやつが文明開化のお江戸日本橋に突っ立っていたのだ。これもノスタルジーの一項目に加えなければなるまい。
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