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科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

ライプニッツ『単子論』について

2006年04月02日 10時08分59秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 ライプニッツ(1646~1716年)のモナドロジーについては、作品の中核をなす思想として扱ってきた。これほど美しく詩的で、しかも、この世界に対する曇って混雑した心象に一貫した視点を提供し、晴れやかにしてくれる哲学的なイメージを、小生は他に知らない。

 われわれは自分らがいずれ落ちていく物の世界をひたすら受動的で、死の世界ととらえがちだが、ライプニッツは、物の中に宿る実現力=原始的な力「エンテレケイア」を能動的な力「vis activa」であると説いた。この点で、生死を区分して、結果的に生死を超えられなかった従来の思想宗教と隔絶したところにライプニッツのモナドロジーがある。
 その上で、思想としてのモナドロジーと物理科学のいわゆる量子論の発展的接点を探しあぐねていた小生には、今回、岩波文庫がリクエスト復刊したライプニッツ著『単子論』〔河野与一訳、1951年第一刷、『単子論』(1714年)以外に前後数篇の論文で構成した本〕を読むことで、あらためて、そうだったのかと発見することがあった。以下、事項を整理しながら箇条書きにメモする。

・私は、作品第一巻において、アリストテレスが唱えた「真空嫌悪」の思想以来、真空の存在は、ヨーロッパ世界で長らく否定されてきたが、実は、真空は不毛の空間、つまり単なる空虚ではなくて、底知れぬエネルギーと創造性を具備した場であると書いた。ライプニッツも、「初め私がアリストテレスの束縛を脱した時には『空虚』と『原子』とに夢中になつた。それが一番よく形象的思惟を満たしたのである」(62p)と考えたようだが、さらにいろいろ考えた挙句に、「本当の統一の原理をただ物質即ち単に受動的なものの中にばかり認めるのは不可能である」と気がついたという。

・そして、ライプニッツは、この世界の「多」は、その事象性を本当の「一」からしか仰ぐことができないと考える。この「一」は、形而上学的点と規定される。さらに、「数学的点はこの形而上学的点が宇宙を表出する為の視点である」(74p)とか、「中心即ち点は全く単純なものであるけれどもそこへ集中する線の成す角は無数にあるやうなものである」(148p)とも表現する。

・ライプニッツは、「実体は、作用することのできる存在である」(147p)と主張し、合成された実体というのは、単純な実体即ち単子(モナド)の集まりであるという。
 単子(monade)は、「自然の本当の原子」であり、一口にいへば「事象の要素」である。(214p)
 神だけが原始的な一即ち根原的単純実体であり、凡て創造された即ち派生的な単子はその生産物として云はば神性の不断な電光放射によつて刻々そこから生れて来るものである。(260p)

・小生のもっとも好きな表現、「各の単子は自分自身の視点に従つて宇宙を表現し宇宙そのものと同じ様に規則立つてゐる活きた鏡即ち内的作用を具へた鏡だといふことがわかる」(150p)。
 『単子論』は、このことをさらに作品でも何度も(別の訳で)引用した「物質の各部分は植物が一面に生えてゐる庭や魚が一ぱい入つてゐる池のやうなものだと考へることができる。而もその植物の枝やその動物の肢体やその水の一つ一つが又さういふ庭でもありもしくは池である」(276p)と、詩的につづる。

・以下も、量子論的に読み解くと、含蓄深い表現だ。
 「現在は未来を孕み未来は過去の中に読まれ遠いものは近いものの中に表出されてゐるのである。もし各の精神の襞を悉く開けて見ることができるとすれば各の精神の中に宇宙の美を認めることができるであろう。ただその襞は時間の経過によつてしか人の目に付く程に展開しない」「我々の持つ混雑な表象は宇宙全体が我々に与へる印象の結果なのである」(162p)
 「精神は自分の襞を一度にすつかり展開することはできない。その襞は無限に及んでゐるのである」(272p)

・「神の持つてゐる観念の中には無限に多くの可能的宇宙があるのに宇宙は唯一つしか実在することができないのであるから、神をして他の宇宙を差し措いて此の宇宙を選ぶやうに決定させてゐる神の選択の十分な理由がなければならない」(266p)

・物体は「あらゆる物質が充実空間の中で結合してゐること」によつて宇宙全体を表出してゐるものであるから、精神は「特に自分に属してゐる物体を表現すること」によつて同時に宇宙全体を表現する。(273p)ライプニッツは空虚の存在を否定している。ただ、この否定の仕方は、アリストテレスの真空嫌悪とは大分違っていると思われる。
 「宇宙には未耕のところ不毛のところ生命のないところは一つも無く混沌も無ければ混雑も無い。有ると思ふのは外観だけのことである」(276p)と。

・「可能性から現実性へ移らなければならないことが一旦認められた上は他に何も条件が決定されてゐない限り時間空間(即ち実在することの可能的な秩序)の包容力に応じてできるだけ多くのものが実在することは当然である。恰も定められた面積の中にできるだけ多く並ぶやうに敷瓦を置くやうなものである」(313p)。

・ライプニッツによれば、死もまた連続的な現象である。「我々が発生と名づけてゐることは展開及び増大であり死と名づけてゐることは包蔵及び減少である」(278p)。この観念に立てば、死は、それほど怖いものではなさそうだ。また実際、葬式などで死骸を見ると、死は石の中に包蔵されるようまのだと実感もする。

・「精神と身体とが一致するのはあらゆる実体の間に存する予定調和による為であり、それは又実体が元来悉く同一宇宙の表現だからである」(281p)。

・人は自然を、天然を、宇宙をそれと知らずに模倣している。そのことから、地上で人智がこしらえた経済の因子=貨幣も、文芸の風雅の因子とあわせて、物理の量子的因子とおなじ次元で語られるべきだとする作品第4巻の量子貨幣論の文脈からすれば、次の文章も興味深い。「理性的精神はその上に神そのもの即ち自然の創作者そのものの姿であつて宇宙の体系を知ることができる建築術の雛型によつて或る点まで宇宙を模倣することができる」(284p)。
 「世界の理由といふものは状態の連鎖や相集まつてゐる事象の系列とは異なる或る超世界的なものの中に潜んでゐるのである」(311p)
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