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図書館で借りた『芭蕉全句』(袖珍版、監修・堀信夫)という句集で、これまでに見落としてきた芭蕉の句を拾っていて、創作年次未詳の上記の句が目に止まった。芭蕉の時代にも、そう感ぜられたのだなと。
写真は、句集の表紙にあった小杉放庵筆の「合歓(ねむ)の雨」で、「象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」の場面とか。教養が足りず意味を探すに、芭蕉が雨煙る象潟(秋田)入りしたところ、合歓の花の風情に感じ、美人の西施が物思わしげに目をつむっているようだと、蘇東坡(そとば)の詩を踏んで吟じたそうだ。
もう20年近く前、自宅の庭にも杜鵑(ほととぎす)がやってきていて、朝などそのホーホケキョの鳴き声で目を覚ます風流もあった。周囲にマンションや戸建て住宅が建ち尽し、それがすっかりなくなって、味気ない。
俳諧とは、杜鵑の美声に負けない人間の心味なり。今回拾った芭蕉の句に、それを感じてみよう。
●夕皃(ゆうがお)にみとるるや身もうかりひよん (1666年夏)
*実は、夕顔からは瓢(ひさご)の実がとれるそうな。花に見惚れて、うっかり時を過ごしてしまう。
●あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉 (1682年秋)
*近江の出身ながら、宵っ張りの朝寝坊、都会人になりきって派手な句風を興している弟子の宝井其角(たからい・きかく)に対して、我は、早寝早起きで、朝顔を眺めながら朝食を食べるような男であるよ。
●馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉 (1683年夏)
*中国の画にあるように、夏野で馬に揺られる自分を想像する楽しさ。
●山路来て何やらゆかしすみれ草 (1685年春)
*大津へ出る山路にて。解説の要らぬ分かりやすさ。
●花の雲鐘は上野か浅草か (1687年春)
*ご当地ソングの究極。朧(おぼろ)な花霞の春気色に、鐘の音の出処も定かでない。
●冬の日や馬上に氷る影法師 (1687年冬)
*豊橋辺りを旅のとき、馬上の寒さに凍えながら詠んだらしい。
●五月雨(さみだれ)にかくれぬものや瀬田の橋 (1688年夏)
*以前、大津へ行って、義仲寺に寄った後、ぶらぶらと石山寺に行く途中、この由緒ある川に架かる由緒ある橋を眺めたことがある。今も、マラソン中継を見ながら思い出すことが…。
●夕がほや秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな (1688年夏)
*『源氏物語』に出てくる品のある夕顔も、秋には大小の瓢となるのだからと、おかしがる。
●鐘つかぬ里は何をか春の暮 (1689年春)
*今の世に、鐘を聴くのは除夜の鐘のみなり。どこぞの晩春に、鐘を聴きながら暮らしてみたい。
●我に似るなふたつにわれし真桑瓜(まくわうり) (1690年夏)
*若い頃の自分を彷彿する俳諧師希望の青年に向かって、温かい訓戒の句なり。
●名月や門(かど)に指(さし)くる潮頭(しおがしら) (1692年秋)
*堤防のない当時、深川の庵へは満ち潮が門先まで寄せてきたのであろう。
●青くても有(ある)べき物を唐辛子 (1692年秋)
*言われてみれば、秋になって真っ赤になる唐辛子は、それだけ季節に必死なのであろう。
●年どしや猿に着せたる猿の面 (1693年春)
*正月の猿回し、猿に猿の面では代わりばえもない。去年と新年、猿が猿の面を外すだけか。
●さみだれの空(そら)吹(ふき)おとせ大井川 (1694年夏)
*天地俳諧の気宇壮大。
●鶏頭(けいとう)や雁(かり)の来る時なをあかし (元禄年間・秋)
*中国原産で、「韓藍(からあい)」とも。なんとなく不気味な赤だ。
写真は、句集の表紙にあった小杉放庵筆の「合歓(ねむ)の雨」で、「象潟(きさがた)や雨に西施(せいし)がねぶの花」の場面とか。教養が足りず意味を探すに、芭蕉が雨煙る象潟(秋田)入りしたところ、合歓の花の風情に感じ、美人の西施が物思わしげに目をつむっているようだと、蘇東坡(そとば)の詩を踏んで吟じたそうだ。
もう20年近く前、自宅の庭にも杜鵑(ほととぎす)がやってきていて、朝などそのホーホケキョの鳴き声で目を覚ます風流もあった。周囲にマンションや戸建て住宅が建ち尽し、それがすっかりなくなって、味気ない。
俳諧とは、杜鵑の美声に負けない人間の心味なり。今回拾った芭蕉の句に、それを感じてみよう。
●夕皃(ゆうがお)にみとるるや身もうかりひよん (1666年夏)
*実は、夕顔からは瓢(ひさご)の実がとれるそうな。花に見惚れて、うっかり時を過ごしてしまう。
●あさがほに我は食(めし)くふおとこ哉 (1682年秋)
*近江の出身ながら、宵っ張りの朝寝坊、都会人になりきって派手な句風を興している弟子の宝井其角(たからい・きかく)に対して、我は、早寝早起きで、朝顔を眺めながら朝食を食べるような男であるよ。
●馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉 (1683年夏)
*中国の画にあるように、夏野で馬に揺られる自分を想像する楽しさ。
●山路来て何やらゆかしすみれ草 (1685年春)
*大津へ出る山路にて。解説の要らぬ分かりやすさ。
●花の雲鐘は上野か浅草か (1687年春)
*ご当地ソングの究極。朧(おぼろ)な花霞の春気色に、鐘の音の出処も定かでない。
●冬の日や馬上に氷る影法師 (1687年冬)
*豊橋辺りを旅のとき、馬上の寒さに凍えながら詠んだらしい。
●五月雨(さみだれ)にかくれぬものや瀬田の橋 (1688年夏)
*以前、大津へ行って、義仲寺に寄った後、ぶらぶらと石山寺に行く途中、この由緒ある川に架かる由緒ある橋を眺めたことがある。今も、マラソン中継を見ながら思い出すことが…。
●夕がほや秋はいろいろの瓢(ふくべ)かな (1688年夏)
*『源氏物語』に出てくる品のある夕顔も、秋には大小の瓢となるのだからと、おかしがる。
●鐘つかぬ里は何をか春の暮 (1689年春)
*今の世に、鐘を聴くのは除夜の鐘のみなり。どこぞの晩春に、鐘を聴きながら暮らしてみたい。
●我に似るなふたつにわれし真桑瓜(まくわうり) (1690年夏)
*若い頃の自分を彷彿する俳諧師希望の青年に向かって、温かい訓戒の句なり。
●名月や門(かど)に指(さし)くる潮頭(しおがしら) (1692年秋)
*堤防のない当時、深川の庵へは満ち潮が門先まで寄せてきたのであろう。
●青くても有(ある)べき物を唐辛子 (1692年秋)
*言われてみれば、秋になって真っ赤になる唐辛子は、それだけ季節に必死なのであろう。
●年どしや猿に着せたる猿の面 (1693年春)
*正月の猿回し、猿に猿の面では代わりばえもない。去年と新年、猿が猿の面を外すだけか。
●さみだれの空(そら)吹(ふき)おとせ大井川 (1694年夏)
*天地俳諧の気宇壮大。
●鶏頭(けいとう)や雁(かり)の来る時なをあかし (元禄年間・秋)
*中国原産で、「韓藍(からあい)」とも。なんとなく不気味な赤だ。