Discover the 「風雅のブリキ缶」 written by tonkyu

科学と文芸を融合した仮説作品「風雅のブリキ缶」姉妹篇。街で撮った写真と俳句の取り合わせ。やさしい作品サンプルも追加。

八木アンテナ(NHK放送博物館)

2006年12月16日 15時03分15秒 | note 「風雅のブリキ缶」
 1925年(大正14年)、この愛宕山から日本で初めてラジオ放送が流れた。それを記念して昭和31年に開館したNHK放送博物館には、アンティークかつ歴史の場面場面に出てくるマイクロフォンやカメラなどなど、慥かに、放送に関する逸品が展示してある。
 小生が、館に入って最初に出合ったのは、以下のように、作品にも取り上げた「八木アンテナ」。

 ――アメリカ育ちだが、戦前のニッポンで高等教育も受けた「帰米」のナカムラ教授は、トウホク大学のオカベ・キンジロウ(岡部金次郎、後に阪大教授)博士が発明したマイクロ波発振管「マグネトロン」を研究したと物語ではなっていました。マグネトロンは、マイクロ波を発生させる真空管(vacuum tube)ですが、電界と磁界を組み合わせた構造となっており、電子を真空中で螺旋(らせん;spiral)運動させます。

 1927年、実験演習を担当していたオカベ博士のもとに来た一人の学生が、真空管を使った実験で、本来ならばゼロになるはずの電流が途中でまた増える、とデータを見せました。この実験データについて、オカベ博士は、極超短波アンテナ(1926年)の研究開発者として知られる恩師のヤギ・シュウジ(八木秀二)教授と議論し、真空管から非常に短い波長の電波(radio wave)が発生しているのだ、と推測するに至ったのです。

 日米の戦争が激しくなった1943年、出撃する飛行機が常に敵機の待ち伏せに遭(あ)うという事態に至り、ニッポンの連合艦隊は、南太平洋の制空権(command of the air)を完全にアメリカ側に奪われてしまいました。たまたまシンガポールで、イギリス製地上用対空電波警戒機(レーダー;radar)を捕獲したニッポン軍は、そこに「YAGI ARRAY」と書かれていることに気がつき、これは何だとなったのです。陸軍研究所、それに、民間電機メーカーの技師が動員され、いわゆる、「八木アンテナ」であることが判明しました。
 イギリスでは、ヤギ教授らの研究を受けて、マルコーニ社が1920年代後半には早くも商品化していたのですが、ニッポンでは、1935年頃に、海軍研究所の技師が、レーダーの研究開発を上層部に進言したことはあったのですが、「闇夜に提灯をともす」研究よりは、兵の訓練が大事と却下(reject)されました。また、商工省が「重要な発明と認め難い」と特許期限延長を1941年に却下したといいます。

 八木アンテナは、戦後ニッポンの高度経済成長期の街風景の典型ともなった、あの家々の屋根の上に立つVHF帯のクシ型テレビアンテナに適用されることになりました。
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