あ~あ、折角暑い中歩きに来たのになあ、
やんでくれないかなあと思いつつ
野田駅のガード下で雨宿りをした。
おあつらえ向きにたこ焼き屋さんもあったので、
たこ焼きでビールでも飲みながら待つか
とも思ったのですが、
店の前に置かれたベンチやテーブルも
水浸しだったのでここは我慢。
それでもなかなかやみそうにないので、
仕方なく梅田に出て梅ブラをして帰ることにした。
それぞれミセスと自由時間を分担しているので、
ゲットした時間は有効に使おうということだ。
ところがお決まりコースの
紀伊国屋、好日山荘と渡り歩いているうちに
やがて雨も上がってきた。
空の雲もあらけて
ところどころに青空も顔をのぞかせている。
時刻はまだ二時半を少し回ったところだったので、
よーしもう一度歩いてみよう
と福島駅に向かうことにした。
想定していたコースの
野田→福島を逆に歩くことになる。
駅に降り立ち、頭に一旦インストールした地図を
ぐるぐると回転させながらボチボチと歩き始めた。
駅からすぐのところに、こんな道標が建てられてある。
「駅から徒歩10秒、南向き」
ではなく、
淀川よりこちらが梅田街道、
向こう側が大和田街道となって、
この二つの街道はつながっていることを表す道標だ。
先に恵美須神社でみた道標は
まさしくこの道への合流を案内していたのだ。
西国往来の人々や大阪商人の扱う物資などの
重要な経路だったそうだ。
ここからはしばらく商店街の中を歩く。
この商店街、名前は聖天通商店街というのだが、
入り口あたりにある占いの館が特徴的であるため、
それを売りにして
「売れても占い商店街」
と名付けているコテコテ度はさすがに大阪らしいネーミングである。
と、ここで気がつくべきだったのだが、
後で見るとどうもこのあたり写真の写りが悪くなっている。
先ほど、濡れた体を拭いて
湿ったタオルと一緒に収納していた
カメラのレンズが曇っていたことに
まだ気づかないでいたのだ。
商店街を抜け、
すこし横道にそれたところにあるのが、
「福島聖天了徳院」。
境内にある池には、
このあたりが湿地だった頃の名残である
かきつばた園が残っている。
あの芭蕉が
「かきつばた 語るも旅の ひとつ哉」
と詠んだ名所だったそうだ。
そのかきつばた園の横に建てられてあったのが、
昔の梅田街道の道標燈籠だ。
「すぐ 大坂みち」
と
「すぐ あまがさき にしのみや(?)」
と刻まれている。
これも喜んで写真に撮ったときだ。
どうも撮影後2秒間ほど表示される映像が鮮明ではない。
やっとここでレンズが曇っていることに気付いたのでした。
少しの間、写真がぼやけているのはそのせいなのです。
雨の日は気をつけなくてはね。
聖天さんを出て次に向かったのが、
鷺洲中公園。
ベンチに座って、持参のクッキーをかじり
リラックマのお茶を飲んでいると、
さっきから気になっていたのだが、
近くをチョロチョロと動き回っていた
バイクに乗ったおっさんが話しかけてきた。
なぜか歩いているとdoironは
よく人に話しかけられる。
ずんぐりむっくりの体型が安心感を与えるのか、
それともあまりに楽しそうに歩いている姿に
共感を覚えられてしまうのかもしれない
と自己分析しているのだが・・・。
「地図を持ってはるけど歩いてるんですか?」
と聞いてきた。
「ああ、そうですねん」と答えている間に
メットとゴーグルを外すと、
doironより10歳くらい年上に見える人でした。
乗ってたバイクは、ちょっと年季の入ったコルナゴである。
聞けば、吹田の方に住んでいる人だそうで、
定年後バイクで名所めぐりをしているんだそうだ。
かつてはロードレースにも出ていたそうで、
「道理で渋いバイクに乗ってますね」
と言ったら、こちらもバイクのことがわかる人間だと思ったのか、
バイクの説明がはじまってしまいました。
そういえば細部にこだわりの細工がみられたが、
話が専門的すぎるのか、
それとも用語が古すぎるのか
さっぱりわからないので、
とりあえずフムフムと頷いておいてあげた。
輪行で全国を駆け回ってもいるそうだ。
なかなか楽しそうではないですか。
まあ、将来的にはそういう楽しみも
視野に入れておけるということやね。
これから、大阪城経由で帰るというSさん(名乗っておられた)
と「またどこかで」とお互いエールを交わし、
ちょっとした出会いに気を良くしながら
再び歩き始めたdoironなのでした。
続く。
歩きながら遠くを眺めると
都会のビルが林立し、
その間から見える空が真っ黒になってきた。
天気予報では3時から雨となっていたが
この分だと早まるかもしれないと思い先を急ぐことに。
次の見所は、極楽寺からすぐのところにある、
野田恵美須神社
ゑびすといえば、
七福神の中でも釣竿とタイの入った
魚籠を持った神様で知られている。
まあいわば漁業の神様でもあるわけだ。
さてこの福島地域、
今は川に面しているとはいえ、
内陸のようになっているこの地も
かつては海に浮かぶ島だったそうだ。
それはここにゑびすさんがあることからも伺えるとのことである。
そういえば、地名に「島」がついている。
福島の名の由来の一つにこんなのがある。
ここから大宰府へ島流しになったと言われる
菅原道真公が、昔は「餓鬼島」と言われていたこの地を、
それじゃああんまりだと
「餓鬼島」あらため「福島」と呼ぼう
と改名したという伝説が残っているそうだ。
そのようにかつて島だったこの地にも、
やがて淀川が運んできた土砂が堆積して、
陸となっていくのだが、
それゆえ土壌が肥沃であったこの地に
よく育った植物がある。
「藤」だった。
かつて、吉野の桜、高尾の紅葉と
並び称されたほどこの地域に見事に咲いていたそうだ。
秀吉もわざわざこの地に「花見」に訪れた
という記録もあるそうだ。
この藤は、普通の藤とちがって
非常に多くの花が咲き誇り、
ツルの巻き方が逆であるなどの特徴があって、
植物学者によって「野田藤」と命名されたそうだ。
かつて歩いた熊野街道沿いの信達宿にも
見事な「野田藤」が咲くことは、
泉州の人は良く知っている。
あの藤である。
この神社には、その野田藤の藤棚もある。
残念ながら花の時期ではなく、
緑の葉っぱが茂っているだけでした。
そこにあった説明書きを読むと、
近年は花の勢いがかなり衰えているそうで、
保存に力が注がれているようである。
福島が福島と呼ばれている歴史や、
このあたり一帯に咲き、
地域の人が誇りとしている野田藤の姿が
この神社にありました。
神社を出て、道を行くと、
おお~道標です。
しかも、歴史を感じさせる立派な道標です。
「左 御舊跡御坊極楽寺 右なか山あまがさき・・」とある。
なか山は先日歩いた中山寺のことで、
大阪と兵庫間の物流の要でもあった
梅田街道から大和田街道を経て
兵庫の方に向かっていく道に
つながっているということだろう。
そして、側面には
「右 ふなっしー」
ではなく「右 ふなつ 左なかのしま」とある。
堂々たる道案内ぶりだ。
そして現代の道案内も、
道に導き石が埋められていたり、
道路沿いにこんな案内板が設置されていたりと負けてはいない。
そこからしばらく歩くと広い道に出る。
府道29号線だ。
お盆期間ということもあって、
道はかなりすいているように見えた。
といっても普段の交通量は
まったく知らないんやけどね。
その道の先に見えているのが、
先ほど道標が案内していた
堂島川の船津に架かる「船津橋」だ。
その道を横切って一直線に続く
野田商店街を歩いていると、
ついに雨が降り始めた。
最初は細かい霧のように、
やがてパラパラと降るようになり、
風も出てきた。
傘を持っていなかったために、
この時点で野田駅に引き返すことにした。
しかし、このあたりは昭和な雰囲気が残っているとあって、
路地が入り組んでいる
五叉路または六叉路まであって、
地図を見ていてもそれほど細かい地図ではないので
全く方向が分からない。
傘をさして歩いている人に訊きまくって
ようやく駅に戻った時には、
かなりのぬれだぬきになってしまっていた。
傘はないけど、汗用に持ってきたタオルがあったので
拭くことができたのは幸いだったのだが、
これがこのあとちょっとしたトラブルの原因となった。
ここまでのコースはこれ。
そして続く。
昨今、福島というと真っ先に思い浮かぶのが原発。
対応に苦慮しているであろう
東電の方々はさぞや大変な毎日を送っていることだろう。
今回歩いたのは当然その福島ではなく、
大阪の福島区。
中央卸売市場があり、
堂島川の流れる地域で、
今なお古き良き昭和の風情を残しているというので、
どれどれと歩いてみることにした。
イメージ的には小さな町工場も並んでいるような気がして、
お盆で静かだろうと見越しての歩行である。
午前中の作業を早めに終えて、
JRに乗り、環状線の「野田」駅に着いたのが
午後0時15分。
家を出た時には、
晴れていた空が
どんよりとなり始めていた。
3時頃から雨が降るかも
という天気予報が気になるところだ。
駅のホームに名所案内があったのでチェック。
よしよし、これらはすべて想定済みだ。
歩くコース内となるよう設定してある。
駅前でナビをセットして、
さあ歩きはじめよう。
おっと、その前に曇っているとはいえ、
この時期水分補給は必要だ。
コンビニに入ってお茶を買うことにした。
しかし冷たいお茶を
このショルダーに入れると、
ペットにかいた汗で中が濡れるしなあ
と少し懸念していたのだが、
こんなおあつらえ向きのお茶が売られていた。
おまけでペットボトルカバーがついたお茶。
こういうおまけには、
よく欲しくもないフィギアや
アイフォンで使いようのないストラップが
ついていたりして、
「いらないからその分安くしてくれよな」
などと嘆いてしまうことが多いのですが、
この時はなんとタイムリーな景品付き。
リラックマのカバーで
おっさんにはちょっと可愛すぎるなあ
と思いつつも実用性を優先することにした。
準備万端で歩き始めるとすぐに
玉川4丁目の交差点に到達する。
そこには「野田城跡」の石碑があるはずです。
信号待ちで見渡してみると、
向かいのマンションの入り口近くで、
その石碑はオーラを放っていました。
こういう歩行をしていると、
やたら石には敏感かつ過剰に反応してしまう性が
身についてしまっているようです。
そこから、路地を斜めに入っていくと、
早くも昭和の香りのする
レトロな建物に遭遇する。
これや。
これ。
野田御坊極楽寺のお寺は勝手口もレトロです。
まあ、お寺だからレトロで当然か。
ちょっと説教くさいことが書かれた
寺の掲示板を見ながら
正面に回ると、お寺の入り口横に
「野田城趾」
の石が建っていました。
おっとここで、先日小阪を歩いている時にみた、
某お寺の掲示板を思い出しました。
これ。
真ん中の貼り紙には
思わず当たり前体操を踊ってしまいそうになりました。
それに「不審者を見たらすぐに110番」も貼られてあって、
いつか電話されそうやなと思ってしまったのだった。
しっかしこういうお寺の掲示板も、
いろんな味があって面白いものだ。
さて話を戻して、
「野田城趾」の石なんですが、
歩き始めた時に
「野田城跡」の石もありましたよねえ。
微妙に漢字が異なります。
違いがあるのでしょうか。
実はどちらも正しいのです。
最初の「城跡」の辺りが野田城の北の端で、
この「城趾」の石の辺りが
ちょうど城の中心辺りだったろうということが、
「城趾」の方の石の側面に刻まれていました。
この城に本願寺の証如上人が訪れた際に、
本願寺と対立する細川氏の軍勢が
ここを急襲したときに、
上人を守ろうとして鍬や鋤で戦った
農民21人がここで討死をした。
その菩提を祀るために建てられたのが、
この「野田御坊 極楽寺」なんだそうだ。
この農民信徒の勇気ある行動を
書にしたためられ、
それを披露したことが、
このお寺の境内や
少し離れたところに立つ石燈籠に刻まれていた。
そして、このお寺を後にする頃より、
雲行きがますます怪しくなってきたのでした。
続く。
痛風騒ぎがあって以来、
食の見直しを順次進めている中、
最近よく出かけるのが
和泉の山方面にある野菜の直売所だ。
道の駅、愛菜ランド、葉菜の森などがある。
野菜の直売所に行くのは嫌いじゃない。
最近は、ちょっと変わった野菜も多く栽培されているようで、
見ていて楽しいこともあるし、
何より季節の画題をリサーチをすることもできる。
また、たまには地元の人の手作り品
なども売っていて
何となく親しみを感じてしまうのだ。
おっと、今日はそんな直売所の話ではない。
先日、野菜の仕入れに葉菜の森に出かけた時に、
その周辺を歩いてきた話をしようと思っている。
このあたり、昔はとても辺鄙なところで、
よくキツネやタヌキにばかされた
と近所の長老たちが語っていたのを憶えている。
そんな不気味なところに昔の人は
ロクな交通手段もないのに
なぜわざわざ出かけて行ったのかというと、
安産祈願のためだったのだ。
「大野の阿弥陀さん」
で知られる「阿弥陀寺」へ参りに行ったのだ。
doironもこの寺への祈願のおかげで無事に生まれたし、
息子が生まれるときにもここに来た。
親が生まれるときはどうだったのかは知らないが、
少なくとも親子二代でお世話になっている。
昔は、寺の施設など全く興味がなかったので、
全然そこの姿を憶えていないため、
先日あらためてお参りに行くことにした。
直売所の駐車場を出ると、
どわ~、
いきなり「ナニコレ珍百景」的な看板です。
これ。
これで本当に手作り飛行機とまでは行かなくても、
飛行機風にデコレートしたトラックでも走ってくる
あるいは飛行機の運搬車がやってくる
というのだったら間違いなく珍百景採用なのになあ。
どうやら右側がこちらに向かって
下り坂になっているので車が
「飛ぶような」スピードで下ってくるから
注意しろということなんでしょう。
そういえばdoironもバイクで
この道を飛ぶように鍋谷帰りに
下ってきてましたっけ。
そんな過激な看板があるかと思うと、
一方で優しく呼びかけてくるような
こんな看板も置かれてある。
さあ、どんどん歩いて行こう。
父鬼川沿いの道はさすがに山道だけあって、
川から吹き上がる風の冷たさとあわせて、
木陰はかなり涼しく歩けた。
やがてそんな川に架かる阿弥陀橋を
左折すると、すぐにお寺が見えてくる。
「大野山 子安あみだ寺」。
その昔、光明皇后が皇子を産まれるときに
安産に導いたということで、
先日歩いた北摂の中山寺同様、
今も安産のお寺として、
多くの人々の信仰を集めている。
さすがに山寺だけあって
急な坂道を登って行く。
妊婦さんにはちと辛かろう。
さらに長い階段廊下を登って行くと、
本堂がある。
そしてその横には広い座敷があり、
安産祈願の寺とだけに、
お腹の大きい女性が数人、
家族とともに座っていた。
とりあえず、息子のために
安産祈願にお参りに来れるような
条件づくりをお願い、
(えらい遠回りな安産祈願です)
つまり息子が良き伴侶に巡り合えるように
とお願いをしてから、寺内の散策をした。
これは身替五縁地蔵尊。
地蔵尊は守備範囲がとても広い。
延命地蔵、子安地蔵、厄除地蔵、
子授地蔵、道標地蔵、最近知った日限地蔵、
果ては縁切り地蔵まである。
そういえば、日本に「地蔵」と名のつく尊体は
何体ぐらいあるんだろうねえ。
またここには「光明皇后御平産霊験祭祀舊跡」
と刻まれた石がある。
「舊」はもうわかりますよね。
「旧」の古字です。
そうして残暑の中、寺内をじっくりとめぐり、
再び父鬼川沿いをセミの声の大合唱を聞きながら、
30年前のあの頃に比べて
お寺は全然変わってないんだろうけど、
自分自身はずいぶん変わったんだろうなと思いつつ
野菜を抱えて帰路に着いたdoironなのでした。
司馬遼太郎の魚嫌いは有名だ。
36歳のころに書いたエッセイで
彼はこう言っている。
「牛やブタ肉と異なり、皿の上の魚の死ガイは
生前そのもののカタチをとどめている。
その死ガイをハシで毀損し、皮をはぎ、
骨を露出させていく作業を、
もし私の隣席の女性がやっているとしたら、
彼女が美人であればあるほど、
ぶきみな夜叉にみえてくる」と。
doironも子どもの頃は魚が嫌いだった。
なぜ嫌いだったかというと、
言葉にすれば氏と同じような心境だったような気がする。
とりわけ、あの蛇のようにニョロニョロ長い
ウナギのあのあばら骨のようなものが浮き出た姿には
恐怖感さえ覚えていた記憶がある。
ところが、歳を重ねるにつれ、
そういう感情はどんどん薄れていき、
今や肉か魚かと問われれば、
迷わず魚と答えるほど
魚好きと言っても過言ではない。
もちろんウナギも平気で食べれるようになった。
人間、歳をとると好き嫌いはなくなってくるものだ
ということを身を持って実感しているわけだ。
そんな食品は他にもある。
ホルモン肉もそうだ。
あまりに見た目が生々しくて食えなかったものが、
doironのオープンウォータートライアスロンの
デビュー戦となった、琵琶湖トライアスロン駅伝に
キャンプで行ったときに、
仲間とワイワイ言いながらやったBBQで、
思い切って食べてみて以来、
ホルモンの大ファンとなった。
思えば、それが今になって
痛風につながっているということになる。
いわば、尿酸蓄積の原体験だったのかもしれない。
そして、最近は劇的変化というわけではなく、
なんとなく平気に食べられるようになったのが
「納豆」だ。
ガンガン走っていた頃、
朝食には納豆がいいんだと、
当時の一流選手たちはよく語っていた。
そうか、納豆を食えばもっと早く走れるようになるのか
と思い、鼻をつまんで食べようと
何度か試みたもののどうしても好きになれず、
挙句に
「あんな豆の腐ったものを食べるやつの気がしれん」
などと放言していた。
それが、ある時、エイで仲間に勧められ
気が進まないまま食べた時に、
自分でも驚くほど素直に食べることができたのだ。
きっと楽しい雰囲気がそうさせたのだろう。
その証拠に、以来「エイ」でだけ
納豆が食べられるという、
変な食癖がついてしまっていた。
相変わらず、他では納豆を食べられず、
お寿司を買ってきても、
納豆巻きの左右前後の寿司は
避けて食べていたほどである。
ところが、先日スーパーで
ミセスと買物をしている時に、
何気に納豆に手が伸びたのだ。
エイで食べられるのだから、
家で食べられないはずはない、と。
横で楽しくしゃべってくれたら
食べられるから、
面白い話のネタを仕込んでてな
といいつつ、買ってみることにした。
doironの変な要求に首をかしげつつ
3個ワンパックのものを買っていただき、
早速その夜に食べてみることにした。
「あのなあ、納豆菌は笑いたがりやから、
おもろいこと言うてな」とミセスに言うと
「その話自体がおもろいわ」と返された。
で、結局、なんの違和感もなくするすると、
いやズルズルと納豆は自然に
doironのお腹に入っていった。
気を良くして
「よーし、こうなったら次は納豆づくりに挑戦してみるか」
というと
「なにもそこに目標を持って行かなくても・・・」
とミセスはあきれ顔であった。
生まれてから58年目の出来事でした。
まあ、もう走るのが早くなることは
全く望まなくなった今、
ちょっと遅い納豆への目覚めでありました。
こうして次々と、食痴を克服してきたdoironなのだが、
魚嫌いの司馬遼太郎が
晩年魚を好んで食べるようになったという話は、
寡聞にして知らない。
先日行った彼の記念館で
取材してみたかったのだが
俳句大会でごった返していたのが
かえすがえすも残念だ。
立秋も過ぎたけれども、
まだまだ残暑は続いており、
親父の入院生活も相変わらず続いている。
病名は、持病の心臓と誤嚥による肺炎。
治療方法としては抗生物質の点滴とあとは安静しかない。
しかし、その抗生物質の点滴も、
入院を繰り返していると、
以前ほどの効果もなく、
回復曲線は緩やかになりつつあるようだ。
入院により、一時は病状もよくなって、
退院の日も決まり、迎えの手配も済ませていた。
にもかかわらず、
長い間点滴暮らしだったから
食事を口から摂取していなかったので
そのリハビリをしていたところ、
再び誤嚥を起こしたために肺炎が再発し、
退院が延期になってしまっている。
退院後の食事をどうすべきか
ここは悩みどころである。
さらに長期間入院すると、
当然足腰が萎えてくるのと同時に、
認知症が忍び寄ってくる。
その症状はというと、
全く正気の時があるかと思うと、
突然修羅場となるような日があったりして
浮き沈みの波がある。
そしてその波はまだ緩やかではあるものの、
確実に周期は短く、振幅は大きくなってきている
といわざるをえない。
振幅の底にあるときの錯乱ぶりときたら、
ここには書けないほどひどいものがあったりもする。
また、先日一時血圧がかなり下がったことがあり、
義父さんの時のことを考えると、
油断はできない状態であるともいえるだろう。
さすがのスーパー90歳と言われた親父も
ここにきて、寄る年波には押され気味だ。
加えて、夏の暑さの中で
スーちゃんの体力もかなり下がってきており、
一時は夫婦でダブル入院かと危ぶまれた時もあったが、
こちらはなんとか持ち直している。
そういう状況であるから、
なかなか気を抜くところがなく、
遠くに出かけるときは、
常に帰宅を意識しながらということになる。
と書いても、doiron自身は
まだそれほど落ち込んでいるわけではない。
こればかりは仕方がないし、
社会の一線を退いて、
それに耐えうる環境の中に身を置いているからね。
とまあ、こういう親のことを書くのはどうか
とも思ったのですが、
介護の記録にもなるし、
高齢の親と暮らしている人の
少しはお役にたてるかもしれないと思い、
紹介することにしたわけだ。
それに、親のことで友人たちとの付き合いに
義理を欠くことも多いので、
(ルネ合宿にも参加できなかったし・・・)
こうして状況を書いておくことで
理解してもらおうという意図もちょっぴりある。
いずれにしても、
残暑を迎えて綱渡りをしながら、
不安定な綱の上で
仕事と趣味と遊びをジャグリングしている状況
ではあることを申し添えて、
みなさんに「残暑お見舞い申し上げます」。
司馬遼太郎は41歳から平成8年に亡くなるまで、
30数年間東大阪に住んでいた。
没後5年後の平成13年に、
その下小阪の実家の横に、
安藤忠雄設計の
司馬遼太郎記念館が建てられ今に至っている。
入り口には、司馬遼太郎の実名である
「福田」の文字も添えられた表札がかかっていた。
入ってすぐの庭部分を歩いていると、
窓越しに彼の書斎が見えるようになっている。
これ。
書棚にはたくさんの本が置かれ、
机の上にはついさっきまで
彼がそこで文章を書いていたように、
メガネが無造作に置かれてある。
窓際には、座ると気持ちよさそうな椅子が置かれてあり、
目を休め、頭を休めながら
庭の木々を眺めていた姿が目に浮かぶようだ。
doironの書斎と比べてみよう。
書棚にはハイキングの地図本や
古本屋の100円文庫が並び、
机の上にはパソコンと共に
食べかけのお菓子が置かれてある。
窓は西日が入るので
半ば雨戸を閉めたままである。
まったくえらい違いだ。
そもそも彼の素晴らしい才能と
doironのそれじゃあ、
銀河と石ころほどの差があるので、
まあ石ころにはふさわしい
と言えばふさわしい書斎ではある。
あるだけましかと思うことにしよう。
その実家を通り過ぎ、
記念館の方に行くとビックリするほどの多くの人がいた。
なんとその日は、俳句大会の日だったのだ。
館内のあちこちで、高齢者が紙に何かを書いている。
中には展示してあるショーケースの上にまで
紙を広げている行儀の悪さ。
それに、上映館の中でもペチャクチャしゃべりまくっているし、
「今どきの年よりは・・・」と言いたくなるよまったく。
まあそんな人たちにあきれ返りながらも
しげしげと展示を眺めてみた。
館内は撮影禁止なので写真を紹介できないが、
3階まで吹き抜けになった書棚と
そこに並べられた本の数々には圧倒された。
その中の一冊に目が止まった。
「菜の花の沖」。
そこに並べられてあった本の装丁に見覚えがあったので、
もしやと思って家に帰ってから確認してみたら、
これも古本屋で1冊100円で買った本が、
全部初版本であったのには驚いた。
途中まで読んで止まっているその本を
またありがたく読み始めようと思っている。
もうひとつ面白かったのは
その書棚の天井に、
偶然にもあの坂本竜馬の有名な写真の姿の一部が
まるで影絵のように、
天井に染みになって浮かび上がっていることだった。
ちょうどこの写真の四角で囲った部分の
シルエットの形のしみで、
「竜馬が記念館をのぞきに来ている」
とそこでは紹介されていました。
ひょっとしたら我が家の壁にも
「ミロのヴィーナス」なんかがあるかもしれません。
大勢の人達から逃げるように退館し、
次に目指したのが「俊徳道」。
といっても、近鉄の駅のことではありません。
河内国高安の長者の息子で、
継母の呪いによって失明した
「俊徳丸」が落魄したのちに、
恋仲にあった娘・乙姫の助けで
四天王寺の観音に祈願することによって
病が癒えるという伝説があり、
その俊徳丸が四天王寺へと通ったみちが
「俊徳道」
または
「俊徳街道」
として今も残っている。
その道がこれ。
今で言うところの府道24号線です。
俊徳丸の伝説は、熊野に詣でた小栗判官が
熊野で蘇生したという話によく似ている。
蘇りを伝説化することによって、
聖地化し、勧進を進めるという目論見がそこにあるようだ。
そんな俊徳道をしばらく歩いて、
くつろぎの長瀬川沿いに
近鉄まで戻って
歩行距離は約5キロ。
盛夏にほっつくには頃合いの街歩きでした。
大阪の小阪、終わり。
近頃、遅ればせながら司馬遼太郎にはまっています。
「坂の上の雲」や「菜の花の沖」など
長編が数々ありますが、
特に最近はまっているのが
「司馬遼太郎が考えたこと」というエッセイ集です。
doironが生まれたころに書かれた
というのに全く古さを感じさせないことに驚きました。
博学と見識に裏打ちされた彼のエッセイは
とても明晰で、読んでいる者の気持ちを
なぜか明るくさせるような気がします。
今回はそんな司馬遼の記念館があるという
東大阪は小阪の周辺に歩きに出かけてきました。
スタートは近鉄の河内小阪の駅です。
歩いたコースはこんな感じ。
このあたりは昔、職場の友人がいて
よくビリヤードをしに遊びに来たところです。
懐かしい駅前のコインパーキングに
車を停めて歩きはじめました。
駅前の商店街の入り口には、
大きく「司馬遼太郎記念館」の文字が
掲げられてありました。
まるで、そのアーケードが
記念館の入り口であるかのような案内です。
駅前の歴史のみち案内板を見ながら、
そのスカイドーム小阪という
商店街に入っていきます。
平日にもかかわらず、
結構人のいる商店街でした。
100m位の商店街を抜けると左折します。
入り口にあんなに大きく案内があるのに、
そこには何もなく、
手元に地図を持っての散策です。
この季節は芙蓉の花がよく咲いています。
人の家の玄関先でカメラを構える
不審な親父はさらにてくてく歩きつつ、
目はマンふたや電プレにもキョロキョロ配り、
街中ではとてつもなく不審な行動となります。
あ、そうそう、東大阪のマンふたには
こんなマークが・・・
最初は全く分からなかったのですが
東大阪の「ひ」と平和の鳩の姿からなる市章のようです。
そうです。
私が、地面にしゃがみ込んで
フムフム言ってる
「変なおじさん」です。
でもまあ不審がられやしないかと人目を気にしていると、
なおさら不審になりますから、
ここはひとつ大胆にまいりましょう。
東大阪では、歴史のみちに
こんな道標を建ててあるようです。
地図にはこの場所に
「道標あり」
とか書いてあったので、
てっきり昔の石の道標を連想していたのに、
そうではなかったのですね。
残念!
でもまあ土地鑑のない地で
ありがたいっちゃありがたいですけど。
道はやがて小坂神社の参道入り口に出てきます。
おや?入り口横に立派な地蔵尊があります。
見ると、
「立江地蔵尊」
とありました。
これも他の場所を歩いている時に
たまに見る地蔵尊で、
確か和泉の山麓にもあるのを
見たことがあります。
本尊は四国八十八ヶ所めぐりの第19番「立江寺」です。
行基菩薩と弘法大師ゆかりのお寺で
そこにある地蔵を
各地に分祠しているようです。
「延命地蔵」「子安地蔵」といった信仰が
広く人々に受け入れられたのでしょう。
ここ小阪の地蔵尊でも
地蔵盆はさぞかし賑やかに行われるんだろう
と思っていたら、
ネットによりますと数年前から
地蔵盆はしていないようです。
年に一度とはいえ、
地蔵盆をやるとなると
ただならぬ動きをしないといけません。
うちの村でも、
村人総出ともいえるほどの人数で
おにぎりを握ったり、
お供えを集めたりと
かなり大変なイベントです。
昨今はそういうことを仕切る人も少なくなり、
合理的生活を送る人々には
疎ましいだけのイベントなのかもしれません。
参道に入っていくと
またまた「道標」があります。
そこをくねくね行くと小坂神社です。
今の地名は「小阪」なんですが、
神社名は「小坂」となっているんですね。
入り口に立っている
神社名を刻んだ石の側面には、
「大正11年2月」の文字がありました。
親父よりも1か月年上です。
その神社を過ぎれば、
いよいよ「司馬遼太郎記念館」に到着です。
前方に記念館の森が見えてきました。
続く
義父さんの遺品整理をきっかけに始めた
親父の写真整理であったが、
これが長い時間の壁をとっぱらって、
ことのほか楽しい時間となった。
あ、断っておくけど親父は入院しているだけで
存命でありますから。
小さな会社の社員だった親父と、
家でガラス細工や毛布の起毛、
ミシンの仕事などの内職をしながら
頑張っていたおふくろの生活は
決して楽なものじゃなかった。
なので、貧乏な我が家に
その昔カメラがあったわけでもなく、
残っている写真の枚数はたかがしれている。
今なら一度旅行をすれば
写せるくらいの枚数しか残っていない。
そこには、今の自分よりも若い昔の両親の姿や、
その横で嬉しそうにしている
子供の頃の自分の姿、昔の祭りの様子などが写っていた。
もちろんその時に撮ってもらっていた記憶なんかは全くない。
そんな中で、目に留まった写真が何枚かあった。
まず昔の村の様子が写っている写真が数枚。
そして家の様子も数枚写っていた。
今でも時々昔の家に住んでいる夢を見ることがあるくらいで、
これはとても懐かしかったな。
もう今はないけど、
ずっと昔は家の前に小川が流れていて、
そこに架かっていた我が家専用の橋が
チラッと写っているのは感動ものだったな。
赤い矢印が橋
自分にとっては、記憶の片隅に
ほのかにしか残っていない記憶だから、
奇跡の一枚ともいうべき一枚だった。
そして別の1枚には
昔の村のだんじりが写ってた。
だんじりは変わったけど、
祭はあの頃と変わらず、毎年行われているんだと
あらためて実感した。
上の写真が昔のだんじりの屋根に乗るdoiron
下の写真が今のだんじりの屋根に乗るdoiron
そしてもう一枚。
これは、かなり古くて茶色に変色していたが、
裏に書かれてある記述をようく読むと、
どうやらdoironの祖父が写っているようだった。
doironが生まれた時にはとっくに他界していた祖父の姿と、
恥ずかしながらこの歳になって初めて対面したことになる。
迷わずスキャナで取り込んで
データ化することにした。
祖父に関しては残っているエピソードも
ほんのわずかなのだ。
だからなんとも貴重な一枚となったのがこれ。
向かって右端が、祖父「富三」です。
やはりその部分はどうしても指で触れたりするので
擦り切れていたため
画像ソフトで復元を試みてみた。
それがこれ
う~ん、なかなか修正は難しい。
橿原考古学研究所にでも
依頼してみますかね~
ともかくdoironが「生まれたときには
とっくに他界していた祖父とは
始めまして~のひとときであった。
他にも、親父が若い時に行った山の写真が10枚ほど残っている。
山容から大体どこの山か想像がつくのだが、
これも裏面に言葉が殴り書きされている。
大台ケ原、
多岐アルプス、
倶留尊周辺
などの写真に加えて、
驚いたのが、昨年首Dさんや
ジム友と出かけたお菊山の写真まであった。
さすがにdoironの親だけあって
よく似たところに出かけているものだ。
観光地の写真は、
神社などで写したものが多い。
半世紀は経っているだろうが、
こういうところはほとんど変わっていないんだろうね。
場所がわかるところなんかには、
あらためて写真を持って出かけてみて、
昔と見比べてみるのも楽しいかもしれない。
そういう意味ではdoironの子孫には
楽しみをいっぱい残してあげている
と言えるだろう。
白黒写真や名刺サイズの写真なども残っていたし、
消えそうになっている写真もあった。
ひととき、親父の人生にこってり触れた写真整理だった。
義父さんの四十九日も終わり、
最近は時間を見つけては
義父さんの遺品整理を手伝っている。
もう使えそうにないものは、
できるだけ費用のかからない方法で処分するが、
処分するのにしのびないものは
きちんと整理をしてあげなければならない。
先日、日常身につけていた衣服のうち、
生地として使えそうなものは残しておいて
針仕事の得意な義母さんがリサイクルすることになったが、
そうでないもののうち
まだ十分着れそうなものや
新品同様の衣類を、
古着屋に持ち込むことにした。
最近はこういう商売もそこそこ成り立っているようで、
あちこちに店ができてリサイクル業界も活発だ。
無駄なくものを消費することは大切なことやね。
今般、重さで買い取ることがほとんどの店でも、
ダンディであった義父さんのことだから、
なかなかいいものを持っていたのだろう、
そこそこ値段がついた。
かつて、義父さんがもう
年齢的に着れなくなったジャケットをいただいて、
仕事に来て行ってたことがある。
本当に仕立てが良くて、
長年愛用していた。
また、着物もdoironの体型に合わせて
仕立て直してくれるそうだ。
今回古着屋で買い取ってもらったお金は、
義父さんのお線香などの供養に
いくらかは役立ててもらうことにした。
そんな遺品整理の中で、
もっとも時間がかかったのが、
残されてあった写真の始末だ。
義父さんは若い時には写真を趣味にしており、
かなり権威のある賞の受賞もされている。
したがって、おいそれと始末するわけにはいかない作品が多い。
一枚一枚見ながら確認していくので、
この上なく時間がかかるというわけだ。
これは受賞した写真だ。
これは額に入れておこう。
これとこれは組み写真だから、
一緒に置いておかねば
などといいながら、
時間をかけてじっくり整理をした。
捨てる写真でも、
「必要ならスキャナーでデータ化してあげるよ」
と義母さんに言ったもんだから、
途中でまたイチからやり直した
という経過もある。
義父さんが与えた親孝行の時間だと思って、
がんばったけどね。
写真整理をしていて、
最も手の止まるのが家族写真だ。
いつ、どこで、どんなシチュエーションで撮った写真なのか、
またそこに写っているのは誰なのか
なんてことを一枚一枚確認して
整理していくのは相当手間がかかるが、
なんだかとてもいい時間ではある。
なかなか高齢になってくると、
写真の整理もできないもので、
かなりの枚数があったのだが、
なんとかめどがついて
今はほっとしているところなのです。
そんな整理を終えてから、
我が家に帰って、
ふと、我が家の写真はどうなっているんだろうと思い、
古い書棚を探ってみたら、
こちらも昔の写真が
無造作に放り込まれてあったので、
ついでに整理することにした。
この作業もまた、
思いのほか楽しいもので
初めて目にする古い写真もあって
思わぬ自分のルーツを垣間見るなど
の時間を過ごすことになった。
その話はまた明日。