「轟橋から撮影した川の景色」に
ようやく到達したdoiron。
これで今年の夏の宿題も終わったなあ
と思いつつ、橋の名前の写真を
撮ろうとした時です。
ガーン、ガーン、ガーン
そこにはてっきり「轟橋」と書かれてあると思っていたのに、
な、なんとそこに書かれてあった橋の名前は
「山海橋」
え~、これだったらジダンのブログにも載っていたし~
話が違うじゃん。
橋上からの景色に間違いはないのになあ、
どういうことやろ。
と呆然と立ち尽くしてしまいました。
ここはちょっと冷静に考えてみようと
バイクを止めて、橋げたに腰かけていると、
地元のお百姓さんが通りかかったので、
聞いてみることにしました。
例によってフリーライターの取材を装ってね。
バイクジャージでメットを被った変なライターですけどね・・・
あ、これを「フリーライダー」と呼ぶのか、もしかして。
そ、そんなことはありませんが
気のよさそうなその人と
こんな会話を交わしました。
「この橋はなんと呼ばれてます?」
「山海橋やろ。そこに書いてあるで」
「でもここが轟橋だと聞いてきたんですけど」
「轟川に架かっている橋には違いないさけ、轟の橋やろかい」
「轟橋という橋が他にもありますか」
「もうちょっと下の村中で訊いてみ」。
「ありがとうございました」
う~ん、新たな情報です。
この情報に基づくと、
「山海橋」もある意味「轟橋」のひとつ
という見方も生まれてきました。
ホームページに書かれてある内容は、
そういう地元の人の微妙な感覚に基づいているのか、
それとも管理者の単なる勘違いか、
のどちらかしかありません。
とりあえず、もう一度
下流に下って村の中で
取材をしてみようと思っていましたら、
細かい雨が降り始めてきたので
その日のところは一旦引き返すことにしました。
あーあ、また先延ばしかと思いつつ、
何とか雨にぬれずに帰宅後、
さっとシャワーを浴びて、
冷たいビールで体を冷やしつつ、
さらにネットで他にヒントはないかと
調査の幅を広げてみました。
すると、ある社会人団体の
ホームページの中にある
「春木川橋づくし・手鞠歌」
というのがヒットしました。
読んでみると、
臨海道路に架かる最下流の新春木橋から始まって
最上流の留塚(とめつか)橋
までの主な橋31本の名前を、
テンテン、トントンと拍子をつけて
手鞠歌に盛り込んで歌にしています。
その歌詞の中に「轟橋」が出てくるのです。
そのくだりがこれ
「東西橋 テンテンテンテン 名も変わり 轟橋」
この手鞠歌は、ネットの状況からみて、
春木川を愛してやまない人が作った歌とのことです。
その手鞠歌で
轟橋とも呼ばれている東西橋というのがこれ。
(写真はジダンのブログから)
ということは
山海橋も東西橋も轟橋と言われている
ということになるのでしょうか。
ここで6番まである歌をもう一度よく見てみました。
他には轟橋の名前はありません。
ということはですよ、
他に明らかに「轟橋」という名前の橋があれば
この川を愛するその人の作った歌の中には
必ず歌われているはずです。
しかも、昨日紹介した詳細な
春木川の橋の状況を記載してある
「端から橋まで」というブログにも
轟橋の記載がないこととあわせて考えると、
「轟橋」と銘打たれた橋はない
ということを、意味しているとみて
間違いないと思われます。
ただ、轟橋といういかにも
名橋でいわれのありそうな名前を
地元の人に愛されてやまない
「轟川」に架けたいばかりに、
ある人は轟川に架かる山海橋を、
またある人は東西橋を
「轟橋」と呼んでいるんだろうと
推察されるわけです。
あの山のお百姓さんが言ってた
「轟川に架かっているから、轟の橋には違いなかろう」
という言葉が地元の人の心情を表しているように思えてなりません。
そしてそれが、下流の人達にとって、
上流への遠慮なのかそれとも
さも「轟橋」なる橋が上流にあるような
思い込みにつながっていったのかもしれません。
そしてさらに河川管理者も
そんな流域の人達の心情を慮って、
小栗街道周辺の轟橋に
「上」、「下」や「大」の言葉を
つけたりしたんだろうというのが
doironの結論です。
そうです、簡単には見つからないはずです。
「轟橋」という橋は実際には存在しないけど、
意外にも流域の人達の心の中に
架かっていた橋だったというわけですね。
橋の存在のみならず、
流域の人達の心の中にまで踏み込んだ
「夏の宿題 轟橋」の調査。これにて終了です。