ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

福島な野田 2

2014年08月20日 21時10分30秒 | ウォーキング

歩きながら遠くを眺めると
都会のビルが林立し、
その間から見える空が真っ黒になってきた。

天気予報では3時から雨となっていたが
この分だと早まるかもしれないと思い先を急ぐことに。

次の見所は、極楽寺からすぐのところにある、

野田恵美須神社



ゑびすといえば、
七福神の中でも釣竿とタイの入った
魚籠を持った神様で知られている。



まあいわば漁業の神様でもあるわけだ。

さてこの福島地域、
今は川に面しているとはいえ、
内陸のようになっているこの地も
かつては海に浮かぶ島だったそうだ。

それはここにゑびすさんがあることからも伺えるとのことである。
そういえば、地名に「島」がついている。

福島の名の由来の一つにこんなのがある。

ここから大宰府へ島流しになったと言われる
菅原道真公が、昔は「餓鬼島」と言われていたこの地を、
それじゃああんまりだと
「餓鬼島」あらため「福島」と呼ぼう
と改名したという伝説が残っているそうだ。

そのようにかつて島だったこの地にも、
やがて淀川が運んできた土砂が堆積して、
陸となっていくのだが、
それゆえ土壌が肥沃であったこの地に
よく育った植物がある。

「藤」だった。

かつて、吉野の桜、高尾の紅葉と
並び称されたほどこの地域に見事に咲いていたそうだ。

秀吉もわざわざこの地に「花見」に訪れた
という記録もあるそうだ。

この藤は、普通の藤とちがって
非常に多くの花が咲き誇り、
ツルの巻き方が逆であるなどの特徴があって、
植物学者によって「野田藤」と命名されたそうだ。

かつて歩いた熊野街道沿いの信達宿にも
見事な「野田藤」が咲くことは、
泉州の人は良く知っている。

あの藤である。



この神社には、その野田藤の藤棚もある。

残念ながら花の時期ではなく、
緑の葉っぱが茂っているだけでした。



そこにあった説明書きを読むと、
近年は花の勢いがかなり衰えているそうで、
保存に力が注がれているようである。

福島が福島と呼ばれている歴史や、
このあたり一帯に咲き、
地域の人が誇りとしている野田藤の姿が
この神社にありました。

神社を出て、道を行くと、
おお~道標です。

しかも、歴史を感じさせる立派な道標です。



「左 御舊跡御坊極楽寺 右なか山あまがさき・・」とある。

なか山は先日歩いた中山寺のことで、
大阪と兵庫間の物流の要でもあった
梅田街道から大和田街道を経て
兵庫の方に向かっていく道に
つながっているということだろう。

そして、側面には

「右 ふなっしー」

ではなく「右 ふなつ 左なかのしま」とある。



堂々たる道案内ぶりだ。

そして現代の道案内も、
道に導き石が埋められていたり、



道路沿いにこんな案内板が設置されていたりと負けてはいない。



そこからしばらく歩くと広い道に出る。
府道29号線だ。
お盆期間ということもあって、
道はかなりすいているように見えた。
といっても普段の交通量は
まったく知らないんやけどね。
その道の先に見えているのが、
先ほど道標が案内していた
堂島川の船津に架かる「船津橋」だ。

その道を横切って一直線に続く
野田商店街を歩いていると、



ついに雨が降り始めた。

最初は細かい霧のように、
やがてパラパラと降るようになり、
風も出てきた。
傘を持っていなかったために、
この時点で野田駅に引き返すことにした。

しかし、このあたりは昭和な雰囲気が残っているとあって、
路地が入り組んでいる
五叉路または六叉路まであって、
地図を見ていてもそれほど細かい地図ではないので
全く方向が分からない。

傘をさして歩いている人に訊きまくって
ようやく駅に戻った時には、
かなりのぬれだぬきになってしまっていた。

傘はないけど、汗用に持ってきたタオルがあったので
拭くことができたのは幸いだったのだが、
これがこのあとちょっとしたトラブルの原因となった。

ここまでのコースはこれ。



そして続く。


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