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全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

古いぞ古市古墳群4

2019年07月13日 21時26分02秒 | ウォーキング

白鳥陵古墳を見たら、
竹内街道を少し戻っていきますと、
そこに「軽羽迦神社」があります。



ヤマトタケルの仮の墓から
ついた名前で、この墓があるので
この地域はさっきも言ったように
軽墓といわれていたようです。



そして白鳥通りの羽曳野白鳥郵便局の
ところに出たところには
こんな看板も立っていました。



「古市大溝」といわれる水路跡です。

古墳の築造の少し後くらいに
人力によってつけられた溝の後が
残っているようです。

いくつかの古墳もこの溝の築造で
壊されているらしいです。
そんな看板のところから



北のところの公園のバックに
なっていた古墳が青山古墳です。



住宅街の中にひっそりとあります。



ここは5世紀中ごろに
作られたおおきな円墳です。
一部には造り出しもありますが、
詳しい調査がまだ行われていないので
不明な点が多い古墳だそうです。

その古墳から東側の方に
移動していきます。

ああここからは羽曳野の
翠鳥園遺跡が見えています。



あれは古墳時代よりも前の
石器づくりのアトリエです。
ああいろいろと過去のものが
展示されているんですねえ。

やがてその先で大きな古墳が
見えてきました。
「墓山古墳」ですね。
五世紀前半の前方後円墳で
古市古墳群の中で
第5位の規模を持つ古墳です。



まわりには深い堀があります。



この古墳は近くに羽曳野市役所
なんかもありますが、
いくつかの陪冢と思われる古墳もあります。

その一つが、この方墳である
「浄元寺山古墳」です。





墓山古墳の西側にあり、
墓山古墳の中心線が浄元寺山古墳の
北側線とぴたりと一致するところから
陪冢であろうといわれています。

そして墓山古墳をぐるりんと
回って歩いていきますと、
ちょうど墓山古墳の向こう側に
あったのが、まるきりそんな名前の



「向墓山古墳」。

浄元寺山古墳と墓山古墳を挟んで
対照的にある方墳です。
一部が墓山と重なる位置にあるので
ここも陪冢であろうといわれています。

その向墓山古墳から
さらに少し南に行ったところに、
「西馬塚古墳」があります。





墓山古墳とは少し離れた
地域にありますが、
調査からどうも墓山古墳の
付属古墳ともいわれています。

ああこんな住宅街の中に
大きな古墳がひとつあって、
そのまわりにも入り組んだ形で
陪冢や関連古墳があるんですねえ。

それにしても現役で働いていたころに
よく行った羽曳野市の市役所の

すぐ裏あたりに、
こんな陪冢もあるような
大きな古墳があったとは
今更ながら驚きですねえ。

そういえば、ここで昔に会議に出たときに、
会議室の外に見える景色が
緑が多かったことを
思い出したりしますねえ。

でもこういう取り上げ方がされないと、
ほんとにきずかないものなんですねえ。

墓山古墳の周りをまわって
市役所の横に出てきます。

え~っと資料を見てみますと、
あれ?一つ古墳が抜けていますよ。

「野中古墳」にまだ行ってません。

羽曳野市役所の横、
羽曳野警察の横の道を



登っていきますと、
静かな住宅街に出ていきます。

う~んどの家も立派な家が
多いですねえ。
そんな家の合間に小山が見えています。
これが「野中古墳」です。



5世紀前半に墓山古墳の陪冢として
作られた方墳です。
資料ではここは登れる古墳と
書いてありましたが今は
フェンスなんかもあって、
中には入れそうですけど
遠慮しておきました。



ここの発掘では木箱が5つ出てきて、
その中には甲冑なんかも
あったそうです。

それにしても
ちょっとこの辺は入り組んでましたね。

整理しておくと大きな墓山古墳が
ひとつあり、その周りに陪冢として
この野中古墳、向墓山古墳、
浄元寺古墳があり、付属墓として
西馬塚古墳があったと
こうなるわけですねえ。

続く