ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

古いぞ古市古墳群3

2019年07月12日 21時44分50秒 | ウォーキング

この道標をすぎて
さらに南に進んでいきますと、
大きなため池がありました。



亀や鳥がたわむれているため池ですねえ。





奥の方に山が見えますが、
あれが古墳ですね。



「仁賢天皇陵古墳」です。

この天皇は第24代天皇です。
古墳築造は6世紀前半の頃なので、
世界遺産の古墳には入っていません。
もうこの6世紀前半頃となりますと
古市古墳群ではほぼ最終の頃の
古墳ということです。

そしてその向こうに羽曳野の
中央図書館がみえています。



ああ、この辺りにdoironが
以前住んでいたマンションがあります。



これですねえ。

当時はこの横に小さなため池があって、
その向こうに古墳がありましたが、
いまは全部公園になっています。





見晴らしもよく広い公園なので、
ちょうどここでお弁当にしましょう。



のんびりと食べます。

ああ、ここからよく見える二上山に、
あの頃はよく上ったなあ。
このマンションの屋上から
PL花火も見えていたなあ。

すこし遠くの方に外環の車の音、
背後からは笑い声や人の声と
何となく人々の暮らしを
感じるけどそれでもじわーっと
静かな感じが残っているのが
不思議な感じです。

古墳パワーかなあ。

それにしても結婚をしたときに
ここに住み、あれからもう37年。
地域の雰囲気も何となく
変わりましたねえ。

このあたりはイチジク畑が
広がっていたのですが、
いまはもう住宅だらけです。

この公園の横にあるのが
峯ヶ塚古墳です。



5世紀の末ごろに築造された
前方後円墳です。
ここでは内部の発掘調査が
行われており3500点もの
発掘がされているようです。

そんな調査から、ここは
大王クラスの人の墓だと
いわれていますが
はっきりとはしません。

ここもヤマトタケルの墓だ
という説もあるようです。

この辺りは「軽墓」といわれていました。
ヤマトタケル仮の墓が
なまってカルハカになった
という言い伝えが残っています。

そして今は「軽里」という
名前の地域になっています。

そもそも「羽曳野」は、
ヤマトタケルが没後白鳥になって
この辺りを羽を曳くように
飛び去ったということで
「南大阪市」から「羽曳野市」に
変わったというところです。

市の名前や地域の名前が
ヤマトタケルにちなんだ
そういうところなんだそうです。

没後、白鳥になって飛んだところから
この白鳥の名前の付いた古墳が
次の目的地「白鳥陵古墳」です。

峯ヶ塚とこの二つの古墳を
結ぶ古市駅に向かう道も
「白鳥通り」と名付けられています。



峯ヶ塚公園横の



「時とみどりの交流館」
(この日は休みでした)の横を通り、
交通量の非常に多い外環状道路も
こえていきます。





おおきなためいけの横の道ですねえ。



な、なんとここは日本最古の国道である
「竹内街道」なんですねえ。





ああ、ここもまだ歩いていない道です。
そのうちに出かけてこよう
と思っています。

昔働いていた松原市も通る道ですねえ。

その街道に沿って外環の
東側を進んでいきますと、



その白鳥陵古墳が見えてきます。



三重県能褒野でなくなった
ヤマトタケルは白鳥になって
飛んできて、この陵のあたりで
空へ飛び去ったといわれています。
なのでこの陵は宮内庁では
ヤマトタケル最後の墓
といわれていますが、
ヤマトタケルの生年の頃と
この古墳が築かれた5世紀後半では
年代的に100年ほどの
差があるようですから、
ヤマトタケルの墓には最初に行った
津堂城山古墳であるとか、
さっきの峯ヶ塚古墳であるとか
様々な説があるようです。

そしてさらにここは白鳥陵古墳と
陵の付く名前になっていますが、
陵は天皇の墓につけられる名前です。
しかしヤマトタケルは天皇にはなっていません。

それでも古墳に「陵」が付くのは、
まあ特別なことのようだと
様々な資料で言われているのです。

続く