ハブ ア ナイス doi!

いつまで続くのかコロナとの戦い。
全て解放されて、もっと、もっと
心から楽しまないとねえ。

読経と小正月

2014年01月15日 22時24分09秒 | 最近の出来事

法事やお葬式に参列すると、
お坊さんがお経を唱えるシーンがたいていある。

こちらは椅子に座ったり、
座布団に正座しながらそれを聞くのだが、
時折、参列者の中には
お坊さんと同じようにお経を唱える人が少なくない。

「南無阿弥陀仏」の部分だけでなく、
般若心経だったりすると
そらでお経を唱えはじめる人もいたりする。

自分はそれほど信心深い人間ではなく、
どちらかというと罰当たり的な人間だ。
そんな人間だから、
お経と言っても「南無阿弥陀仏」と唱える部分しか知らないので、
そこだけは数珠を持った掌を合わせ
「なむあみだぶつ」と唱えたりするものの、
他の部分は口パク同様で済ませている。

「そんなことじゃ信心が足らんだろう」といわれても
何も対処するすべはないから、
そんな時は、不謹慎ながら
「誰もがお経を唱えたらお坊さんはいらん」
などと自分に言い聞かせたりしている。

法事や葬式ではそんな思いをすることがよくある。

とまあ、こんな信心の薄い人間なのですが、
悲しいことに、村という社会の中で暮らしている以上、
信心深い人たちのお手伝いをする役割も
順番で回ってくるので務めなければならない。

それは地蔵菩薩の頭屋であったり、
神社の氏子総代であったりする。
なかでも大変なのがもう一つ回ってくる。
それは、村の菩提寺の世話人や檀家総代といった役割である。

具体的には、
世話人は法会の案内や塔婆を信徒に配ったり、
寺費や彼岸法会やお十夜法会のお布施を
檀家を回って集金し、
お寺に届けるという役割を担うことになる。

また、たまには寄進勧請のお手伝いをすることもある。

doironは昨年と今年の二年間、
同級生と二人一組でこの世話人を務めることになっているのだ。

その世話人という役の他の務めの一つに、
お寺の新年会への参加というのもある。

お寺と檀家のつながりを強め、
檀家同士の交流を図り、
そして日頃の御苦労への慰労も兼ねて開催されるもので、
先日同級生と一緒に参加してきた。

もちろんお酒も会席もあるのだが、
その前に行われるのが読経と法話である。

各地区で選定された世話人が20名ほど
本堂に集まり読経をするのだが、
さすがにこの時は口パクとはいかず、
お経の巻書が配られるので、
それを見ながらお坊さんと一緒に読経をしなければならない。

覚悟を決めて、やってやろうじゃないか
と、挑んでみたまではよかったのだが、
お経ってはっきりした声で読むから抑揚も出せるものの、
つぶやくように唱えると
キーを合わせるのでさえ非常に難しいことをその時に知った。

ええい、ままよと他の世話人さん達と同様に、
声をしっかり出して唱えてみたが、
自分でも笑ってしまうほど
音が外れてしまっていた。

お経にも音痴ってあるんやねえ。

同級生は1昨年、1週間会社を休んで
授戒(*)を受けていたので、
読経は慣れているようである。
あとで聞いたら、横で笑いをこらえるのが大変だったそうだ。

(*)「授戒」とは、
結界が整った場所で戒律を授けるといった仏教儀式のことをいう。
日本では、鑑真が東大寺で行ったのが初めと言われている。
昔はお寺に泊まり込みでこれらを受けたそうであるが、
今は日帰りで一週間ほどお寺に通いつめ、
法話を聞いたり、お経を唱えたりするそうだ。
受けたことがないので聞いた話でしか知らないが、
これがまた、高齢者には辛く、
立ったり座ったりを繰り返すという荒行であったり、
座り続けてお経をあげる難行であったりするらしい。
浄土宗ではこれを受けることによって、
生前に戒名がもらえるということになっている。

てなわけで、信心の薄いdoironにとっては
恥のかき初めとなった新年会でありました。

そして今日は小正月。
ミセスが赤飯を炊いてくれました。



また昼間は近所の神社でお札や
しめ縄を燃やす「とんど」の行事もあり、
その火にあたってきました。



信心の薄いdoironでも
とんどの勇壮な炎をみていると、
気持ちの高ぶりを覚えたものです。