おてんきぷらぷら

ホームタウンは三鷹。気ままな旅・街散策にFC東京。

四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之拾四〕 第52番~第53番(松山市内散策)

2020年11月30日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日 『四国お遍路さん〔八十八ヶ所霊場巡拝〕の旅』 (14)

6日目(11月30日)の宿泊は、松山東急REIホテル。松山市内の夕方の渋滞で、ホテル到着時間が予定より遅れ、夕食までの時間はあまりなかったのですが、愚息はホテル向かいの三越と三越隣りのショッピングモールで、スノーボード用品を購入。松山でスノーボード用品とは場違いですが、ようやく、地域共通クーャ唐gい切る目途が立ったよう。さて、夕食は、大街道の裏路地の"郷土料理 割烹 いずみ"さん。ツアー客でしたが、鯛めしで〆る会席コースで、愛媛県の地酒をたんまりと堪能できました。食後は、ほろ酔い気分の中、道後温泉を目指します。松山訪問は今回で3回目(部下の結婚式出席、FC東京の愛媛FC戦遠征)となるのですが、実は、道後温泉の入浴は未体験。過去2度とも入浴しようとチャレンジするも混雑で待ち時間あり、止む無くあきらめた次第。3度目の正直で、念願の"神の湯"入浴は、閉店間近で深めの湯舟に、2~3人と空いていて、少し熱めの湯は大変心地よく、思わず天国天国と呟いてしまいました。道後温泉本館は、日本最古といわれる道後温泉のシンボルであり、"神の湯"に代表される温泉施設。日本の公衆浴場として初めて平成6年(1994)に国の重要文化財に指定されながら、現役の公衆浴場として営業中。平成21年(2009)にはミシュランガイドで、三つ星を獲得しています。古くは、日本書紀や源氏物語など様々な文献に登場してきた道後温泉。近代文学では、夏目漱石の"坊ちゃん"で有名ですし、また、ジブリの"千と千尋の神隠し"の舞台ともいわれます。そして、2020年夏。道後温泉が手塚治虫の火の鳥とコラボした「道後REBORNプロジェクト」のもと、期間限定で、道後温泉本館プロジェクションマッピングスペシャルプログラム「FIREWORKS BY NAKED -火の鳥2020-」がスタート。保存修理工事の本館北面の2階・3階の障子をデジタルアートによる花火と、癒しの光を放つ「青の火の鳥」が彩っていました。帰りのハイカラ通りでは、坊ちゃん団子の店で、ツアーにご一緒したご婦人の皆さんへのお接待にお菓子を購入し、目標達成の満足の松山の夜。翌朝は出発前に、秋山兄弟生誕地や、坂の上の雲ミュージアムなどホテル周辺を散策し、清々しい松山の空気を感じることもできました。


【第52番 太山寺】
龍雲山 護持院 太山寺(りゅううんざん ごじいん たいさんじ)
 〒799-2662 愛媛県松山市太山寺町1730
 [ご本尊] 十一面観世音菩薩
 [ご真言] おん まか きゃろにきゃ そわか
 用明2年(587)、豊後国の真野長者、長者が大阪に向かう途中、高浜沖で大暴風雨に遭い観音様に祈って海難を逃れた御礼として、自国で木組みした建材を運び、徹夜で寺を建立。以来、一夜建立の御堂と伝えられている。天平11年(739)に聖武天皇の勅願をうけ、行基が十一面観音像を刻んで安置。弘法大師は天長年間(824~834)に訪れ、法相宗から真言宗に改宗している。

三の門


本堂(国宝)
嘉元3年(1305)伊予国守護・河野氏が再建。入母屋造本瓦葺、桁行約12m、梁間約16m。


大師堂


鐘楼堂


堂内の地獄絵






【第53番 圓明寺】
須賀山 正智院 円明寺(すがざん しょうちいん えんみょうじ)
 〒799-2656 愛媛県松山市和気町1-182
 [ご本尊] 阿弥陀如来
 [ご真言] おん あみりた ていせい から うん
 天平勝宝元年(749)、聖武天皇の勅願で行基が開基。"和気の圓明さん"の愛称で親しまれている。"四国仲遍路同行二人今月今日平人家次"と書かれた四国霊場最古(慶安3年(1650)のもの)の銅板納札が、アメリカ人巡礼者に発見され、保存されている。

山門


中門


本堂


大師堂


キリシタン灯籠 寛永年間(1624~1644)建立。十字架に聖母マリアが確認できる。






〔松山市内散策〕11月30日(泊)松山東急REIホテル

〔道後温泉駅〕


〔坊ちゃん列車〕


〔ハイカラ通り〕


〔道後温泉本館〕 明治27年(1894)に改築、木造三層楼の公衆浴場で重要文化財。
現在、保存修理工事中、入浴は"神の湯"のみ。手塚治虫"火の鳥"コラボプロジェクト実施中。






〔秋山兄弟生誕地〕






〔坂の上の雲ミュージアム〕
司馬遼太郎"坂の上の雲"の主人公秋山兄弟、正岡子規ゆかり資料を展示。




〔萬翆荘〕 大正11年(1922)松山藩主の子孫、久松定謨伯爵の別邸
萬翠荘敷地は夏目漱石、正岡子規と縁深く、愚陀佛庵の主の漱石の松山で一番自慢の地。




四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之拾参〕 第48番~第51番

2020年11月30日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん〔八十八ヶ所霊場〕巡拝の旅』 (13)

第51番・石手寺は、八十八ヶ所霊場のハイライトのひとつ。ミシュラン・ガイドで一つ星の評価を受ける松山を代表する観光スャbトとなっています。1318年に建てられた二王門が国宝に指定されているほか、鎌倉末期の建立の本堂、三重塔や、鐘楼など国の重要文化財が6つもあり、お遍路さんの元祖と言われている衛門三郎ゆかりの寺としても有名です。(※衛門三郎伝説は後術します。)道後温泉の東に位置し、コロナ禍にあっても参拝の人が絶えず、地元では、"お大師さん"として崇敬されているそう。もともとは、729年に行基が薬師如来を本尊として開創。813年に弘法大師によって法相宗から真言宗に改宗されました。初めは安養寺の寺名でしたが、892年に衛門三郎の再来伝説によって石手寺と改名。1566年、長曾我部元親による兵火で多くの伽藍が焼失するも、本堂、二王門、三重塔は免れました。国宝の仁王門には巨大な草鞋があり、足腰の病気が治るといわれています。仁王門に限らず、本堂、三重塔のある境内を取り巻く周縁には、人々の願いを叶えようとする願鰍ッがたくさんあります。それがスピリチュアルな雰囲気を醸し出し、パワースャbトと呼ばれる所以かも。来るものは拒まず、何でも受け止めるという精神世界にある石手寺は、雑然とした中にも、人々の悩み、苦しみ、欲望を受け止め民衆と共に存在しているお寺なのでしょう。


【第48番 西林寺】
清滝山 安養院 西林寺(せいりゅうざん あんよういん さいりんじ)
 〒791-1111 愛媛県松山市高井町1007
 [ご本尊] 十一面観世音菩薩
 [ご真言] おん まか きゃろにきゃ そわか
 聖武天皇の勅願により天平13年、行基菩薩が伊予に入り、国司・越智玉純とともに一宮別当寺として堂宇を建立。大同2年(807)、弘法大師が四国巡礼した際に逗留。大師は国司・越智実勝と協議、寺を現在の地に移し伽藍を再興、四国霊場と定め、国家の安泰を祈願する道場とした。

仁王門


本堂


大師堂






【第49番 浄土寺】
西林山 三蔵院 浄土寺(さいりんざん さんぞういん じょうどじ)
 〒790-0925 愛媛県松山市鷹子町1198
 [ご本尊] 釈迦如来
 [ご真言] のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
 天平勝宝年間(749~757)に孝謙天皇の勅願で、恵明上人が行基作の釈迦如来像を本尊として祀り創建。後に弘法大師がこの寺を訪ね、荒廃していた伽藍を再興。最盛期には、66坊もの末寺を持つタイ寺院であった。 

仁王門(修復工事中)


本堂


大師堂






【第50番 繁多寺】
東山 瑠璃光院 繁多寺(ひがしやま るりこういん はんたじ)
 〒790-0912 愛媛県松山市畑寺町32
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 寺は松山城をはじめ松山市街、瀬戸内海まで一望できる淡路山の中腹に位置。天平勝宝年間(749~757)に孝謙天皇の勅願により、行基が薬師如来像を彫造して安置し建立。弘仁年間(810~824)、弘法大師が巡錫し、四国八十八所第50番霊場に定めた。

山門


本堂


大師堂






【第51番 石手寺】
熊野山 虚空蔵院 石手寺(くまのざん こくぞういん いしてじ)
 〒790-0852 愛媛県松山市石手二丁目9番21号
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 神亀5年(728)、越智玉純が鎮護国家の道場を建立し、聖武天皇の勅願所となる。翌、天平元年に行基が薬師如来像を彫り本尊に祀って開基。安養寺と称した。石手寺への改称は、寛平4年(892)右衛門三郎再来の説話によるとされる。
 
《四国遍路の元祖 衛門三郎の伝説》
天長年間の頃、伊予を治めていた河野家の一族に衛門三郎という豪農がいました。ある時、みすぼらしい僧侶が三郎の家の門弟に現れ托鉢をしようとしました。三郎は下郎に命じてその僧侶を追い返しました。その後何日も僧侶は現れ都度追い返していましたが、8日目、堪忍袋の尾が切れた三郎は、僧が捧げていた鉢を窒フほうきでたたき落とし鉢を割ってしまいました。その後、三郎の8人の子供が次々と死んでしまいます。打ちひしがれる三郎の枕元に僧侶が現れ、僧侶が弘法大師であったことに気がつきました。己の行動を深く後悔した三郎は、お詫びをするために弘法大師を追って四国巡礼の旅に出かけます。ところが20回巡礼を重ねても会えず、何としても弘法大師と巡り合いたかった三郎は、それまでとは逆の順番で回りますが、巡礼の途中、阿波の12番・焼山寺の近くで病に唐黷トしまいます。死を目前にした三郎の前に弘法大師が現れると、三郎は過去の過ちを詫びました。弘法大師が三郎に望みを聞くと「来世は河野家に生まれ、人の役に立ちたい」という言葉を残して息を引き取りました。弘法大師は路傍の石を拾い「衛門三郎再来」と書きその手に握らせました。翌年、河野家に左手を握りしめた男の子が生まれました。両親が道後の安養寺へ連れて行き祈祷してもらうと、拳から「衛門三郎再来」と書かれた石が出てきました。その石は安養寺に納められ、寺の名を石手寺と改めました。

衛門三郎像


渡らずの橋(弘法大師が渡ったとされ、以降、橋を渡ってはいけないといわれる。)


仁王門(国宝)
文保2年(1318)河野通継が建造。高さ7m、間口3間、横4m、二層入母屋造本瓦葺。




本堂




大師堂


都卒天洞八十八か所霊場(マントラ洞窟入口)


三重塔


訶梨帝母天堂
子受け鬼子母神。堂の前にある石を持ち帰ると子どもを授かるといわれる。


日中友好弘法大師像
高さ(16m)日本一の大師像、体は中国、顔はインドを向いているのだそう。




四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之拾弐〕 第45番~第47番

2020年11月30日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (12)

第45番・岩屋寺は、八十八ヶ所霊場の中でも一番修行の道場を感じる山全体がご本尊という深山幽谷の山寺。駐車場から本堂までは石段を約20分ほど登ります。途中には数えきれない石仏が並び霊気を感じます。そもそも、弘法大師が、この地を訪れた時には、すでに法華仙人という土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就、なんと空中を自在に飛行できる神通力を身につけていたのだそう。法華仙人は、大師の修法に深く帰依し、大師に全山を献上することになります。大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、山全体を本尊にしたとのこと。山号の海岸寺は、"山高き 谷の朝霧海に似て 松吹く風を波にたとえむ"と大師が詠んだ歌にちなむます。本堂右手の梯子を上ると法華仙人窟。ここには、阿弥陀如来像が安置されており、江戸時代初期の遍路絵図には洞弥陀と描かれているのだそう。また、本堂の下にある洞窟が穴禅定。真っ暗な中を火を灯した蝋燭を頼りに歩いていくと、弘法大師が掘ったという湧き水"独鈷の霊水"が流れ出ていて、神秘的な雰囲気満載。さらに奥には、ね画を叶えれてくれる" かなえる不動"が祀られていました。八十八ヶ所霊場の中でも印象に残る札所のひとつでした。


【第45番 岩屋寺】
海岸山 岩屋寺(かいがんざん いわやじ)
 〒791-1511 愛媛県上浮穴郡久万高原町七鳥1468
 [ご本尊] 不動明王
 [ご真言] のうまくさんまんだ ばざらだん せんだん まかろしゃだ そわたや うんたらた かんまん
 標高700m。奇峰が天を突き巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場。本堂に安置されたご本尊のほか、不動明王の石像が岩壁に封じ込められ、山全体がご本尊となっている。伽藍を囲む礫岩峰は、胎臓界峰、金剛界峰と名付けられ、境内右手の梯子から岩壁の行場に登れる。

山門


参道の石段には無数の石仏が・・・


仁王門


本堂




法華仙人堂跡






大師堂


穴禅定(弘法大師が掘ったという洞窟。「独鈷の霊水」と呼ばれる湧き水がある。)










【第46番 浄瑠璃寺】
医王山 養珠院 浄瑠璃寺(いおうざん ようじゅいん じょうるりじ)
 〒791-1133 愛媛県松山市浄瑠璃町282
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 行基菩薩が奈良の大仏開眼に先だち、和銅元年に布教のためにこの地を訪れ、仏法を修行する適地として伽藍を建立、白檀の木で薬師如来像を彫って本尊とした。寺名は薬師如来がおられる瑠璃光浄土から。約百年後の大同2年(807)、弘法大師がこの寺に留まり荒廃していた伽藍を修復し四国霊場の一寺とした。



本堂


大師堂


仏足石


籾大師(樹齢約1000年の伊吹柏槙の根本に鎮座し、延命、豊作のご利益あり。)






【第47番 八坂寺】
熊野山 妙見院 八坂寺(くまのざん みょうけんいん やさかじ)
 〒791-1133 愛媛県松山市浄瑠璃町八坂773
 [ご本尊] 阿弥陀如来
 [ご真言] おん あみりた ていせい から うん
 修験道の開祖、役行者小角が開基と伝えられる。大宝元年(701)文武天皇の勅願で伊予の国司・越智玉興が堂塔を建立。8つの坂を切り開いたことにて寺号が付けられた。またますます栄える"いやさか(八坂)"にも由来する。その後、弘法大師がこの寺で修法し弘仁6年(815)、荒廃した寺を再興して霊場と定めた。  

本堂


大師堂


閻魔堂




いやさか不動尊(毎年4月29日に柴燈大護摩供火生三昧火渡り修行が行われる。)




四国八十八ヶ所霊場巡拝の旅〔其之拾壱〕 第40番~第44番

2020年11月30日 | Ohenro88
  11月25日~12月4日(9泊10日) 『四国お遍路さん(八十八ヶ所霊場巡拝)の旅』 (11)

6日目(11月30日)は、宿のスーパーホテル愛媛大洲インターを7時30分出発。前日の5日目後半は、高知県から、第40番・観自在寺、第41番・龍光寺、第42番・仏木寺へと、愛媛県、伊予の国、菩提の道場へ入っています。この日は、宇和町の第43番・明石寺をお参りし、一路、松山自動車道を利用し、松山ICで降り、第44番・大宝寺、第45番・岩屋寺を巡拝し、松山市内の第47番八坂寺、第46番・浄瑠璃寺、第48番・西林寺、第49番・浄土寺、第50番・繁多寺、第51番・石手寺、第52番・太山寺、この日の打ち止め、第53番・園明寺を巡拝し、この日の宿のある松山市街へと向かいます。八十八ヶ所札所の中札所となる第44番・大宝寺は、ようやく道半ばに到達し感慨深いものがありました。この大宝寺の仁王門の手前右下にある石洞に、今回のツアーにご同行いただいた先達の藤沢延子さんが、機関紙"へんろ"に投稿し記事になったとの、"三竦みの情景"が隠れています。カエル、ナメクジ、ヘビ。ナメクジはカエルに弱く、カエルはヘビに弱く、ヘビはナメクジに弱い。ジャンケンの様なこの世の摂理を感じるものでしょうか。教えていただかなければ、絶対にわからぬレアスャbトでした。さて、6日目(11月30日)の行程は以下のとおり。

  11月30日(月)
     = (43)明石寺 = (44)大宝寺 = (45)岩屋寺 = (47)八坂寺 = (46)浄瑠璃寺 =
     = (48)西林寺 = (49)浄土寺 = (50)繁多寺 = (51)石手寺 = (52)太山寺 =
     = (53)圓明寺 =
    【宿泊】松山東急REIホテル(愛媛県松山市一番町3丁目3-1)

〔伊予の国(愛媛) 菩提の道場 26ヵ寺〕
 菩提と言うのは道であり、知であり覚であると言われています。あらゆる煩悩を断ち切り、不生、不滅の理を悟って、初めて得る仏果なのです。発心の道場、修業の道場を経て、ようやくここにたどり着くと言う訳です。

   

【第40番 観自在寺】
平城山 薬師院 観自在寺(へいじょうざん やくしいん かんじざいじ)
 〒798-4110 愛媛県宇和郡愛南町御荘平城2253-1
 [ご本尊] 薬師如来
 [ご真言] おん ころころ せんだり まとうぎ そわか
 第1番霊山寺から最も距離が離れているため"四国の裏関所"と呼ばれる。弘法大師が平城天皇の勅願により、一本の霊木から本尊の薬師如来と脇仏の阿弥陀如来、十一面観音菩薩の三体を彫像。残り木で"南無阿弥陀仏"の名号を彫り、庶民の病根を除く祈願をした。

仁王門(天井には十二支の方位盤)




本堂


大師堂


栄かえる(ご利益:親子孫と三かえる。お金がかえる。福がかえる。病気が引かえる。)






【第41番 龍光寺】
稲荷山 護国院 龍光寺(いなりざん ごこくいん りゅうこうじ)
 〒798-1115 愛媛県宇和島市三間町戸雁173
 [ご本尊] 十一面観世音菩薩
 [ご真言] おん まか きゃろにきゃ そわか
 弘法大師でこの地で稲を背負う白髪老人に出会った。老人は"われこの地に住み法教を守護し諸民を利益せん"と告げたことから、大師は五穀大明神の化身であろうと考え、尊像を刻んで稲荷大明神として安置し開基した。地元では"三間のお稲荷さん"の愛称で呼ばれ、神仏習合の面影を色濃く伝えている。

本堂


大師堂


稲荷神社






【第42番 仏木寺】
一カ山 毘盧舎那院 仏木寺(いっかざん びるしゃないん ぶつもくじ)
 〒798-1102 愛媛県宇和島市三間町則1683
 [ご本尊] 大日如来
 [ご真言] おん あびらうんけん ばざらだと ばん
 大同2年(807)、弘法大師はこの地で牛を引く老人と出会う。誘われるまま牛の背に乗っていくと、楠の梢で光を放つ宝珠を見つけた。これは大師が唐から帰る際に、有縁の地が選ばれるようにと、三鈷とともに東方へ投げた宝珠だった。大師はこの地が霊地であると感得、楠で大日如来を彫り眉間に宝珠を埋めて本尊として一寺を建立した。

仁王門


本堂


大師堂


七福神 石造






【第43番 明石寺】
源光山 円手院 明石寺(げんこうざん えんじゅいん めいせきじ)
 〒797-0007 愛媛県西予市宇和町明石205
 [ご本尊] 千手観世音菩薩
 [ご真言] おん ばざら たらま きりく
 欽明天皇の勅願により、円手院正澄という行者が千手観音菩薩像を安置し、七堂伽藍を建立し開基。天平6年(734)、寿元という行者が紀州熊野から12社権現を勧請し2坊を建てて修験道場とした。その後、弘法大師が再興し霊場と定めた。建久5年(1194)源頼朝が命の恩人である池禅尼の菩提を弔って阿弥陀如来像を奉納し、経塚を築き山号の現光山を源光山に改めた。

仁王門


本堂


大師堂


仏足跡(インド・グプタ朝、5世紀の作で、最も古いといわれる仏足石を摸刻したもの)






【第44番 大寶寺】
菅生山 大覚院 大寶寺(すごうざん だいかくいん だいほうじ)
 〒791-1205 愛媛県上浮穴郡久万高原町菅生2-1173
 [ご本尊] 十一面観世音菩薩
 [ご真言] おん まか きゃろにきゃ そわか
 第43番明石寺からは約80㎞、峠越えの難所が続き、歩けば20時間を超す"遍路ころがし"の霊場であり、四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり"中札所"といわれる。大和朝廷の時代、百済から来た聖僧が十一面観音像をこの山中に安置。大宝元年(701)、文武天皇の勅願により寺院を建立。元号にちなんで大寶寺と号した。弘法大師は、弘仁13年(882)ここで密教三密を修法し第44番霊場に定めた。

仁王門




本堂




御影堂(大師堂)


蛇・蛙・なめくじの三すくみ(仁王門の土手の右下の彫り物)