慈光寺本の尾張河合戦「前」の宇治・勢多方面への軍勢配置と、流布本の尾張河合戦「後」の宇治・勢多方面への軍勢配置を比較すると、
(一)瀬田では、慈光寺本「美濃竪者・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後」の五人のうち、「播磨竪者」・「智正」(流布本では「小鷹助智性坊」)・「丹後」の三人は流布本と一致。
(二)宇治では、慈光寺本の「甲斐宰相中将範茂・右衛門佐・蒲入道」の三人のうち、「甲斐宰相中将範茂」は流布本の「甲斐宰相中将範義」と、「右衛門佐」は流布本の「右衛門佐朝俊」と同一の可能性が高く、二人は一致。
(三)慈光寺本では真木島に「佐々木野中納言有雅」とあるが、流布本では「佐々木前中納言有雅卿」は宇治橋を担当。
(四)慈光寺本では伏見に「中御門中納言宗行」とあるが、流布本には中御門宗行への言及なし。
(五)慈光寺本では芋洗に「坊門新中納言忠信」とあるが、流布本では「坊門大納言忠信」は淀を担当。
(六)慈光寺本では「魚市」に「吉野執行」とあるが、流布本では「吉野執行」への言及なし。
(七)慈光寺本では「大渡」に「二位法印尊長」とあるが、流布本では「二位法印尊長」は芋洗を担当。
(八)慈光寺本には「下瀬」に「伊予河野四郎入道」とあるが、流布本では「河野四郎入道通信・同子息」が「広瀬」を担当。
という具合に、細かな違いはありますが、かなり多くの人名が一致しています。
しかし、そもそも尾張河合戦「前」に宇治・勢多に人員を配置する軍事的意味が何かあるかというと、全くありません。
軍事的意味がないどころか、慈光寺本には、
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瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。美濃竪者〔りつしや〕・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後ヲ始トシテ、七百人コソ下リケレ。五百人ハ三尾〔みを〕ガ崎、二百人ハ瀬田橋ニ立向〔たちむか〕フ。行桁〔ゆきげた〕三間引放〔ひきはなち〕、大綱〔おほづな〕九筋引ハヘテ、乱杭〔らんぐひ〕・逆木〔さかもぎ〕引テ待懸〔まちかけ〕タリケリ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
とあるので、瀬田橋の橋板を三間分もはずしてしまったことになっていますが、これでは尾張河合戦で敗北した人々が京都に戻れなくなってしまいます。
尾張河合戦で勝利した幕府軍が瀬田橋に近づいた時点で橋板をはずすことに軍事的意味があるのであって、尾張河合戦前に橋板をはずすのは味方の退路を断つ裏切り行為です。
うーむ。
正直、私には尾張河合戦「前」に宇治・勢多方面への軍勢配置を記した慈光寺本作者の意図を掴みかねるのですが、一番簡単な答えとしては、単なる勘違いで書いてしまって、推敲も怠った、ということでしょうか。
ここも慈光寺本作者のいい加減さというか、作品の「未完成」を疑いたくなるような変な記述です。
仮に、
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去程ニ、酉時計〔とりのときばかり〕、東坂本ヘ御幸ナル。御勢纔〔わづか〕ニシテ、千騎トダニ見ヘヌゾ口惜〔くちをし〕キ。カゝルニ付〔つけ〕テハ、唯、都ノ騒〔さわぎ〕ナリ。何〔いか〕ナル御計〔おんはからひ〕ニカアレバ、又都ヘ帰リ入セマシマセバ、人ノ気色〔きそく〕、何トナクヨシト云ントスレバ、宇治・勢田両所ノ橋ヲ取破〔とりやぶり〕テ、軍場〔いくさば〕ト定メラル。公卿・殿上人モ、其道ニ叶ヒヌベキヲバ、皆差向〔さしむけ〕サセ給フ。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f89c9389b294c391d513d8879d32434a
の後に、
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瀬田ヲバ山ノ口ニモ仰付ラレケリ。美濃竪者〔りつしや〕・播磨竪者・周防竪者・智正・丹後ヲ始トシテ、七百人コソ下リケレ。五百人ハ三尾〔みを〕ガ崎、二百人ハ瀬田橋ニ立向〔たちむか〕フ。行桁〔ゆきげた〕三間引放〔ひきはなち〕、大綱〔おほづな〕九筋引ハヘテ、乱杭〔らんぐひ〕・逆木〔さかもぎ〕引テ待懸〔まちかけ〕タリケリ。
宇治ノ手ニハ、甲斐宰相中将範茂・右衛門佐・蒲入道ヲ始トシテ、奈良印地〔ならのいんぢ〕ニ仰附ラレケリ。真木島〔まきのしま〕ヲバ、佐々木野中納言有雅、伏見ヲバ、中御門中納言宗行、芋洗〔いもあらひ〕ヲバ、坊門新中納言忠信、魚市ヲバ、吉野執行、大渡〔おほわたり〕ヲバ、二位法眼尊長、下瀬〔しものせ〕ヲバ、伊予河野四郎入道ニ仰付ラレケリ。残ル人々ハ、按察殿ヲ始トシテ一千騎、高陽院殿ニゾ籠〔こもり〕ケル。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/94433ea5128e016562f7f24dadd4d3b9
と続けば本当にスッキリと話がつながりますが、岩波新大系では前者はp347以下、後者はp335と、実に12頁も離れた位置に置かれています。
「欠落説」の杉山次子氏あたりは、この奇妙な逆転について、何か書かれているのでしょうか。
また、杉山次子氏の影響を強く受けている野口実氏はどのように考えておられるのか。
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