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流布本も読んでみる。(その47)─「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」

2023-07-04 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』

続きです。(『新訂承久記』、p123)

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 又、安西・金鞠が進みしかば、能登守・山田次郎も落にけり。角田太郎・同弥平次、殊〔こと〕に進けり。弥平次、判官に組まんと心懸て、相近につと寄合する所に、判官、馬能〔よ〕かりければ、つと通る。弥平次取はづす所を、判官の郎等、三戸源八組で落。互に健〔したた〕か者にて、乞〔き〕と勝負も無ける。弥平次が乗替〔のりかへ〕落合ふて、三戸源八が首を取。判官子息次郎兵衛・高井兵衛太郎、敵に被組隔て、東山へ落行けるが、地蔵堂の奥なる竹の中へ引籠りて、馬切殺し、物具切捨、二郎兵衛云けるは、「高井殿、御辺〔ごへん〕は同一門と乍云、稚〔いとけ〕なきより兄弟の契〔ちぎり〕をなし、馴遊で、御辺十七、兼義十六、只今(一所に)死ん事こそ嬉しけれ。構て強く指〔さし〕給へ。我も能指んずる」とて、手を取指違て、同枕にぞ臥〔ふし〕にける。
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【私訳】また、安西・金鞠が軍勢を進めたので、「能登守」(藤原秀康)・山田次郎も落ちて行った。
角田太郎と角田弥平次は、特に積極的に軍勢を進めた。
弥平次は、「判官」(三浦胤義)と組もうと思って間近に迫ったところ、胤義は良い馬に乗っていたので、さっと通り過ぎた。
弥平次が胤義に逃げられたところを、胤義の郎等、三戸源八が組み合って共に馬から落ちた。
互いにしたたか者であったので、なかなか勝負がつかなかったが、弥平次の乗替の馬を引く郎従が戦闘に加わって、三戸源八の首を取った。
胤義の子息の次郎兵衛(兼義)と高井兵衛太郎は、敵から離れて東山へ落ちて行ったが、地蔵堂の奥の竹林の中に入って、馬を斬り殺し、鎧を切り捨て、次郎兵衛は次のように言った。
「高井殿、貴殿とは同じ三浦一門とはいいながら、幼い頃より兄弟の契りをして、馴れ親しんできた中だが、貴殿が十七歳、兼義が十六歳で、たった今、ここで一緒に死ぬとは嬉しいことだ。必ず強く刺して下され。私も強く刺すつもりだ」と言って、互いに手を取り刺し違えて、枕を並べて死んだ。

ということで、後半はなかなか悲劇的な場面です。
ここに登場する「金鞠」については、松林氏の頭注に、

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金鞠は神余が正しい。安西とともに千葉県館山市の同名地に住んだ一族。曽我物語・巻八「安房国には安西・神余・東条」。
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とあります。
また、「三戸源八」については、

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三戸は胤義の弟友澄の始まる三浦の一族。従って「判官ノ郎等」とあるのは不審。前田家本では「めのとご上畠」
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とあります。
そして、「角田太郎・同弥平次」については、長村祥知氏が『中世公武関係と承久の乱』 の「第四章 承久鎌倉方武士と『吾妻鏡』─『吾妻鏡』承久三年六月十八日条所引交名の研究─」で若干の検討をされており、私も中途半端な形で引用していました。
これは後で別途整理しておきます。

野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その25)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/83f226303d064de4ad4db27926da1c7a
野口実氏「承久宇治川合戦の再評価」の問題点(その27)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e907df86d44afa04a7f2403211884ff3

さて、続きです。(p124)

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 山田次郎は嵯峨の奥なる山へ落行けるが、谷河の端にて、子息伊豆守・伊与房下居〔おりゐ〕て、水を吸飲て、疲れに臨みたる気にて休居たり。山田次郎、「哀れ世に有時、功徳善根を不為〔せざり〕ける事を」と云ければ、伊予房、「大乗経書写供養せらる。如法経行はせて御座す。是に過たる功徳は候はじ」と申せば、山田次郎、「され共」と云所に、天野左衛門が手者共、猛勢にて押寄たり。伊豆守、「暫く打払ひ候はん。御自害候へ」とて、太刀を抜て立揚り打払ふ。其間に山田次郎自害す。伊豆守、右の股を射させて、生取〔いけどり〕に成て被切にけり。
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【私訳】山田次郎は嵯峨の奥の山へ落ちて行ったが、谷川のほとりで、子息の伊豆守・伊与房と共に馬から降りて座り、水をすくって飲み、疲労をにじませて休んでいた。
山田次郎が「哀れなことだ。生きているうちに功徳善根をしなかったとは」と言ったので、伊予房は「殿は大乗経書写供養をされ、如法経も行なわれたので、これらに過ぎた功徳はございません」と申したところ、山田次郎が「そうではあるが」と言いかけたところに、天野左衛門の軍勢が猛然たる勢いで押し寄せて来た。
伊豆守が「暫くは私が打ち払っておきましょう。御自害下さい」と言って、太刀を抜いて立ち上がり、敵を討ち払った。
その間に山田次郎は自害した。
伊豆守は右の股を射られて生捕となり、後に斬られた。

ということで、山田重忠の最期も悲劇的です。

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