風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

『平家女護島―俊寛―』 @国立劇場(11月25日)

2020-11-27 00:34:44 | 歌舞伎

©国立劇場

 初めて岳父の「鬼界ヶ島」に出演した前回(平成30年9月歌舞伎座)、荒涼とした浜辺の小屋に岳父の演じる俊寛が現れた時に「なんて寂しい海だけしかない荒涼とした世界に、この人は生きているんだろう……」と胸にグッときてしまったことを覚えています。岳父の世界に入れば、自然と「鬼界ヶ島」の世界に入っていけたという感覚もありました。船に乗ってからの最後の別れは、本当に辛くて“断腸の思い”という感情が湧き立ってきました。
 岳父の舞台からは、役になりきって“場”を作り上げ、その世界にお客様をいざなう力を肌で感じました。私もそういう芸を目指したいと思います。
(尾上菊之助)

ぜひ目指して!菊ちゃんならきっと出来る!

というわけで、千穐楽の『俊寛』に行ってきたのです。
日本中でコロナの第三波の緊張が高まりつつあり、国立劇場の第二部も中止となったなか、劇場に入るとちょうど着到(開演30分前を劇場全体に知らせる儀礼囃子)が賑やかに聴こえてきて、歌舞伎というのは本当に本質的に‟縁起のいい”芸能なのだなあ、と久しぶりにほっとするのんびり気分を味わわせてもらえたのでした。

【序幕 六波羅清盛館の場】
吉右衛門さんの清盛(第二幕の俊寛と二役)。
エロくてワルいキッチー最高!老獪な大物感もたっぷり
吉右衛門さんのこういうお役、意外と見る機会がないから、もっと観たいな。
杮落しの『仮名手本~』では師直を観られる予定だったけど、仁左さまの出演中止で配役が変更になっちゃったのよね。代わりにオール吉右衛門さんの素晴らしい由良之助を通しで観られたのだけど。
菊之助の東屋もとてもよかった。凛とした清浄な空気に説得力があって、俊寛への愛情も感じられました。
幕切れの歌六さん(能登守教経)から滲み出る情の深さ、厳しさ、存在感も最高でした。丸本では教経が東屋の首を持って清盛の部屋に行き清盛に諌言する場面があるんですね。吉右衛門さんも歌六さんも素晴らしかったから、その場面も観たかったな。

【二幕目 鬼界ヶ島の場】

・・・近松門左衛門の作品における男女の関係といいますと、大概は色街での色っぽい話が多いのですが、本作では、離れて暮らしている夫婦、遠くにいる男女の愛を描いています。東屋は、平清盛に気に入られてしまったことで自害し、それを夫の俊寛にも知らせるなと伝えます。まさに“究極の愛”、それを受けての「鬼界ヶ島」の俊寛はどうなるか……というのが、今回の私の課題です。
 役者が喜怒哀楽に訴えて、お客様に笑ったり泣いたりして苦しみや悩みを涙で流していただく。芝居というのはそういうものじゃないかなと、私は思っております。この作品をご覧いただいて、泣いて泣いて、コロナのことも苦しいことも、人生のいろんなことを一時パッと忘れていただく。キザな言葉でいえば“カタルシス”。菊之助さんの東屋でしたら、それを感じていただけるかな、と期待しています。
 やっと9月から舞台に立てるようになりましたが、お客様が心から拍手してくださっている時は「本当に役者になって良かった、生きていて良かった」とつくづく感じます。また、そうした嬉しさは、そうでない感情を表現する上でも役立つのではないかと思います。今感じている喜びを、11月の俊寛では真逆の悲しみとしてお伝えし、お客様には涙を流して心を浄化していただければ幸いです。
(中村吉右衛門)

なんかものすごかった。。。。。。。。。。。
吉右衛門さんの俊寛を観るのは2013年、2018年に続いて三度目だけど、観る度にラストの凄みが増している。演技が大袈裟になっているわけではなく、むしろその逆で、自然さと静けさが増している。だからこそ、凄みが増している。

今回の舞台では赦免船が出発するときに互いに言う「未来で」の言葉の重みも、すごく感じたな…。どちらも大袈裟に言っているわけではないのに、胸が苦しくてたまらなくなった。
赦免船の綱が俊寛の手から離れるところは、その容赦のないあっけなさがリアルで、思わず「あっ」と声が出そうになりました。この時が、俊寛と現世の間の繋がりが永遠に切れた瞬間なんだよね…。
そして俊寛が船に「おーい」と呼び掛けて、船からも「おーい」と答えがあって、それも容赦なく遠のいていって…。残ったのは、島にただ自分だけがいる究極の静けさのみ――。実際のところ島には漁師とかがいるわけだから一人じゃないはずなのだけど、もうこの場面はこの世界中に人間は俊寛一人しかいないような、それほどの凄絶な孤独が感じられて。吉右衛門さんはきっと本当の孤独というものをご存知の方なのだろうな…とそんなことを感じました。そして岩へと登る俊寛。

前回観たときは、吉右衛門さんの俊寛にはいま”弘誓の船”が見えているのだな、と感じました。そして彼はこの後に死ぬのだろうと強く感じた。この後に生きている俊寛が、生きている吉右衛門さんの姿が全く想像できなかったから。

でも今回の俊寛には、そういうものさえなかったというか。そういうものを超えた場所にいた、というか。
現世とか来世とか、絶望とか希望とか救いとかそういう名前のつく感情は、あの最後の俊寛の中にはないように見えた。
なんだか今回の俊寛を観てから、私には、俊寛があの時のまま今も鬼界ヶ島にいるような気がしてしまっているんです。彼が島で生きて生活しているような気がする、という意味ではなく。それは生きた人間ではなくて、といって彼の魂が成仏していないとかでもなく。あのラストの場面のまま、今も岩の上で彼が沖を見つめているように感じられるんです。あるいは、あの後にあったはずの現実の死はなく、あのラストの場面のまま彼は消えていったような、そんな風に感じられるんです。それは悲劇とかそういう感じではなく。
うまく言葉にできないな、、、。
と思っていたら、帰宅してから今月の筋書で吉右衛門さんがこんな言葉を仰っていることを知りました。

『赦免船を見送った後の幕切れで、実父(初代白鸚)から「石になれ」と教わりました。俊寛は全てを忘れて身も心も天に委ねたのではと考えております』

ああ。そうです、そういう感じ。。。。。
「石」というと心がないように思えるけど、そういう意味ではなくて。渡辺保さんが今回の吉右衛門さんの俊寛について「心を超えた心」という表現をされていて、うまい表現だと感じました。
吉右衛門さん、最後、涙を流されていましたね。汗じゃないよね。吉右衛門さんってこういうお芝居で涙を流さない方(悪い意味ではなく、泣かずに泣く演技をされる方)のように思っていたので、少し驚きました。
そしてこれは『義経千本桜』と同じく平家物語が元となっている演目だけれど、こういうお話や演目が普通に生まれた時代、仏教が当たり前に生活の中にあった時代というものに今回も思いを馳せ、今の時代とどちらが幸せなのだろう、と考えてしまいました。吉右衛門さんの知盛、もう一度観たいなあと強く思ってしまうけれど、考えてみたらあのお役、四の切の狐忠信と同じで歳をとったらできないお役だよね…。もしかしてもう二度と観られないということは、あったりするのだろうか…。

脇は、やっぱり菊之助の丹左衛門!ニザさまはそれはもう最高に素晴らしかったけど、菊ちゃんもいい!涼しげで爽やかで凛としていて、情もちゃんと伝わってきたよ。そして錦之助さんの成経が、柔らかくて上品でいいなと感じました。
あと葵太夫さん!私、葵太夫さんが今日出られるであろうことをすっかり考えていなくて、でも『鬼界ヶ島』の第一声で「ああ、いい」とうっとりと聞き惚れ、ふと「ん、そういえば吉右衛門さんの舞台ということは…」とオペラグラスで竹本を覗いたら、案の定葵太夫さんがおられた。

お芝居が終わった後、定式幕が引かれて、さらに緞帳が下りるまで、客席の拍手がずっと続いていましたね。よもや吉右衛門さんがカーテンコールをするだろうなんて期待をしている客は一人もいないはずだから、本当に心からの「素晴らしい舞台を有難う」の拍手だったのだと思います。
はぁ。。。。なんだか今年は舞台観劇の数は少ないけど、もの凄い舞台や演奏会を沢山経験できた年だったなあ。。。
まだ感想を書けていないものが二つあるので、近いうちにあげたいです(仕事が忙しくて)。
なんだか今も鬼界ヶ島の俊寛を思って、ぼうっとしてしまっている私がいます。
ああそうそう。今回の俊寛、『清盛館』とセットで上演されたのはとてもいいと思いました。東屋って実は『鬼界ヶ島(俊寛)』の中でとても大きな意味をもつ存在ですし、今回は前半部分のおかげで血肉を伴った東屋を思い浮かべながら後半を観ることができました。吉右衛門さんが『俊寛』を「近松門左衛門が書いた究極の恋愛物語」と仰っているのも興味深かったです。
そして私は今回初めて、『俊寛』の続きのストーリーをネットで知ってビックリ。東屋と千鳥(死んじゃうんだねえ…)の亡霊が清盛を呪い殺すんですって!?さすが文楽。ぶっとんでますね

『平家女護島―俊寛―』中村吉右衛門、尾上菊之助が意気込みを語りました!
【歌舞伎 平家女護島】吉右衛門が示す究極の愛、菊之助が受け継ぐ芸の力 俊寛で心の浄化を

©読売新聞社
ちょっ、それラストの俊寛のマネっこですか??可愛すぎる76歳人間国宝



※追記(2021年2月)
 初代から実父、そして私と三代にわたって演じてきた芝居の数々の中でもこの「俊寛」は特に好きで、いつかヨーロッパで演じてみたいとも思っている演目です。・・・思い続けた妻がもうこの世にはいないと告げられた俊寛の気持ち。これまでは驚きと悲しみだけを表していましたが、今回は少し違った思いで演じました。実は私は十月に、あることで手術を受けました。その影響が思ったより体に響いてしまい、大声を出すと息が上がり、立ち上がるのに苦労し、歩くだけで心臓がパクパクします。そんな体調ですが七十年以上役者を続けているお蔭様でしょうか。何とか一ヶ月の公演を終えることができました。自分では気づかぬ舞台に対する執念執着かもしれません。
 手術の後、一晩中苦しく辛く、生の放棄まで頭をよぎりました。その経験を俊寛を演じるに当たって集中してみました。生きたい、生きて都へ帰り生きて妻に会いたいという、それまでの強い気持ちから一転、妻の死を知り、少将の妻となった千鳥に赦免船の座を譲り、島に残ることを決意する俊寛。百八十度思いが変わり、自分を犠牲にして若い者を生かすことにする切っ掛けとなる場面です。生き抜く事、また、次の時代に渡すことも大切な気がします。俊寛のさまざまな心情の変化を経て、浄化の域にまで到達できれば役者冥利に尽きるのですが、ご覧になっていただいた方は、いかがでしたでしょうか。コロナのことも色々な人生の苦しいことも一時忘れてカタルシスに浸り、美しい涙を流していただけたようでしたら幸いです。
本の窓「二代目中村吉右衛門 四方山日記」第十一回 俊寛の心

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