風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

アンドロイドに魂は宿るか? ~漱石アンドロイド~

2021-12-30 18:09:49 | 

漱石アンドロイド モノローグ『Variable Reality ―虚構は可変現実』



2021年もあと2日。
ハイティンクやフレイレや吉右衛門さんが確かに生きていた2021年がもうすぐ終わり、彼らのいない新しい年が始まるというのは不思議で、どうしようもなく寂しい気持ちです。

先日友人と「年末だし蕎麦を食べに行こう!」という話になり、どうせなら行ったことのない店にと「芥川龍之介が食べたと言われる蕎麦屋」を目指して田端まで行ったのですが、改修中のためクローズ。結局いつもの上野の藪蕎麦と相成りました。でも相変わらず美味しくて満足
せっかく田端まで行ったので、駅前の文士村記念館にも伺いました。入館料無料ですが、生前の芥川の珍しい映像や芥川邸の30分の1スケールのジオラマが見られたりと、思いのほか楽しむことができました。
自殺の翌朝、妻の文夫人は、芥川の安らぎさえある死に顔に「お父さん、よかったですね」と声をかけたそうです。過去2年間の夫の苦しみを傍らで見続けてきた彼女は、自然にその言葉が口から出たそうです。
自殺の直前に書かれた久米正雄宛とされる『或旧友へ送る手記』の中で、芥川はこんな風に書いています。
僕の今住んでゐるのは氷のやうに透み渡つた、病的な神経の世界である。・・・若(も)しみづから甘んじて永久の眠りにはひることが出来れば、我々自身の為に幸福でないまでも平和であるには違ひない。
芥川にとっては、死ぬよりも生きていることの方が辛かったのでしょう。でも35歳は若いな…。

田端から駒込方面に少し歩くと、子規の墓のある大龍寺があります。今回ここにも行く予定だったのだけど、蕎麦屋閉店の衝撃と空腹で頭の中はランチのことでいっぱいで、すっかり忘れて田端に戻ってきてしまいました。どうせならロンドンから帰国後に漱石が訪れた1月27日付近に行ってみようかな。

前置きが長くなりましたが、文士村記念館で友人と話しているときに、漱石アンドロイドの話題が出たんです。2016年末に完成してから一度実物を見てみたいと思いながら、なかなか機会のない漱石アンドロイド。
久しぶりにyoutubeで検索してみたところ、二松学舎大学のチャンネルに「漱石アンドロイド演劇」なるものがupされていました。それが、冒頭に載せた動画です。2019年の「アンドロイドに魂は宿るか?」というテーマで開催されたシンポジウムで上演された『Variable Reality ―虚構は可変現実』という演劇作品で、登場人物は漱石アンドロイド、脚本は『夢十夜』や『三四郎』などの漱石作品の言葉が織り交ぜられた佐藤大氏によるオリジナルです(作中の「砂漠の亀」云々等は映画『ブレードランナー』へのオマージュとのこと)。
観終わってまず感じたのは、「演劇としてよく出来てるなあ!」ということでした。
何より、出演者が虚構と現実の淡いに存在するアンドロイドであることを活かした脚本がいい。人間の俳優には演じることができない作品になっている。そしてアンドロイドの表情が、私が想像する漱石のイメージに非常に近くて、まるで本人がそこにいるようでドキリとする。もちろん表情や動きはぎこちなく、人間のそれとは全く違います。でも私はそうであるが故に、この演劇に感心し、感動しました。能や文楽と似ているものを感じたからです。能面はずっと表情が変わらないのに、時に人間の顔以上の表情を見せることがある。文楽人形も同様で、人間が演じるよりも遥かに深く豊かな感情がそこに見えるときがある。このアンドロイドも、最後にスイッチが切れるとただの人形にすぎなくなるのに(この効果も文楽と同じですね)、独白場面では魂が吹き込まれたように見え、人間のようで人間ではないその表情に、強く"漱石アンドロイドの感情"を感じてしまいました。アンドロイドが持つ可能性というのは、私が思っている以上に大きいのかもしれない。ちなみに文楽人形の感情表現はロボット工学でも注目されているそうです。
脚本を書かれた佐藤氏は、「アニメーションの世界も実は表情が乏しいので、その点はアンドロイド演劇はアニメーションに似ていると感じました」と仰っています。

しかし次に思ったのは、もしアンドロイドがこれ以上に、つまり人間と区別がつかないほどにリアルになったら、私はどう感じるだろう?ということでした。
最近のアンドロイドやAIの進化を見ていると、それはそう遠くない未来の話のような気がする。そんな心配を本気でしなければならない時代が来たということ自体、昭和生まれの私には隔世の感があるけれど。

今の漱石アンドロイドは明らかに人形であるとわかるから、何かを喋っても私達はそれを人形のものとして受け止めるし、人形であるが故の魅力を感じる余裕もある。でもこれが人間と区別がつかないほどリアルになったら?あまつさえ高度な人工知能を持つようになったら?
私達は”彼”を人間と錯覚するようになるのではないか?
頭では人形だとわかっていても、そう錯覚するのは避けられないのではないか?
でも、漱石アンドロイドは間違っても漱石そのものではない。
そうなると、夏目漱石という人間の権利はどうなるのか?
と思っていたら、既に二松学舎大が2018年のシンポジウムでその問題を取り上げていました。テーマは「誰が漱石をアンドロイドとして蘇らせる権利をもつのか?」

漱石アンドロイドをはじめとして、人々が偉人として記憶している人を復元したロボットをここでは「偉人アンドロイド」と呼びます。多くの人は、はじめは偉人アンドロイドに違和感を感じるかもしれません。しかし、その動きに注視し、言論に耳を傾けるうちに、確かにそこに存在する偉人アンドロイドにやがては生命感を感じたり、場合によっては私達が知っている故人の偉業や実績を重ね合わせるのです。
提起された問題とは、蘇らせる権利だけではありません。
アンドロイドの制作者はそこに存在するアンドロイドに何を語らせてもいいのだろうか?
故人のダークな一面やプライバシーで覆われていた趣向などをアンドロイドで表現することで暴いてもいいのだろうか?
全くの創作、パロディとして、あたかも偉人がそれをしているかのように演じさせてもいいものだろうか?
と、次々に生まれてきます。(中略)
それらはすべて、そっくりなアンドロイドとして夏目漱石という故人を蘇らせようという試みがあったからこそ生まれた気づきでした。

ロボスタ 2019年2月

ここで交わされた議論の内容は上記リンクに詳しく、また『アンドロイド基本原則 誰が漱石を甦らせる権利をもつのか?』という書籍にもなっています(私は未読)。
漱石アンドロイドやマツコロイドやERICAの開発者でありアンドロイド研究の世界的権威である大阪大学教授の石黒浩さんの意見は、以下のようなものです。

石黒氏は「偉人とは一個人としての存在ではなく、社会で共有されるポジティブな側面の人格を示すもの」であり、人々の想像で作り上げられる側面も持っているとして、人の生きる支えや目的になったり、時として歴史の象徴になるものであると主張します。その意味では偉人アンドロイドは動いて”話す銅像”であり、「人間はアンドロイドになることでより進化し、尊い存在になる」と提起しました。
更に「例えば、社会的な人格を崩さない限り、誰のアンドロイドでも自由に作って良いというのはどうか。人間は個人的側面と社会的側面を持っていて、それを分離して社会的側面だけをアンドロイド化したものは、それはもう故人ではない。優れた社会的な人格をアンドロイドとして育てていけば、そのうち人権を持つようになり、優れたアンドロイドだけの世界が作られる」
ロボスタ 2019年2月

(役者としてのアンドロイドについて)アンドロイドが意思を持って“演技”をするわけがありません。しかし「指示された通りに動く」という能力は人間にも勝ります。完璧にコントロールできるロボットは、完璧な「役者」にはなれるんですよ。優れたディレクションによって人間の役者の演技が開花するようにね。(中略)また、本物の人間ではない、「アンドロイドならではの利点」もあります。それは、アンドロイドなら“良い面”だけを再現できること。夏目漱石にだって人間として褒められない一面はありましたが、これなら素晴らしい部分だけを再現して後世に伝えることができます。アンドロイドは銅像よりもさらに深く、その人の功績を伝える装置になるでしょうね。
エンジニアtype 2020年8月

・・・・・・。
はっきり言おう。
このヒト、何言っちゃってるの???
そもそも「良い面」って、「素晴らしい部分」って何よ。何をもって「優れた社会的な人格」と定義するのよ。
褒められる部分も褒められない部分も全てひっくるめて漱石という人間は構成されているのであって、それら全てをひっくるめて私達は彼を愛しているのですよ。イライラしてDV気味で鬱になって、でも繊細でユーモアもあって、死に惹かれながらもそれ以上に生に惹かれ、胃痛と闘いながら生きたのが漱石という人間でしょう?その中の”良い面”だけを再現することに何の意味があるのよ?教育的にも全くメリットを感じられないわよ。

これに関しては漱石の孫の房之介さんの下記意見に、私は賛成です。

一方で夏目房之介氏は、アンドロイドが動く銅像として偉人を理想化したり、いわば神格化することに異論を唱えました。それは「多義性」を損なうことになる、という意見です。房之介氏はパロディとしての存在を容認し、むしろパロディとしての利用を尊重する考えです。パロディやフィクション創作であることを明示すれば、偉人アンドロイドのイメージに反することでも演じさせることを許容すべき、世の中はやっぱり面白い方がいい、という旨の意見でした。
ロボスタ 2019年2月

漱石を理想化した人格にして蘇らせることは、「ただの夏目なにがしで暮らしたい」と言っていた漱石が最も嫌がるであろうことであり、漱石が残した文学にも反することになると思う。
そもそも実在する人物か否かに関わらず、”良い面”だけを持つアンドロイドなんて私は作るべきではないと思うけどな。
では将来的にアンドロイドが知能を持つようになって犯罪をすることになっても構わないのか?となると、もうターミネーターの映画の世界ですね。そういう世界が現実のものになりつつあるなんて、本当に隔世の感を禁じ得ない。。。

というようなことを私のような巷の一介の人間が年の瀬に考えたりするのだから、そういう問題提起が生まれただけでも、漱石アンドロイドが作られたことには意味があったのではないかな、と思う。
天国の漱石は下界に生まれた自身のアンドロイドをどう思って見ているだろう。悪趣味だと顔を顰めているか、面白がってニヤニヤしているか。


漱石アンドロイド演劇『手紙』(青年団+二松学舎大学+大阪大学)

2018年のシンポジウムで上演された、漱石アンドロイド演劇の第一弾『手紙』。
ロンドンにいる漱石と東京にいる子規の最後の日々の手紙での交流を描いた演劇作品です。
子規が漱石に向かって話している言葉は、手紙だけでなく『墨汁一滴』などからの引用も織り交ぜられています。
それにしてもこの演劇、よくできている。。。。。もうすぐ死んでいく子規は人間らしく生き生きとしていて(実際にも人間が演じていて)、漱石はアンドロイドのように覇気がない(演じているのもアンドロイド)。布団から出ることさえできずに迫りくる死と闘いながら最期まで明るさを失わず『墨汁一滴』、『仰臥漫録 』、『病牀六尺』などを精力的に書き続けた子規と、体は健康でも精神は病み出口のない迷路の中で燻り続けていたこの時期の漱石。これから帰国して作家としての人生が始まっていく時期であることを思うと(そしてその時には子規はもういない…)、そこに色々な意味を見ることができて心動かされる。改めて、演劇の世界でこれほどアンドロイドの活用可能性が大きいとは、目から鱗です。
でも、これも作品を作っているのが人間だからこそではないかな。石黒教授が言うように「人間はアンドロイドになることでより進化し、尊い存在になる」とは、私は全く思わない。そもそもこの演劇に感動したのも、平田オリザ氏の脚本・演出と子規役の井上みなみさんの演技の力が最も大きい。子規の最後の手紙の場面(18:10~)の井上さんの演技には、胸が苦しくなって涙が出た。
でも、漱石アンドロイドも本当に良い表情をしているよね。。。。もしかしたらいつか私は監督アンドロイド、脚本アンドロイド、演出アンドロイド、出演者全てアンドロイドで上演される演劇に感動してしまう日が来るのだろうか。「人間よりよっぽど上手い」とか言いながら。今までの私は「絶対にそんなことはない」と言い切れたけれど、この演劇を見て、100%ないとは言い切れなくなっている自分が怖い。演劇の選択肢が増えるのはいいこと♪なんて楽観的にはとても思えない。アンドロイドのいる未来が本気で空恐ろしくなる。

ただ一つだけ確かなことは、「アンドロイドは失敗しない」ということ。「緊張してつい失敗してしまった」とか「勢いに乗りすぎてトチってしまった」とかいうことはない。あったとしてもプログラムされたものか、バグでしょう。私は演劇を見る時に、そういう人間の危うさも含めて感動するんです。そういう危うさが見えない裏側にあることに人間の愛おしさを感じるんです。絶対に間違わない、絶対に失敗しない、絶対にその日の気分や客席の影響を受けない、絶対に動揺しない、裏に一片の危うさもないアンドロイドの演技や演奏に心の底から感動することは、やはりこの先もないのではないのかなと思う。・・・・・おそらく。

今年の更新はこれで最後です。
今年も当ブログにお越しくださった皆さま、コメントをくださった皆さま(PC表示のweb拍手から拍手を下さったりコメントを下さっている方もありがとうございます!web拍手なのでご返事できていませんが、嬉しく拝見しています)、ありがとうございました。来年もマイペースに更新できたらいいなと思っていますので、時々覗いてやってくださいませ。
よいお年を


※夏目漱石アンドロイド演劇「手紙」を初上演!平田オリザ氏の作・演出、二松学舎大学で(ロボスタ 2018年8月

※「アンドロイドに魂は宿るか?」漱石アンドロイド演劇の第二弾モノローグ公開 脚本は攻殻機動隊やエウレカの佐藤氏 テーマは「虚構と現実」(ロボスタ 2019年11月

※演劇で使われている漱石アンドロイドの音声は、シナリオを読み上げて録音したものではなく、合成音声なのだそうです。房之介さんの声を大量に録音し、音素・音声解析を行い、電子的にコンピュータで作りだした声で、「一度、作りだしたら任意の言葉をしゃべらせることができる反面、セリフの棒読みになったり、不自然な機械的な抑揚になってしまいがち」とのこと。いやいや、既にかなり自然ですよ。もちろん人間と同じではないけれど、こういう話し方をする人間もいるし。改良が重なっていけば、どんどん自然になっていくんでしょうね。すごい時代になったものだ・・・。

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