風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

中村吉右衛門さん

2021-12-01 23:53:44 | 歌舞伎

吉右衛門さんが、28日に亡くなられたそうです。
たったひと月半の間にハイティンク、フレイレ、吉右衛門さんと大好きな人達が立て続けに旅立ってしまって、呆然としています。また一つ、この世界の色が薄らいでしまった。
母親がメールで「歌舞伎役者ってみんな、静かに終わっていくね」と言っていたけど、本当にそう…。
吉右衛門さんが3月末に倒れられてから亡くなるまで意識が戻ることがなかったということ、今日の記事で初めて知りました。今年7月の歌舞伎座で配役がなされていたので(結果的に錦之助さんが代役をされましたが)、意識は戻られているのだろうと思っていました…。

最後にお芝居を拝見したのは、倒れられる10日前の『楼門五三桐』。吉右衛門さんは昨年秋頃から体調が万全ではないと伺っていて、この月の舞台も吉右衛門さんのご体調を心配する声が多く聞かれていました。けれど私が拝見した日の吉右衛門さんはとてもお元気そうに見え、山門の上の吉右衛門さんが「絶景かな 絶景かな」と仰った瞬間に、舞台も客席も歌舞伎座の建物も超えてどこまでも広がる満開の桜の絶景が見えたんです。あの劇場の空間が果てのない青空と桜色に染まっていて、眩暈がするようだった。あらためて吉右衛門さんという役者の大きさを思い知った舞台でした。

その前に拝見したのは、昨年11月の国立劇場の『俊寛』。千穐楽の日でした。あの日の吉右衛門さんの俊寛は、生も死も超えた場所におられました。「俊寛のさまざまな心情の変化を経て、浄化の域にまで到達できれば役者冥利に尽きる」と仰っていたけれど、あの幕切れの空気はまさに「浄化」という言葉でしか表現できないもので、忘れがたい凄絶な静けさに満ちた舞台でした。

昨年9月には、歌舞伎座の『引窓』とともに、観世能楽堂で撮影された『須磨浦』の映像配信がありました。「伝統歌舞伎はまだ命脈を保っていますよ、忘れないでくださいと、僕は孫の丑之助のためにも申し上げたかったのです。配信をご覧になった方々からは賛否両論ございましたでしょう。・・・なにはともあれ、僕は歌舞伎で大好きな熊谷を演じられただけで、あれ程生の喜びを感じたことはありませんでした。」と後日仰っていた。
この『一谷嫩軍記』の熊谷、『義経千本桜』の知盛、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助、『大老』の井伊直弼など吉右衛門さんの多くの当たり役で見られた、劇場中に広がる圧倒的な気迫や大きさと同時に存在する、独特の澄んだ静けさ、透明感、孤独感。それは私が吉右衛門さんという役者に最も惹かれた部分でもありました。賑やかなご家族もおられて、お芝居だけでなく語学や絵画や台本を書く才能にも恵まれていて、なのにどうして吉右衛門さんはいつもそういう空気を感じさせるのだろうと不思議に思っていたのだけれど、あるとき吉右衛門さんの自伝を拝読し、その理由がなんとなくわかったように感じました。4歳で祖父である初代吉右衛門のもとに養子に出された出来事が吉右衛門さんの心に残したものの重さは、私などが簡単に想像できるものではないのだと思う。でもその出来事が吉右衛門さんという役者を作り上げたのも事実で。役者というのはやはり特殊な職業だな、と感じるのでした。私が「役者」という言葉を聞いて一番に思い浮かぶのは、いつも吉右衛門さんの姿でした。

一方で、『石切梶原』の梶原のような明るいお役の吉右衛門さんも、大好きだったな。『松浦の太鼓』の松浦公も、とても可愛らしかった。
歌舞伎座新開場のときの『盛綱陣屋』の和田兵衛も、大きくて素晴らしかった。仁左衛門さんとの共演、もっともっと観たかったな・・・。ベストコンビだと私は思っていたのだけれど・・・。

いま数えてみたら、このブログに感想を残しているだけでも、吉右衛門さんのお芝居を45回拝見していました。これが多いのか少ないのかはわからないけれど、思い返すと、吉右衛門さんのお芝居と同じくらいに、舞台の上に見えた吉右衛門さんの周りの空気が目に浮かびます。歌舞伎役者さんは一人一人、舞台の上で違う色を纏っておられる…。

吉右衛門さんの舞台は、どれほど多くの私の知らなかった人間の心の風景を見せてくださったことでしょう。どれほど私の人生を豊かなものにしてくださったことでしょう。どれほど日々の辛いことを忘れさせてくださったことでしょう。
これほど沢山のものをいただいていながら、私から吉右衛門さんに返せたものは何かあっただろうか…。

今夜はきっと、吉右衛門さんに思いを馳せる人達が日本中に沢山いらっしゃることと思います。私もその一人です。
ご冥福をお祈りいたします。

※白鸚さんのコメントより
「幼い頃、波野の家に養子となり、祖父の芸を一生かけて成し遂げました。病院での別れの顔は、安らかでとてもいい顔でした。播磨屋の祖父そっくりでした」と。
このご兄弟の間にも様々な出来事や想いがあったはずですが、白鸚さんのこのコメント、きっと何より吉右衛門さんが嬉しい言葉ではないかなと思います。吉右衛門さんは祖父初代吉右衛門さんと実父初代白鸚さんのことを”「成し遂げた」という言葉を送りたい人”と仰っていました。そして彼らのようになることが自身の目標なのだと(『本の窓 2021年5月号』)。この連載の文章は2月に執筆されたもののようで、そして3月に吉右衛門さんは倒れられました。白鸚さんがこの連載を読まれていたかどうかはわかりませんが、おそらく読まれていたのではないでしょうか。お兄さんから弟への愛情を感じたコメントでした。

※『月刊 本の窓
バックナンバーから、吉右衛門さんがコロナ禍の自粛期間中に描かれていた絵と連載を読むことができます。『俊寛』や『須磨浦』についても語られていますので、ぜひ。吉右衛門さんの美しい日本語の言葉遣いも、ユーモアも、大好きでした。
コロナ禍に描かれていた絵は、お孫さんに残したいからとも仰っていましたね。
この連載以外でも吉右衛門さんの昨年のインタビューを読み返すと、将来の夢が沢山語られていました。ヨーロッパで『俊寛』をやりたい、夫婦で海外旅行がしたい、80歳で弁慶をやりたい、そして孫の丑之助君の小四郎で盛綱を勤めたいと…。

中村吉右衛門より近況ご挨拶【歌舞伎ましょう】

昨年6月の動画です。吉右衛門さん、品があって素敵だなあ。
BGMのドヴォルザークの『新世界』、吉右衛門さんがクラシック音楽をお好きだったことを思い出して、泣けてくる…。他の【歌舞伎ましょう】の動画ではこの音楽は使われていないんですね。吉右衛門さんの選曲だったのかな…。

※「偉大な祖父に追いつきたくて 悩み苦しみ、歩いてきた」(機関誌ヘルシーライフ 2015.8)

※『文芸春秋2020年10月号』より。
自宅では、本を読んだり、台本を直したり、芝居の動きを考えたりしていました。
本は鏑木清方先生の「紫陽花舎(あじさいのや)随筆」を枕元に置いてちょこちょこっと読み返しています。木挽町辺りの描写は、私も新橋演舞場の下を築地川が流れている頃を知っていますから、「ああ、そうだったよね」と思い出にふけることができますし、また、文章が素晴らしいんです。江戸時代の言い方や、お祭りのことなど、いろいろ芝居の役に立つこともあります。先生のお住まいがあった明石町界隈が、かつて外国人の居留地だったことはご本で初めて知りました。低い白塗りの柵があって、芝生があって、おうちの中も見えるくらい開放的な外国人のお宅があの辺にあったと想像すると、素敵だったんだろうな、風の通りもよかったんだろうな、と思います。
吉右衛門さんは、海外の街に行くと何より美術館を訪ねるのがお好きだと仰っていましたよね。音楽も絵もお好きだった吉右衛門さん。
鏑木清方もお好きだったんですね。この週末は吉右衛門さんを偲んで鎌倉の鏑木清方美術館に行ってこようかな…。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする