風薫る道

Who never feels lonely at all under this endless sky...?

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル @茅ヶ崎市民文化会館(11月20日)

2021-11-27 16:49:39 | クラシック音楽




午前中に上野でシャンシャンを見てから、JRで乗り換えなしで茅ヶ崎へ。の予定だったのに、いざ上野東京ラインに乗ろうと掲示板を見ると、行き先が全て「東京」と表示されている…よりによって茅ヶ崎駅での車両点検の影響で、東海道線は運転見合わせとのこと。乗換検索をすると山手線で新宿に行き、小田急線で海老名へ行き、相模線で茅ヶ崎へ迂回しろと。それでは14時開演には間に合わない。一か八かで横須賀線で大船まで行き、そこで運転再開を待って、なんとか開演時間に間に合うことができました。開演は14:20に変更になっていたけれど、それでも前半に間に合わず休憩時間から途中参加の方達も。会場の最寄り駅には早く行って行き過ぎることはないと学んだ今回の出来事でした。疲れた。。。。

茅ヶ崎は地元と言ってもいい場所だけど、駅に降りるのは久しぶりで、すっかり都会風な駅になっていて吃驚。茅ヶ崎市民文化会館は初めてでしたが、東京の演奏会でいつも見かける方達が客席にチラホラといらっしゃいました。東京も神奈川も毎日あちこちで演奏会が開かれているけれど、来ている人は殆ど同じなのかもしれない・・・と最近感じる(自分を含め)

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集  第1巻より 8つの前奏曲とフーガ
  第1番 ハ長調 BWV846
  第2番 ハ短調 BWV847
  第7番 変ホ長調 BWV852
  第8番 変ホ短調 BWV853
  第21番 変ロ長調 BWV866
  第22番 変ロ短調 BWV867
  第23番 ロ長調 BWV868
  第24番 ロ短調 BWV869

アファナシエフを聴くのは初めてです。
舞台に登場された時、おお、あの写真で見ていた個性的な風貌が立体的に目の前にいらっしゃる、と妙に嬉しくなってしまった。愛想笑いをしないタイプと聞いていたとおり笑顔はないけど、特に不愛想でもなく。ただ歩いてきて、お辞儀して、椅子に座って弾き始める。
さて、バッハ。
このピアニストについての前情報から想像していたより、全然変態演奏ではなかった。とはいえ一般的でもなく、その独特の音楽の流れ方はポゴレリッチのバロック~古典派の演奏を思い出したけど、お二人とも「音楽のパルス」について語っていることと何か関係があるのだろうか、ないのだろうか。

そして想像していたよりずっとロシアの音色で弾く人だった。低音も強音も太い音色の暖かな歌い方も。弱音も芯があって温かい。ヴィルサラーゼやレオンスカヤとか、あの系統の音色。ロシアのピアニストの音って色彩豊かなんですよね。
この人達と比べると、ポゴさんの音色はあまりロシアぽくない気がする(ポゴさんの音色最高に好きだけど)。
一方で、過去に聴いたロシアのピアニスト達と比べると、アファナシエフの強音は同じように強音でもどぎつく響かないのが印象的でした。

ポゴさんと似ている部分といえば、ちょっと拒否反応が起きてしまうような演奏の中に、不意にそれを凌駕するくらいの物凄く魅力的な音楽が聴こえてくるところ。この極端さ、初めてポゴさんの演奏を聴いたときのことを思い出すなあ。このお二人、ピアニストとしてのラフマニノフを敬愛しているところも似てますよね。でもお互いがお互いのピアノをどう思っているかは、恐ろしくて質問してみたいとは思わない
例によって私の耳が慣れるまでに時間がかかったのかもだけど、今日のバッハの演奏、最後の数曲がとてもよかったです。869はシフの演奏より好きだったくらい。
譜面ありでしたが、自ら譜めくり。前の曲のペダルによる響きが消えきる前にザザザザッと次の楽譜を用意。そんなに急がなくても(笑)。後半のブラームスではちゃんと音が消えきってから譜めくりされていました。

客席は満席ではありませんでしたが非常に静かで、静寂といっていいくらいでした。素晴らしい。
演奏後に一度舞台袖に引っ込んで、拍手で呼び戻されて、二度目のペコリ。そしてフッというかニヤッと頬を僅かに歪める笑み

(休憩15分)

ブラームス:
4つのバラード  Op.10

2つのラプソディ  Op.79
間奏曲 Op.116-6(アンコール)

演奏開始をじっと待つ客席と、前半のバッハとは一転してマイペースに時間をかけて楽譜を準備し続けるアファナシエフ。順番がおかしかったらしく、手元の楽譜を熱心に確認して一枚一枚置き直す。客席はひたすら待つ(笑)。
で、後半のブラームス。
素晴らしかったです。。。。。。。。。
アファナシエフはインタビューで「自身の心に最も近く寄り添う作品は何か」と聞かれ、こう答えていました。

ベートーヴェンの後期のソナタとブラームスの晩年のピアノ作品ですね。ブラームスの作品は、人間のあらゆる感情を温かく慈しむように描きだしています。とくに晩年の作品は、誠実に過去を振り返り、追憶を精緻な芸術に昇華させ、永久不滅のものにしています。
(『静寂の中に、音楽があふれる』より)

今回の曲目は晩年の作品ではありませんが、若い頃から晩年まで変わらないブラームスの誠実な人間性と音楽性の核のような部分をその演奏から感じました。また若い頃ならではのブラームスの色合いも感じることができた。
私が今回茅ヶ崎にアファナシエフの演奏を聴きに行こうと思った理由は、以前も書きましたがギレリスの弾くブラームスがとても好きだからでした。アファナシエフはギレリスの愛弟子ですが、同じような演奏はしないし、する必要もありませんが、それでも今日のブラームスには、私の大好きなギレリスのブラームスに通じるものを感じました。
『四つのバラード』、3曲目の弱音のポーン ポーン。あの音色。。。。。。。アファナシエフのブラームスは、グールドのブラームスにも少し似ていたな(こちらも私は大好き)。
4曲目も、あなたこんな演奏ができたのか、と(失礼)。前半のバッハとは異なり、聴いていて不自然に感じる部分が全くない。
『2つのラプソディ』。1曲目、楽譜に顔を近づけて譜面をめっちゃガン見しながら弾く(笑)。でも絶対に音楽が停滞して聴こえないのが不思議。
2曲目は一転して、おそらく暗譜。楽譜を置き直していなかったし、あったとしても譜面を見ていなかったので。私はピアニストや指揮者が暗譜である必要は全くないと思っているけれど(暗譜じゃない素晴らしい演奏をいっぱい聴かせてもらってきたから)、この演奏は自家薬籠中というか、体に染み付いた音楽を弾いていることがわかる、素晴らしい演奏でした。ブラボー!
今日のアファナシエフのブラームス、ブラームス本人が弾いているみたいだなあ、と何度も感じました。もちろん見た目じゃなく、その音楽が。一見ガツンガツンと不器用そうというかぶっきらぼうな感じなのに(そんな和音の強音の美しさが素晴らしい)、その中に突然うっとりと歌うメロディが甘やかな音で聴こえてきちゃうところとか、そのギャップが最高です。

弾き終わって、何度も拍手で呼び戻されるけど、アンコールはしたくなさそうなアファナシエフ。頑なとして舞台中央へ行くのを避ける姿に、客席からも笑いが漏れる。たぶん本編の演奏がご本人も満足な出来だったからではないかなと、そう感じました。客席のマナーもすごく良くて、アファナシエフが大切にしている「音楽の静寂」「音楽と静寂がひとつになる」感覚も自然に感じられた稀有な空気でしたし。アファナシエフは「アンコールを演奏することでその前の演奏の印象が消えてしまうのが嫌だ」と以前に仰っていた。「アンコールを演奏するのは、自分の目指す芸術レヴェルにコンサートが達しなかったときだけ」とも。とはいえ客電はつかないし、私達は拍手を続け。
再び舞台に出てきて、例のクシャリと歪めるような笑顔を浮かべ、苦笑気味にピアノに座ってくれる。我儘言ってスミマセン。本編で十二分に満足だけど、弾いてくださるならばやっぱり聴きたい。てか、意外に優しいんですね。弾きたくないときは絶対に弾いてくれないタイプかと勝手に思ってました。
アンコールは他の会場と同じく『間奏曲 Op.116-6』。こちらも暗譜でした。もしかしたら気の進まないアンコールだったかもしれないけど、とても丁寧に弾いてくれました。やはりこの人のブラームスはいい。。。
弾き終わったアファナシエフは、この日一番の笑顔。つまり顔を歪める笑顔ではなく、普通の笑顔。よかった怒ってなかった(笑)
来年はブラームスの後期作品を弾いてくださるそうなので、行きたいと思います。

 

フレイレと同じマネジメント会社だったんですね…。代表の板垣さんは2019年にkajimotoを退職し、この会社を起こされたとのこと。そしてアファナシエフ、大阪と茅ヶ崎のブラームスを言い忘れてる(笑)。そこは字幕がカバー。バレンさんもこんな感じでそのまま後期ソナタを弾いてしまったのかしら。

茅ヶ崎の演奏はやはり特に良かったのか。確かにとてもいい演奏だった。ヴィルサラーゼも浜離宮のときより県立音楽堂の方がよかったし、最近地元で同じプログラムの演奏会がある場合は(今回は東京はブラームスの代わりにモーツァルトだったけど)わざわざ交通費をかけて東京へ行く必要はないような気がしてきた。もちろん地元より東京の方がいい演奏のときも沢山あるし、サントリーホールやオペラシティは好きなホールなので今後も行くけれども。
ここで紹介されている本は二冊とも読みましたが、右の『ピアニストは語る』はインタビュー形式で読みやすく、読み物としても大変面白いのでオススメです。左の『天空の沈黙』の方は哲学書等からの引用が非常に多く、教養の足りない私には正直キツかった…。私も好きな谷崎の『陰翳礼讃』と音楽の沈黙の共通性などは面白く読めたので、引用元を知ってるか否かの違いも大きいのだと思う。ただ、この『天空の沈黙』の言葉の洪水のような散文の中でアファナシエフが言いたいことって、実は20行くらいの詩で表現できてしまうものでは、それが最も適しているのでは、ともちょっと思ってしまった。スミマセン、アファナシエフさん…。

ところで『ピアニストは語る』の中で「調性は、あなた自身にとってどのようなイメージをもたらすのですか」と聞かれたアファナシエフは、次のように答えています。

「色の聴覚」と呼ばれるものがありますよね。聴くと色彩が浮かぶという一種の共感覚です。スクリャービンやニコライ・リムスキー=コルサコフはこうした才覚に恵まれていましたが、私はそうではありません。実際、調性感が私の人生で大きな役割を果たしたことはないと思います。音楽家たちがこうした感覚の連携について話しているときには、私はただ微笑んで、なにも言わずにいるだけです。

ああ、やっぱりそうなのか、と感じました。つまりアファナシエフは、自身の音があんなに色彩豊かな色を帯びていることを知らないのだな、と。私の目にはあんなに色が見えるのに。ロシアのピアニスト達の音って概してこの色が濃く豊かなんですが、意図的でなく出ている音なのだとすると、やはりロシア奏法というものが関係しているのではないかなと思う。この奏法を考え出した人は、絶対に共感覚保持者だったに違いない。
調性ごとの違いをあまり感じないという感覚も、実はその感覚の方が一般的なのだと以前知り、とても驚いたことがあります。私の耳と目には、調性ごとに全く違う色が見えるからです。ト長調と変ホ長調の色なんて、全然違う(ただし今は絶対音感狂い中なのでその半~一音上がった調性に聴こえて&見えていますが)。
そしてアファナシエフはご自身の音の色が見えていらっしゃらないから「ライブより録音が好き。ライブはあまりしたくない」とか言ってしまえるのね。なんてもったいないことを言うんですか!あの空気の個体のような色合いはライブでしか見えないんです!あなたのようなはっきりした色の音を持っている人は、ライブで演奏しないともったいないです!

そしてこの本に限らないけど、アファナシエフが語るギレリスは本当に誠実で温かくていいねえ。。。私がギレリスの音楽から感じることをそのまま言葉にしてくれるので、本当に嬉しい。ギレリスの演奏が好きな人はこの本を是非読むべし。リヒテルが好きな人はもしかしたら微妙な気持ちになるかもだけど、アファナシエフはリヒテルのことも基本的には尊敬しているので、嫌な気持ちになることはないです。実際私はリヒテルも好きだけど、不快な気持ちにはなりませんでした。

アファナシエフは74歳で、ペライアと同い年なんですね。ペライア、まだまだ弾ける年齢で、まだまだ弾きたいだろうに・・・と思う。復帰は難しいのかな・・・。

来日中のアファナシエフが、3年がかりのプロジェクト「TIME」について、大いに語る!
すべての楽曲は1つの遺伝子を共有しているのです〜V・アファナシェフは語る


【オマケ1】
『ピアニストは語る』の中でアファナシエフが話しているメロディーとハーモニーの話が面白かったので、以下に抜粋を。『天空の沈黙』でも同じテーマについて書かれているけど、微妙に仰っていることが変わっているような…?まあ『天空の沈黙』は文章が難しいので、私は殆ど理解できていないんですが

V.A:リヒテルはどこかハーモニーを軽視しているように思うのです。少なくともギレリスと比べるならば。リヒテルは演奏の多くの側面に配慮しないので、いまとなってはほんとうの意味での関心は抱けません。

――以前、あなたは書いていましたね。「あらゆるメロディーはそれ自身を偽装する」。つまり、メロディーはある意味で不安とともにあって、いつも希望を求めているということでしょうか。

V.A:動きがある限り、探し求めているわけです。しかし、平和に充ちて美しく探求することもできます、モーツァルトやシューベルトがいくつかの作品でそうしているように。あるいは、マーラーやベートーヴェンの作品にもそのようなところがあります。
メロディーは、ハーモニーの変装、ハーモニーが別の姿をとったものと言えます。なぜなら、音楽は時間のなかで生き、動いているにもかかわらず、時間を廃止することを求めるからです。(中略)
 私はメロディーが希望を表すとは考えません。希望はむしろハーモニーに関連づけられるものです。ほとんどすべてのメロディーには、落ち着かない性質があります。そして、私たちは石の平穏を熱望しています。フロイトが「死の本能」と称するものを説明するときに言ったことです。私が思うに、それは生の本能です。しかし、あらゆる本能は自らのリミットを知るべきで、行き過ぎて、限界を超えることが決してあってはならない。石をまねながら、人は死の敷居で立ち止まるべきなのです。
 聖人たちだけが、死することなく、石の完璧さを克ち得るのです。私たち常人の生活には、いつも不安がある。しかしときに、音楽の分野においては、神聖さと関わりをもたずとも、そのような静穏さと最終的なハーモニー(調和)を見出すことができるのです。
 人は運命を受け容れなければならないのです。ハーモニーとはそうしたもので、マーラーの交響曲第九番の終楽章、ベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』や最後のピアノソナタ作品111にしても同じです。ここにおけるメロディーは、運命や宿命の概念を受け容れます。そして、ハーモニーはそれらの最終的な調停のようなものです。『熱情ソナタ』におけるアルペッジョはきわめて悲劇的なもので、『月光ソナタ』でも同様ですが、ハーモニーがその悲劇性をさらに脅かします。しかし、最後のソナタにおいて、ベートーヴェンはこうした調停や和解を成し遂げ、ハーモニーは一種の天国のようなものになります。
 運命を許容するのは悲劇的な情況です。海岸に寝そべって、陽光を浴びるといった類のものではまったくなく、それはあなた個人の、そして宇宙的な普遍の悲劇を受け容れることなのです。こうした受け容れはとても重要です――スピノザはこのような許しについて語りましたし、ニーチェも始終言及しています。

アファナシエフによると「完全なるハーモニーは死だけです」と。わかる気がします。

そういえば、ヴィルサラーゼの師であるザークとアファナシエフの独特な関係性もこのインタビューでは多く語られていて、興味深かったです。ヴィルサラーゼはギレリスのクラスに入りたかったけれど、ギレリスから受け入れられなかったのだと以前インタビューで仰っていました。「ラジオ放送であなたの《クライスレリアーナ》を聴いたけれど、あなたにはもう先生は必要ないですよ」と言われ、彼女には彼がその言葉を本気で言ったとは思えず、彼が自分を受け入れてくれない本当の理由は何なのかと考えて、悩んだそうです。そして結果的にザークが彼女の師となりました(『ピアニストが語る』)。
一方、『ピアニストは語る』(上の本と紛らわしい題名ですね)の中で、アファナシエフはこんなことを言っています。

私自身はモスクワ音楽院を忘れようとしたことはないですが、とは言え自分がロシア流の演奏をしているとも言えません。もちろんロマン派の作曲家のレパートリーに興味はありますが、それもロシア流の観点からではありません。たとえば、私もシューマンを弾きますが、私のシューマン演奏はまったくロシア流ではありません。その意味において、ギレリスと非常に多くを共有していると思います。ロシア楽派の特徴は、私の考えでは楽器で「歌う」ことにあります。演奏を、人間の声をお手本にして行うのです。そうなると演奏はいわゆるロマン派向きのものになり、いっぽう、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトには向かなくなります。これら作曲家の作品は、より器楽的な側面が強いからです。ギレリスが忘れてしまいたかったのは、たぶんロシア楽派のこの局面だったのだと思います。ギレリスの音は肉声的と言うよりも器楽的でしたから。

ギレリスがヴィルサラーゼを受け入れなかった理由は、もしかしたらこういうあたりにあるのだろうか(ロシア楽派云々の難しいことはわからないけれども)。彼女のロマン派の演奏は素晴らしいけれど自分とは異なる種類の演奏だから、自分が師となることは彼女にとってもいいことではないと、そう感じたのではないかな、と。もちろん勝手な想像でしかありませんが。そんなヴィルサラーゼのシューマンをリヒテルは世界最高と評していて、そのリヒテルの音楽をギレリスは非常に高く評価している。音楽家の感性というのは、当然ですが単純なものではないんでしょうね。

【オマケ2】
『天空の沈黙』より、以下、抜粋。やはりこういう感覚は、散文よりも詩で表現する方が合ってるように思うな。谷川さんの音楽についての詩のような。ただ、西洋の人たちにとっては、沈黙に価値を置くのは決して当たり前の感覚ではないのかもしれない。だからアファナシエフも言葉を尽くして説明しがちになるのかな、とも。宮崎アニメの台詞のない「間(ま)」の存在が、西洋人にとってはすごく新鮮に感じられるのだと聞いたことがある。

ニーチェもこのように音楽について想像を羽ばたかせ、音楽と薄闇が分かちがたく結びついていることを認識していました。また、谷崎潤一郎も昼日中よりも、薄暗がりにおいて、その価値を発揮するものがあるのだと、しきりに強調していました。音楽とは沈黙の芸術で、空の奏でる音に耳を傾ける時、私たちを満たします。音楽とは、私たち人間の罪を贖う芸術です。(中略)音楽とは、永遠に回帰する芸術で、様々な思想家が、音楽は死と心の抑鬱状態に対する、最良の治療法だと考えています。音楽はインド風の浄化(カタルシス)なのです。音楽は、単にいっときの快楽を与えるだけのものではありません。ですから、悲劇の最後に主人公が戦い抜いて死んでしまい、上演の最後にカーテンコールのために、墓場から出てくる時に流れるためだけに、音楽は存在しているのではないのです。では、音楽は、世界が死んでしまっても、生き延びるでしょうか。或いは、音楽は、世界よりも長く残らなくてはならないのでしょうか。私たちに世界を救うことは出来るでしょうか。私は、その必要性を感じません。いずれにしても、音楽は世界よりも、後まで残ることに間違いはありません。音楽のお蔭で、人間も生き延びるのです。何故なら、天空の音楽を耳にしたのは人間だからです。音楽は、聴く人を必要としています。誰も耳を傾けないとしたら、音楽は邪悪な沈黙に過ぎないのですから。

二人の芸術家が語り合う「不完全なもの、の美しさ」吉増剛造×ヴァレリー・アファナシエフ

ソ連の鬼才ピアニストが人生を賭けて行きついた、音楽の「奇跡」~アファナシエフ「最後」の大作を聴く(青澤 隆明)

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