
公開前から見たいと思っていた作品です。
カナダ、ケベック。母親ナワルルブナアザバルを亡くしたばかりの双子の姉弟ジャンヌメリッサデゾルモー=プーランとシモンマキシムゴーデットは母親を秘書として長年雇っていた公証人レミージラールに呼ばれ、母の遺書を渡される。ジャンヌには「あなたの父を探してこの手紙を渡しなさい」シモンには「あなたの兄を探してこの手紙を渡しなさい」というメッセージが残されていた。エキセントリックな母親の遺言を拒否するシモンに対し、ジャンヌは母の故郷レバノンへ向かい父親を探し始める。
物語は時系列には進まない。娘ジャンヌが母親の過去を辿り、それに合わせて映像では若いころの母の日々が綴られる。やがて、弟シモンも一緒に自分たちの父と兄という未知の存在を探していく。
この母と娘を演じる女優さんが似ていて、時間軸が動くたびにどっちの話かちょっと混乱してしまった。
母ナワルの過去を辿るため中東に向かうジャンヌがまず物語を引っ張るのだけど、この「中東」というのが一体どこのことなのか、中東なのにキリスト教徒って一体どこだーっ?とそれが気になって仕方なく、あまり事前情報を入れないようにしているワタクシだけど、ちゃんと調べてから来れば良かったかなぁと思いつつ見ていた。あとで調べてみるとレバノンのことだそうで、中東でありながらキリスト教徒が多く、フランスが統治していたことからジャンヌたちが行ってもフランス語で通じる人がちらほらいたわけだ。そう言えば、カナダにはレバノン移民が結構いるよね。物語としては特にこの中東の国がレバノンだと分からなくても問題なく見られます。
母ナワルがレバノン内戦の時代に激動の人生を送り、子供たちは(観客も同時に)最後に「1+1=1」という衝撃の事実を味あわされる。ワタクシも見ている最中は、この衝撃の事実に打ちのめされ、自分が字幕を読み間違えているんじゃないかと疑うほどだったけど、どうやらそういうお話らしい、ということを飲み込んでから、たくさんの疑問が湧いてきてしまった。
ナワルはプールでの過去との対面後死期を悟ったからか、わざわざ自分の過去をさぐらせるために用意周到に遺書を準備して子供たちにレバノンにまで行かせて一体何がしたかったのか?「暴力の連鎖を断ち切る」と手紙には書いてあったけど、子供たちに過去を探らせることや、父や兄に手紙を渡すことがどう連鎖を断ち切ることになるのか。母親からの遺書という形で告白文を渡されるというだけではダメだったのかな。やっぱり現地に行ってその空気から何からすべてを感じ取って欲しかったのか。どうして母がそのような人生を送らねばならなかったか。ある意味では母自身の選択によって招いた悲劇。被害者から加害者へ、そしてまた被害者へと自らが「連鎖」の一部となってしまった母の人生の総括を子供たちにしてもらいたかったのか。
時間軸がいじってあるために、その映像が映っているときには一体何のことなのか分からないシーンがいくつかある。しかし、最後の衝撃まですべてを見終わると、無駄なシーンなどひとつもない131分だということが理解でき、映像的にも演出的にも映画としてとてもよくできている作品だと感じた。
映像や演出が映画的に素晴らしいということと、ストーリーそのものが素晴らしいというのは、今回の場合少し違っていて、特にここで描かれる「衝撃」をどう捉えるかは人によってかなり違ってくると思う。ワタクシはちょっと作りこみ過ぎかなぁという気がしないでもなかった。これが「実話です」と言われたらぐぅの音も出ないところだけど、フィクションですからね…とても寓話的というか、ギリシャ悲劇的。とは言いつつ、何と言うのかなぁ、うまく言えないけどやっぱりなんかズドーンと来た作品ではありました。
「映画」もいいけど「犬」も好き。という方はこちらもヨロシクです。我が家の犬日記「トラが3びき。+ぶち。」
何故母親があのような意味深で回りくどい手紙を二人に託したのかは自分も疑問でした。物語足る為の手段に過ぎないのかな~と。
2度鑑賞してなんとなく分かったのは遺言の冒頭にあった<約束>という言葉。約束を守れぬ者はきちんと埋葬されるべきではないという所。<約束>とはもちろん自分が生んだ我が子を探し出すという事。
生まれながらに離れ離れになった直後、若かりし母親ナワルは「必ず探し出す」と決意しています。それが即ち一生かかっても自分が成すべき<約束>だったのでは。
人生の最後にあまりに残酷な再会こそ出来たものの、自分が母である事も告げられず終い(あの状況で告げられるとは到底思えませんが)。
母、ナワルは進んで姉弟に自分の歴史を追体験して欲しかったというよりは、自分が果たせなかった<約束>を二人に託したかったのでは?と思うのですね。
わざわざ父と兄に分けて手紙を宛てた理由はブログにも書いておられる通り、自身の行いによる残酷な運命が関係しているのでは?と。
ナワル自身、息子を探す道中、バスでの虐殺を目の当たりにしてそれまでの信仰もアイデンティティも崩壊し、怒りの感情に任せた要人(かつて自身が信仰していたキリスト教右派の)暗殺という負の連鎖を担ってしまっています。その自らの行いこそが運命の悪戯とも言えるニハドとの皮肉な再会に繋がってしまった、と人生最期の瞬間に<初めて>悟ったナワルだからこそ<あまりに過酷な状況でなってしまった姉弟の父親>への手紙、そして<その愛憎入り乱れた過去全てを受け入れてなお、愛しくて堪らない(再会したくて堪らなかった)我が子、兄>への手紙両方をニハドへ託したのではないかな、と思うのです。
う~ん、感情が上手く言語化できず、説明出来た感もありませんが一つの意見として参考になれば・・・ただ感想をかき乱せる事にしかなってないとしたらごめんなさい。
とにかくこの作品は登場人物の感情の思惑が入り乱れているけど考えれば考えるほどに味が出てくる類のものだと思っております。
ご存知の様に映画のラストは<墓石名の入った>ナワルの墓に立ち尽くすニハドのカットで終わります。姉弟と兄が一緒ではないんです。事実を知った彼は墓の前で何を思う?その後姉弟と兄<父>の邂逅はあったのか?等と考える余地を残している辺りが見事な作品だと思います。
半端ではない長文で大変失礼致しました。「宇宙人ポール」評も楽しく拝見しました。
それでは。
「約束」というキーワードについて書くつもりでいたのに、書いている間に忘れてしまっていました。
とても大切なキーワードなのに情けないです。
実は書こうと思っていたことを忘れたままアップしてしまうことが多々あります。
「約束」について1973papermoonさんがご説明してくださった通りで異存ありません。
ご丁寧なコメントをありがとうございます。
最後のニハドがナワルの墓前に立ち尽くすシーン、あの余韻がたまらないラストシーンでした。
それまで双子をずっと見てきた観客にとってはあの後の双子のことがとても気になっていると思うのですが、それをあえてニハドで終わるというのが映画的に素晴らしいと感じました。