スペインの映画賞の最高峰ゴヤ賞を作品賞他9部門も受賞した作品で、米アカデミー賞の外国語映画賞にもノミネートされていたということで非常に楽しみにしていた作品でした。
が、ワタクシにはちょっと分からなかった。んー、というか分かるんだけど、映画としては楽しめなかったというほうがいいかな。
11歳のアンドレウフランセスククルメは森で馬車が崖から落ちて瀕死の幼馴染とその父を目撃する。幼馴染は最後にピトルリウアという森の怪人の名前を口にして死んでいった。この殺人の第一容疑者に挙げられたのはアンドレウの父ファリオルロジェールカサマジョールで、父は警察の手を逃れるために逃亡。アンドレウは働く母親ノラナバスが面倒を見られないことから祖母の家に預けられる。
1940年のカタルーニャが舞台ということで、内戦が終結し、共産主義者として内戦を戦ったファリオルは村の人々から迫害を受け仕事も見つからないという生活を強いられていた。とか、色々とそういう背景があるんだろうけど、その辺のイデオロギー絡みの話がちょっと分かりにくい。というか、これも分かるんだけど、どうもすっと入ってこないというか、これはやはりあの内戦がスペイン人の心にどれほど影響を与えているかということと、それを知識として知っているだけという部分の違いなのかなぁと感じる。
アンドレウの父親ファリオルは共産主義者として内戦を戦い、内戦終結後迫害されることにはなったが、何度も彼自身や妻のセリフに語られるように、“なにがあっても自分の信念を貫く人”という設定なのだけど、彼が富裕層のマヌベンスから依頼されてしたことは、やはりお金のため?ひいては家族のため?どこが“信念を貫く人”なんだろう?とこの点がよく分からなくて、父親にもその行動を肯定する母親にも共感できなかった。彼が信念の人という位置づけでなければ、家族のために仕方なくやったということで理解できたと思うんだけど。ファリオルが犯した2つの罪があまりにも残虐でどうも彼に同情できなかったんだよねー。
大人たちの嘘が子供の心を蝕んでいくという展開が「瞳は静かに」という作品を思い起こさせる。(あっちのほうが子役が可愛かった)あちらは70年代の軍事政権下のアルゼンチンだったが、政治的な抑圧を受ける人々の話という面では共通するところがあるだろう。しかも子供が同じように恐ろしい存在に変わっていく。子供を貧困から救うためにマヌベンスの養子にさせるが、結局それが彼を支配者側へと育ててしまう。しかし、結局養子に行くことに決めたのはアンドレウ自身であり、彼はもうこの決断をした時点で周りの大人たちにほとほと嫌気がさしていたわけで、彼が支配者側に回ってしまったのは結局両親や親戚のせいということになるのだろう。
アンドレウのいとことして登場するヌリアマリナコマスも先生にいたずらされているし、鳥を殺したりするし、父親の自殺を目のあたりにしてしまい、周囲の大人も誰一人助けてはくれず、彼女の心も完全に壊れている。このヌリアを演じたマリナコマスがこの話の中では汚い格好をしているけど、顔立ちはきれいな子でこれからペネロペクルスのようなスペインを代表する女優さんになってくれそうな雰囲気を漂わせていた。
映画などでスペイン語を聞きなれている人には分かったと思うけど、この作品はスペイン語ではなくカタルーニャ語で製作されている。スペイン語に似ているが少し響きが違う。フランコ政権下では使用を禁止されてきた言語である。カタルーニャ語の作品がアカデミー賞外国語映画賞のスペイン代表に選ばれたことはカタルーニャの人々にとって感慨深いことだったのかもしれないな。
「映画」もいいけど「犬」も好き。という方はこちらもヨロシクです。我が家の犬日記「トラが3びき。+ぶち。」