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オリオン村(跡地)

千葉ロッテと日本史好きの千葉県民のブログです
since 2007.4.16
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ローテーションが読めない

2012-06-08 02:48:27 | 千葉ロッテ

唐川の離脱で読めなくなったローテーションですが、土曜日の天気予報が悪いためにさらに分からなくなっています。
昨日のことがありますので急速な回復も期待できますが、雨の神宮での里崎を怖れての中止も考慮に入れておかなければなりません。
ようやくに吉見か上野の出番かと期待をしながらもサプライズのロサはどうよ、などなど楽しいと言えば楽しいのですが、とにかく中5日での特攻だけは勘弁です。

そして明日は藤岡ですが、そろそろ白星が欲しいです。
甲子園への凱旋では好投ながらも白黒がつきませんでしたので、神宮への凱旋で結果を出してもらいましょう。
一時期の低迷から脱しつつあるヤクルトですので油断はできませんが、バレンティンがいないだけ被弾への恐怖感は減っています。
大胆に内角を攻める藤岡らしさを見せて、大学時代の躍動感を取り戻してもらいたいです。
とにかく巨人との直接対決までは負けるわけにはいきませんので、完投をするぐらいのつもりで球数を意識した藤岡と里崎に期待をします。

 

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悪に徹しろ

2012-06-08 01:14:27 | 映画

 

ここのところは興味をそそる作品が無かったために一ヶ月ほど映画館から足が遠のいていたのですが、基本的に出不精ですのであまりに間隔が空くと次へのハードルがかなり高くなってしまうため、やや無理矢理に作品をチョイスしてのレイトショーです。
ところが僅かの期間にすっかりと浦島状態で、有人カウンターが消え失せて自動発券機が並んでいました。
どこでも人件費が一番のコストであることは承知をしていますが、ここまできたかとは正直な感想です。
年齢層が高い、あるいは逆に低い年代には取っつきにくそうで、混雑をする時間帯には長蛇の列になりそうで気が滅入ってきます。

外事警察

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そして今日に観たのは「外事警察」で、NHKでドラマ化をされたものの劇場版です。
この手のシリーズものはなかなか手を出しづらいのですが、たまには冒険もいいかなと思い切ってみました。
結果的にはドラマを見ずとも楽しめはしたのですが、微妙な人間関係や背景が分からなかったところが消化不良気味で、やはり予習はしておくべきだったと反省しきりです。
そろそろ公開が終わりそうな「SPEC」にも踏み込もうかと思っていたのですが、やめておいた方がよさそうです。

それなりのひねりはあるものの、ストーリーに意外性はありません。
伏線はありましたが思ったとおりに展開をしていきましたので、どんでん返しの期待はしない方がよいでしょう。
やたらと騙されるな、とのアピールで意気込んでしまうと、裏切られてしまうことは必至です。
肩の力を抜いてただのサスペンスだと思って観る、それがよいと思います。

それでも2時間超の長さが気にならないぐらいに、テンポのよい流れに飲み込まれていきました。
胡散臭い笑顔の渡部篤郎はいい味を出していましたし、石橋凌や遠藤憲一もあまりにピッタリで思わず笑ってしまうほどです。
首謀者が誰なのか、その意図は何だったのか、さすがにここだけは予想はできませんでしたが、気を置いていた小ネタがしっかりと後に繋がってくる小気味よさは爽快です。
不満があるとすれば悪、と言ってしまうと微妙に表現が違うかもしれませんが、そこに徹底をできなかったことでしょう。
この作品に関して言えば人間らしさを中途半端に出したことが失敗で、もっとクールに決めて欲しかったです。
原作がありますのでこれ以上のシリーズ化は難しいような気がしますが、次があれば是非ともそこをお願いしたいです。


2012年6月7日 鑑賞  ★★★★☆(4点)

 

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功名が辻(二)

2012-06-08 00:42:32 | 読書録

功名が辻(二)

文藝春秋

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羽柴秀吉が中国遠征から本能寺の変を経て天下人に駆け上っていくにつれて、山内一豊もその実直さを買われて身代を大きくしていきます。
派手な武功派や怜悧な文治派に比べれば遅い出世ではありますが、それでもその能力からすれば充分すぎるぐらいです。
ついには長浜城主となり大名の仲間入りで、千代も夫を焚きつけた甲斐があったでしょう。
そして時代は朝鮮の役から豊臣氏に暗雲が漂い始めて、徳川家康の存在がクローズアップをされていきます。

そんな中で千代はのんびりとした一豊をしっかりとサポートをしていきますが、やや鼻につく感じが強くなってきました。
主人公はやはり千代ですからその魅力を引き出したかったのだとは思うものの、一豊を貶めることでの引き立てという手法がいきすぎているような気がします。
ダメな亭主を賢い妻が操縦をしていくのはいいのですが、それがあまり表に出すぎるといいことはありません。
ただ実直なだけの一豊ではなく、もう少し魅力的に描いて欲しかったと思います。

前巻で思わせぶりな存在だった望月六平太と小りんが消え失せてしまったことも、ちょっと肩すかしです。
豊臣の世から徳川の世に移りゆく中で再登場をするのかもしれませんが、ここでの空白はかなりの痛手です。
豊臣氏の譜代とも言える一豊が徳川氏に乗り替えたことを正当化するための伏線もちょっとイヤらしいですし、積極的に荷担をするぐらいの方がよかったように思えてなりません。
この流れのままで次巻が展開をしていくのか、はたまた持ち直すのか、何となく前者のような気がして気が重くなってきました。


2012年6月7日 読破  ★★★☆☆(3点)

 


チキンレースは続く

2012-06-07 00:53:39 | 千葉ロッテ

 

期待をしたとおりに天気が回復をして、そして目論見どおりにDeNAを撃破しての4連勝と勢いは衰えることを知りません。
しかし一方でリーグ戦のライバルである日本ハム、交流戦のライバルである巨人も隙を見せないために、チキンレースが続いています。
この我慢比べに耐えられるかどうかでペナントが決まりそうですが、妙な我慢は体に毒ですので、今はまだプレーを楽しむことを基本にしながら頑張ってもらいたいです。
脇目もふらずに特攻をするのは最終コーナーに入ってからで充分ですので、鞭はまだ箱に入れてしまっておきましょう。

球場に着いたのが五回の裏ですから立ち上がりのグライシンガーは見ていないのですが、いきなり初回に自らの悪送球で失点をしたものの七回途中までその一失点ですから抜群の安定感は健在で、守備の乱れに足を引っ張られなければ余程のことがない限りは先発としての責任回数を全うしてくれますので助かります。
基本は打たせて取るスタイルながらも奪三振も多いですし、そのあたりのメリハリが打者を惑わすのでしょう。
ヒーローインタビューでも恒例の里崎だけではなく根元にも感謝の言葉を忘れないなどチームにも溶け込んでいるようで、この見事な補強には完全に白旗です。
こうなったら狸が全滅をしようが知ったことではありませんので、史上初の両リーグ最多勝を狙ってもらいましょう。

グライシンガーを継いだのは内、益田、藪田のリレーで、今日もまたいろいろと考えさせられました。
やはりピンチをしっかりと抑えきるのは内が一番で、その内を守護神に配置転換をすれば代わりは益田しかいないでしょう。
そうなれば終盤の鍵となる八回が藪田になるわけで、今日のピッチングを見てしまうとそれもゾッとしません。
伊藤が健在、あるいはロサが復調でもしてくれれば丸く収まるのですが、無い物ねだりをしても仕方がありませんので暫くは今の体制で凌ぐしかないとは諦めの境地です。
まさに後悔先に立たずで、最下位のシーズンに勝利の方程式を浪費したツケがここにきて重くのしかかってきました。
同じことを来季以降も繰り返さないよう、内と益田を同じ試合に投げさせることをできるだけ避ける配慮と努力が欲しいです。

打のヒーローは逆転ツーベースの井口でしたが、個人的には根元です。
席に着いた直後の同点ツーベースは見事な伸びでセンターの頭を越えていき、何度もチャンスを逃して初物に翻弄をされていたイヤな雰囲気を断ち切ってくれました。
バントもしっかりと決めて二番打者の仕事をこなしましたし、守備でも球際の強さをアピールするおまけ付きです。
あれだけ不安視をされた肩の弱さが最近は目立たないぐらいに躍動感があり、やはり経験は人を育てるのだなと再認識をしています。
そこから井口、サブローの連打も圧巻でしたが、一番にホッとしたのは二度のチャンスを逃していたその井口とサブローでしょう。
例によってワンチャンスで大量得点というロッテらしさが上手く巡った逆転劇でしたので、まだまだ歯車はかみ合っていると見ます。
結果的に抑えられながらも堅実にバントで走者を得点圏に進めてバッテリーにプレッシャーを与え続けた成果だと、そう考えるベンチであってもらいたいです。

ここのところは代走や守備固めを出すことで地蔵に僅かでも日が差すような起用となっていましたが、今日は久しぶりに9人野球でした。
なぜに最終回に大松に代えて塀内を出さなかったのか、ヒヤリとさせられた打球もありましたのでベンチに油断があったのではないかと、自分も九回にあれほどの劇場が幕を開けるとは想定外で気付かぬうちに感覚が鈍っているようですので、少しネジを巻き直すことにします。
明後日からのヤクルト戦をしっかりとものにして巨人との直接対決に臨むには、初戦の藤岡が全ての鍵を握っています。
ここで勢いを増すことができれば香月でヤクルトを食えるかもしれず、しかしヤクルトも一時期の不調から立ち直りつつありますので油断はできません。
またスタメンから外されるのでしょうから清田を代打で上手く使って欲しいと、そんなビジターでの戦いぶりに期待をします。



  1 2 3 4 5 6 7 8 9

DeNA

1 0 0 0 0 0 0 0 1 2 7 0

千葉ロッテ

0 0 0 0 3 0 0 0 X 3 8

1


◆6月6日(水) 千葉ロッテ-DeNA4回戦(ロッテ3勝1敗、18時15分、QVCマリン、12,114人)
▽勝 グライシンガー 9試合6勝1敗
▽S 藪田 26試合3敗17S
▽敗 王溢正 1試合1敗

▽バッテリー
千葉ロッテ グライシンガー、内、益田、藪田―里崎
DeNA 王溢正、林、小杉、篠原、菊地、小林太―鶴岡

 

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尻に脂汗も角中神話は続く

2012-06-06 01:47:02 | 千葉ロッテ

 

今日は風が強かったことで涼しいを通り越して寒ささえ感じたスタンドでしたが、六回以降は毎回のようにピンチを迎えてイヤな脂汗をかきまくりました。
しかし角中が打点をあげた試合はこれで13連勝と神話は続き、また粘り強くリードを守りきってくれたリリーフ陣には感謝の言葉もありません。
ここにきて選手たちからは交流戦の優勝に向けての強い言葉が聞かれるようになってきましたし、首位の巨人がなかなか負けないためにそうなれば自分たちも勝ち続けるしかありませんので、とにかく明日の天気予報が外れることを祈って負けるはずのないグライシンガーvs王の試合をきっちりと勝って勢いを増してもらいましょう。

面白くない点の取られ方で逆転をされた直後でしたから、角中の同点スリーベースにはライトスタンドを中心に大歓声が上がりました。
真ん中低めのやや甘めのボールながらもコンパクトに振り抜いた打球は右中間を襲い、一塁走者のサブローが一二塁間で打球を確認したぐらいに打った瞬間はあそこまで伸びるような感じはなかったのですが、角中らしい二段ロケットに点火をしたような速さであっという間にフェンスまで到達をしましたからビックリ仰天です。
左腕に対してカウントを悪くしてからのものですから価値はさらに高まりますし、もはや貫禄すらにじみ出ています。
さらには今江の飛球でタイミング的にはアウトのところをワンテンポ置いたようなスライディングで捕手のタッチをかいくぐり、この一点が試合の流れとしてはかなり大きかったです。
角中がお立ち台に立つことが珍しくないどころか常連になりつつあり、この上昇曲線は本人もやや戸惑い気味かもしれません。
それでもヒーローインタビューを聞く限りでは油断を感じさせませんので、この調子で首位打者に向けてばく進をしてもらいましょう。

大松も今日は2年ぶりの3安打猛打賞と活躍をしましたが、バッティングとしては上向きとは言えない感じがあります。
三打席目の三振がそれを象徴していましたし、まだまだ時間はかかるような気がします。
しかしそれでも左腕からのマルチヒットは左打者が調子の悪いときにはむしろ左腕に、を地でいっているようなものですし、貴重な追加点となったタイムリー内野安打はラッキーヒットでしかありませんでしたが、こういった結果が伴うことがちょっとしたきっかけになることも珍しくはありません。
本人も言っているようにHランプが一番の特効薬かもしれませんので、この小さな積み重ねが大松の背中を押してくれることを願っています。

渡辺俊は六回途中まで無失点で降板をしましたが大谷が打たれて結局は1失点で、この謎の継投の理由を知りたいのは自分だけではないでしょう。
もしかしたら五回を終わったところで何らかの話し合いがされていたのかもしれず、荒波のところでもベンチの様子を確認する田中がいました。
今日の渡辺俊は本人が言うほどに好調だったとは思いませんが、それなりの強風がよかったか抜いた緩いカーブが効果的で、久しぶりにらしさを見たような気がします。
それだけに80球程度で見切られるまでベンチからの信頼度が落ちているのであれば、中継ぎ陣への負荷を考えれば先発としての起用に首を傾げたくもなります。
西村監督は継投ミスを認めているようですが、どちらかと言えば継投への判断ではなくプランニングに問題があったのでしょう。
今日も形にこだわったのか先日とほぼ同じ顔ぶれでのリレーでしたが誰一人としてピシャリと抑えることができず、もしもの場合の備えがあっての継投をお願いしたいものです。

申し訳ないながらもDeNAとがっぷり四つに組んでの試合は想定外で、そして試合のポイントを握ったのは両チームの捕手でした。
初回に荒波の盗塁を封じ、また味方が先制をした直後の先頭打者を歩かせた渡辺俊を救う一塁への牽制がナイスだった田中は、お立ち台に呼びたかったぐらいです。
バントもきっちりと決めましたし、リードには特筆するところはありませんでしたが、今日の隠れたヒーローと言ってもよいでしょう。
一方の黒羽根は角中の生還を許したクロスプレーが痛手で、やや三塁寄りに逸れた返球を捕るために体が伸びてしまったことできっちりとしたブロックができませんでした。
田中とは対照的にバントを失敗するなど攻撃面でもマイナスでしたし、ロッテからすれば敵の中に味方がいた感じすらあります。
やはり捕手はチームにとっては重要なポジションで、今日の里崎の欠場が何らかの異変なのかお疲れ休みなのか、はたまたここにきてベンチが田中を育てることに腹を据えたのかは分かりませんが、試合終盤のピンチの連続でも田中を使い続けたことは大きな財産になるでしょう。
逆にDeNAは谷繁、相川とレギュラー捕手を相次いで失い、この4年で3人の捕手をFAで補強をしても無駄遣いでしかないという悲惨な状況が続いています。
難しいことではあるのですが捕手は自前で育てるしかないと、そう強く思わされた今日の試合でした。



  1 2 3 4 5 6 7 8 9

DeNA

0 0 0 0 0 2 0 0 0 2 9 0

千葉ロッテ

0 0 1 0 0 2 0 1 X 4 10

0


◆6月5日(火) 千葉ロッテ-DeNA3回戦(ロッテ2勝1敗、18時15分、QVCマリン、15,424人)
▽勝 内 9試合1勝
▽S 藪田 25試合3敗16S
▽敗 藤井 3試合1勝2敗

▽バッテリー
千葉ロッテ 渡辺俊、中後、大谷、内、益田、藪田―田中
DeNA 藤井、菊地、林、小杉―黒羽根

 

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バキューン種子島 史跡巡り篇 鹿児島の巻

2012-06-05 02:38:43 | 日本史

 

二日目も天気に恵まれて順調な滑り出しだったのですが、桜島の噴火のおかげで日程を縮小せざるをえなかったのが残念でなりません。
涙にくれて時間と体力をかなりロスしましたので、まあ仕方がないと言えば仕方がないのですが、何もこのときに噴火をしなくてもとは旅人の勝手な言い分です。
それでも前回に見落としたところをきっちりとカバーするなど90点の自己採点はできますので、この勢いで次の大分、対馬、そして西九州となだれ込みたいものです。

鹿児島の最初は初日に鹿児島港からてくてくと歩いて天文館で食事をして、そこからホテルに帰る途中で見つけた大久保利通像です。
幕末は今や守備範囲外で積極的には探していないのですが、前回の西郷隆盛像などと同様に見つけたのであれば無視をすることはしません。
その西郷隆盛と並ぶ薩摩藩の維新二傑と言ってもいい大久保利通は西郷贔屓で不人気とも聞いていますが、政治家としての資質は大久保の方が優っていたと思います。
夜なのでまともに撮れるとは思っていなかったのですが、意外にまともに撮れていたのには驚きました。

二日目にまず向かったのは伊集院駅で、トップの写真にある駅構内の島津義弘人形が出迎えてくれました。
これを見て「ジャンボマックスだ」と思った方は、たぶん私と同年代です。
駅の正面には島津義弘像があり、前回の鹿児島で戦国島津氏が軽視をされていると嘆いていたのですが、これでホッと一安心です。
ただ銅像の写真を撮るのが難しいと言いますかかなり苦手で、多少でも逆光となるとこんな感じになってしまいますことをご容赦ください。
その兜の感じからしてもどこか鎌倉から室町あたりを思わせるような勇姿ですが、始発で来ただけのことはありました。

伊集院駅から反転して北上をした先は帖佐駅で、ここを根城に帖佐、加治木、そして重富を巡りました。
このあたりの町は合併をして姶良市になったのですが、レンタサイクルを営んでいる店があるのが帖佐駅ぐらいだったことがその理由です。
ただ営業時間が10時からとのんびりとしていたために帖佐は徒歩で巡ることにして、その第一歩が願成寺跡です。
ここには新納旅庵の墓があり、これが目的であることは言うまでもありません。

新納旅庵は鬼武蔵として名高い新納忠元の又従兄弟で、島津氏の庶流である新納氏のまた庶流にあたります。
僧侶でしたが島津義弘の命で還俗して家老となり、関ヶ原の役での講和に尽力をしました。
三基ある墓のどれが旅庵の、名は長住ですが、それにあたるかが分からなかったのですが、子孫が建てた墓碑が後ろにありましたのでおそらくは右端だと思います。
ただ墓石の刻字が薄れていて読み取れなかったので何とも言えず、もしかしたら一番に大きい中央のものがそれかもしれません。

次は島津義弘居館跡ですが、願成寺跡から2.5キロぐらい離れていましたのでちょっとした苦行でした。
まだ時間が早かったので日差しはさほどでもなかったのですが、申し訳ないのですがのんびりとしている自転車屋さんにぶつぶつと文句を言いながら歩いた次第です。
ここは義弘が関原の役の直前に居を移したところで、石垣があるなどちょっとした小ぶりの城のようなものだったようです。

敷地内はありがちな稲荷神社になっていてどうこう言うものはありませんでしたし、大振りな記念碑も興味をそそりませんでした。
東に大手門跡があり礎石が残されていましたが、これもあまりぐっとはきません。
それでも義弘の事績が紹介をされた立派な説明板がありましたので、地元の方にはこよなく愛されている義弘のようです。
ちなみにここにあった門は江戸時代に出水に移されて、今は市の指定文化財となっています。

帖佐での最大の目的がこの総禅寺跡で、豊州島津氏の菩提寺でした。
例によって廃仏毀釈で廃寺となってしまい、今は民間の墓地となっています。
豊州島津氏は本宗家8代の久豊の三男である季久を祖としており、その季久が豊後守を称したことから豊州家と呼ばれています。
先の都城の北郷氏から忠親が養子に入ったのがこの豊州島津氏で、北郷氏と豊州島津氏は協力して伊東氏らと対することとなりました。

初代の季久の墓は墓地の一番奥にあり、草が生え放題でかなり荒れた感じがあります。
当時の姶良町の指定文化財なのですからもうちょっと手入れをしてもらいたいのですが、いろいろと事情もあるのでしょう。
ただ同じ姶良市でも加治木などはきちんと整備がされていましたし史跡の案内板などもそこそこ充実をしていましたが、姶良と言いますか帖佐はそのあたりが言葉を選ばなければかなり手が抜かれているようで、先の願成寺跡も探し当てるのにかなり苦労をしました。
話がそれましたが季久は兄の本宗家9代である忠国の命で帖佐に侵攻をして建昌城を築き、しかし次の代に豊州島津氏は飫肥に移ることとなります。

そんなこんなで帖佐に墓所があるのは季久とこの朝久のみで、その朝久の墓も草むらに埋もれた形になっています。
中を覗いてみればかなり破損もしているようですし、何とも悲しくなってきます。
朝久は北郷氏から養子に入った忠親の跡を継いで6代となり、島津義弘の長女である御屋地を娶って義弘の配下として活躍をしました。

その御屋地の墓も、この総禅寺跡にあります。
都城でご紹介をした北郷相久に嫁いだもののその相久が父と不和となり廃嫡されて自害をしたことで、その後に朝久に嫁ぎました。
冷酷非情と言われた本宗家の忠恒もこの姉にはかなりの気遣いをしていたらしく、豊州島津氏の当主が本宗家の家老を務めていたのもそれが理由かもしれません。
ちなみに先の島津義弘居館には、義弘が加治木に移った後に御屋地が住んだとのことでした。

ここから帖佐駅に戻る途中で火山灰が降り出し、たまらずに逃げ込んだのが姶良市歴史民俗資料館です。
完全に予定外でしたが怪我の功名とでも言いますか、義弘や越前島津氏の小冊子を入手できましたのでラッキーでした。
個人的には今ひとつの展示物でしかなかったのですが、いろいろな意味で一息つけましたので感謝の言葉もありません。

ようやくにレンタサイクルを借りて加治木に向かい、最初に訪れたのが長年寺跡です。
本宗家の忠恒の三男である忠朗が興した加治木島津氏の墓所で、しかしこの加治木島津氏からその後に本宗家の当主が出ていますので本宗家の墓所と言えなくもありません。
これまた廃仏毀釈により廃寺となったようで、今はその墓所のみが残されています。

しかしここにあるのは2代の久薫の墓のみで、他は能仁寺墓地にあります。
このあたりの経緯はよく分かりません。
加治木島津氏は忠朗が祖父の義弘が領した加治木とその家臣団を引き継いでいますので、忠恒からすれば可愛い息子だったのでしょう。
久薫はその忠朗の嫡男です。

ここで有名なのは亀墓で、似たようなものを中国出張の際に泰山で見かけました。
5代の久方は本宗家に復して重豪となりましたが、その母である正覚院もここで眠っています。
その三十三回忌に重豪が建てた供養塔がこの亀墓で、正覚院は重豪を生んだその日に亡くなったためにそれだけ思いが強かったのでしょう。

その他では3代の久季の子の久連、久歓の墓がありましたが、久連の墓は撮り損ねましたので左側は久歓です。
右は椿窓寺殿供養塔で、椿窓寺殿とは島津忠良の三女の西姫のことです。
西姫は加治木肝付氏の兼盛に嫁ぎますが、その後に離別をされて実家に戻りました。
なぜに長年寺に供養塔があるのかの説明はありませんでしたが、その名前が伝わっていることからして重要な女性だったのだと思われます。

晩年を加治木で過ごした島津義弘の終焉の地が、ここ加治木島津氏の館です。
石垣は残されていますが帖佐のそれと同様に当然のごとく建物などは残っておらず、社のようなものがあるだけでした。
この加治木は義弘の孫にあたる忠朗に引き継がれたとは先にご紹介をしたとおりで、そういう意味では義弘が加治木島津氏の家祖と言ってもいいかもしれません。

この加治木は加治木氏が治めていましたが、島津季久、これまた先にご紹介をした豊州島津氏の初代ですが、この三男の満久が養子に入っています。
ところが満久の子の久平が島津氏に叛いたことで加治木を追われ、加治木氏は没落をしていきます。
この日木山宝塔はその加治木氏の墓石とも言われており、説明板には8代の親平夫婦、あるいは9代の恒平の弟である木田信経夫婦のものではないかと推定されるとあり、いずれにせよ親平は島津氏の初代である忠久と同年代の人物ですのでかなりの古さであることは間違いありません。
なかなか分かりづらいでしょうがかなりの大きさで、自分の身長よりもかなり高かったです。

こちらは加治木肝付氏の墓所です。
肝付氏の嫡流は島津氏との抗争で没落をしたとは先日の肝付でご紹介をしましたが、庶流の肝付氏は早くから島津氏に従いました。
ただ面従腹背なところもあったようで、加治木肝付氏の初代である兼演は何度か島津氏に叛いています。
しかしその子の2代の兼盛は島津忠良の娘を娶り、以降は完全に島津氏の家臣団に組み入れられていきます。

ここにある三基の墓のうち右端が3代の兼寛のものであることは分かっていますが、他の二基は刻字が読み取れないために不明のようです。
2代の兼盛とその側室ではないかと言われていますがどちらがどちらかも分からないとのことで、確かに全くと言っていいほど何も読み取れませんでした。
戒名は分かっているので一文字でもあれば何とかなると思うのですが、専門家が見ても不明なのですから自分に分かるはずもありません。

能仁寺墓地は加治木島津氏の墓所で、歴代藩主とその正室の墓があります。
ただ2代の久薫は長年寺跡に、そして4代の久門と5代の久方は本宗家を継いだために福昌寺跡に墓がありますので、それ以外のものとなります。
能仁寺は初代の忠朗が建立をしましたが今の状態を見れば、おそらくは廃仏毀釈により廃寺となったのでしょう。

初代の忠朗は本宗家の忠恒の三男で、祖父の義弘の領地と家臣団を受け継いだとは繰り返しになります。
通称の又八郎は忠恒と、初名の忠平と兵庫頭の官位は義弘と同じですので、父にも祖父にも愛された存在だったのでしょう。
当初は北郷氏に養子に入る予定が生母の反対により流れて、そして一門衆筆頭の加治木島津氏の誕生となった次第です。
ちなみに島津氏のルールなのか、当たり前のように右側が忠朗の墓となります。

一門衆筆頭ながらも、いや一門衆筆頭だからこそ、家督継承は順調にはいきません。
本宗家に跡継ぎが絶えた場合に当主を出す家系ですので、本宗家にできるだけ近い血筋を残す必要があったのでしょう。
2代の久薫は忠朗の子ですが、3代を継いだのは本宗家の綱久の次男である久季ですから久薫にとっては従兄弟の子になります。
そして4代の久門は本宗家の継豊の次男で、兄の宗信が22歳の若さで没したために本宗家に復して重年となりました。
重年の子である久方は生まれたときには父はまだ本宗家を継いでおらず、そのためか父の跡を継いでそのまま5代となりましたが、その後に父に子、つまりは自らにとっては弟ができなかったことで重年が没した後に同じく本宗家に復して重豪となりました。
6代は重豪の従兄弟である久徴が、7代はその子の久照が継ぎ、8代は久照の従兄弟、あるいは甥とも言われている久徳が、9代はその子の久長が、10代はその子の久宝が継いだことで本宗家との血脈がやや遠くなっていきましたが、これは重豪以降が子宝に恵まれたことが理由かもしれません。
写真は上段左から久季、久徴、久照、久徳、久長、久宝です。

蒲生氏と言えば近江の蒲生氏郷が有名ですが、ここ薩摩でも蒲生氏が栄えました。
同じ藤原氏の一族ですが直接的な繋がりはないようで、また近江が「がもう」に対して薩摩は「かもう」と濁りがありません。
戦国期には肝付氏らと組んで島津氏と抗争を繰り広げましたが、最終的には肝付氏とともに屈して島津氏の傘下に入ることとなりました。
蒲生氏の墓所は「蒲生どん墓」と呼ばれて整備をされており、その整然美には圧倒をされます。

大小の墓石が三列にきれいに並んでおり、前後左右の間隔もピッタリでした。
それもそのはずで、幕末の洪水で流出をしたものを昭和に入ってから有志が復元保存をしたものとのことです。
ここには8代から13代の当主とその一族の墓があるとは例によって説明板の受け売りですが、しかしどれが誰のものかの説明はありませんでした。

復元保存をしたのであれば当然のごとく最前列が当主のものであろうと、その想像どおりに8代から13代にあたる六基の墓が並んでいました。
そして並べるのであれば代順に並べるだろうと、横に並べるのであれば左からだろうと、このあたりは勝手な推測です。
あるいは復元の際に刻んだと思われる刻字は読めないところが多かったのですが、確実に分かったのは左端が蒲生宗清のものであることで、この宗清は蒲生を最初に名乗った舜清を初代とすれば7代になりますが、その父である藤原教清を家祖と考えれば8代になります。
かなり強引な論法ですが、そう考えれば写真は上段左から宗清、直清、清種、清冬、清寛、忠清です。

二列目と三列目はやや小ぶりとなりますので、おそらくは一族や正室、側室などの墓なのでしょう。
何となく適当に大きさを合わせて並べたように見えると言ってしまえば有志の方に怒られそうですが、見事なぐらいのバランスのよさです。
当主のものと同様に刻字がされてはいたのですが、こちらもかすれたり欠けていたりしたので深追いはしませんでした。

御仮屋門は鹿児島県の指定文化財で、蒲生地頭仮屋の正門です。
御仮屋とは言ってみれば役場のようなもので、市役所の正門とでも考えれば当たらずといえども遠からずでしょう。
城門に近いものですからそれなりの威容を誇っており、しかしちょっと劣化と言いますか朽ち始めているように見えたのが残念と言えば残念でした。

紹隆寺はご多分に漏れず廃仏毀釈で廃寺となりましたが、昭和の末期に再建されました。
ここには越前島津氏の墓所があります。
越前島津氏は本宗家の初代の忠久の次男である忠綱が越前守護代になったことで興したもので、しかし15代の忠長が播磨で討ち死にをして絶えてしまいました。
しかし実際には忠長の子である忠之、その子の義弘と戦国期まで血脈は続いています。
越前島津氏とは言いながらも忠綱の子の2代の忠之が播磨に下向をしたことで播磨島津氏とも称しており、忠長が赤松氏に属して播磨で戦乱に明け暮れたのもそれが理由です。
もっともそんなことはお構いなしに本宗家の継豊は弟の忠紀を16代として越前島津氏を再興させて、その領地から重富島津氏とも呼ばれました。

そういう意味では忠紀は越前島津氏の16代であり、重富島津氏の初代であると言ってよいでしょう。
本宗家の吉貴の四男で継豊の弟にあたり、嫡流かどうかはともかくとしても忠長の子孫がいる中での再興ですから無理矢理感は否めません。
ただこのあたりは完全に江戸期の話ですので、個人的には興味外だったりもします。
また忠紀よりも前の代の墓はありませんので、越前島津氏と言うよりも重富島津氏の墓所という方が正しいかもしれません。

便宜的に代数は越前島津氏のそれでいきます。
17代の忠救、18代の忠貫と直系が継ぎますが、19代には本宗家の斉宣の三男である忠公が、20代には同じく本宗家の斉興の五男の忠教、後の久光が入り、21代は忠教の四男の珍彦が、22代は珍彦の嫡男の壮之助が、23代は壮之助の嫡男の忠彦が継ぎました。
こう見ると本宗家の部屋住みを外に出すために名家を引っ張り出したと、そんな気がしないでもありません。
写真は上段左から忠救、忠貫、忠公、珍彦、壮之助、忠彦です。

ここまでは墓のオンパレードでしたので、最後ぐらいは城で締めます。
岩剣城は祁答院氏の居城で、険阻な断崖に囲まれた難攻不落とも言われた山城でした。
見るからに険しく、また整備状況が悪いと聞いてはいましたが登る気は満々で、しかし残念なことに火山灰のおかげで時間と体力を浪費したおかげで泣く泣く写真を撮るだけでパスをしたとは言い訳でしかありませんが、今回の旅で計画をしていたもので見逃した唯一ですから心残りであることは間違いありません。

岩剣城が島津氏に包囲をされて孤立無援となったことで祁答院氏は本拠の祁答院に落ちていき、島津義弘が城主となります。
しかしあまりに不便なために麓に築いたのが、この平松城でした。
現在は一部に野面積みの石垣が残っているだけで、重富島津氏の居館としてはちょっと寂しい感じがあります。
それでもその石垣すら残っていないところが少なくありませんので、いい感じで締めくくれたかなとは自画自賛です。


【2012年5月 鹿児島の旅】
バキューン種子島
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バキューン種子島 旅情篇
バキューン種子島 史跡巡り篇 種子島の巻
バキューン種子島 グルメ篇
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いつまでも続く唐川の中休み

2012-06-04 23:42:32 | 千葉ロッテ

唐川が登録を抹消されました。
昨日の試合後にはむしろ手応えを掴んだようなコメントを残していただけに、試合中から肩の張りを感じていたとの報道にはかなりの違和感があります。
しかもその張りを感じ始めたらしい三回以降に体重移動がいい方向に出たと口にしていわけですから、ちょっと不思議な感じすらあります。
翌日になってみなければ状態が分からないことから弱音を吐かなかっただけかもしれませんが、何にせよ今季もしっかりと中休みの唐川には失望を隠せません。
クレバーさが結果的に唐川の足を引っ張っているのではないかとすら思えてくる気持ちを何とか抑えるしかなく、とにかく10日間にこだわらずにしっかりと治すことが第一です。
走り込みはできるはずですからシーズン中にはどうしても減ってしまう下半身の鍛錬を、これまでとは別の観点から行うのもよいでしょう。

しかしここにきての唐川の離脱はローテーションを考えればかなり厳しく、そしてベンチの手腕が問われます。
妥当に考えれば成瀬、グライシンガー、藤岡、渡辺俊、香月となるのでしょうが、そうなれば中継ぎ投手が足りなくなります。
そこに中郷がくれば上手く収まるのですが吉見も見てみたいですし、贔屓目ですが昨年の台頭を今季に繋げたい上野もいますので、ファン目線から言えばよりどりみどりでしょう。
今日はおそらくは急なことでしたので登録をする選手の判断を保留したのかもしれず、仮にそうであれば普段からの準備の足りなさを露呈したことにもなりますが、もし明日も登録がなければあるいは香月は中継ぎのままで小野の復帰を前提にしていることも考えられますので、いずれにせよ枠の無駄遣いだけは勘弁です。
明日からのDeNA戦は藤井にプロ初登板初先発の王と「とりあえず左手で」路線でやってくるようですが根元と角中に粉砕をしてもらい、そしてファンを安心させる渡辺俊とグライシンガーであることを願っていますし、そうそうDeNAに取りこぼすわけにもいきませんので堅実に連勝といってもらいましょう。

 

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ふらふら唐川と盤石リリーフ陣で中日を一蹴

2012-06-03 23:48:18 | 千葉ロッテ

 

朝に見てみれば降水確率が60%と高くなっていたので心配をしていたのですが、雨どころかむしろ昨日よりも日差しが強かったかもしれない好天の日曜日でした。
おまけにまるで不調時のロッテを相手にしているかのような中日の戦いぶりで白星をプレゼントしてもらい、気持ちよく週初を迎えることができます。
ついに高木監督は完敗と白旗を揚げたようですし、これで木俣とともに今後は軽口を叩くことは慎むでしょう。

そうは言いながらも唐川vs小笠原という名前からすれば勝って当たり前のような試合ながらも中盤まではドキドキもので、それもこれも唐川のふらふらぶりがその全てです。
味方が幸先よく初回に先制をしてくれた直後の先頭打者をスリーボールにしてストライクを取りにいったボールを痛打されて、そしてブランコに逆転ツーランを浴びてしまいました。
5回で7安打ですから中日の拙攻がなければもっと失点をしていたでしょうし、昨日の今日で初回の無死一塁で強攻策をとったり早打ちをしたりとどこかのチームに似たような攻撃をしかけてくれた中日ベンチには感謝をしなければならず、五回での降板も仕方のないまさに棚ぼたの6勝目と言ってもよいでしょう。
これまで若さに似合わない老練な投球術で白星を重ねてきただけに楽をすることを覚えてしまったわけでもないのでしょうが、今の唐川のコントロールではいかに伸びがあろうともストレートが130キロ台半ばでは打者からすれば打ちごろでしょうし、二回の荒木の打球を根元が好捕しなければあそこで試合が壊れていたかもしれません。
本人も反省しきりでベンチでは周りの笑顔とは対照的にずっと固い表情のままでしたので、今度こそ次の登板の際には五回で終わってもいいので力強さを見せて欲しいです。

そんな唐川を救ったのが球界でも屈指のリリーフ陣で、六回から大谷、内、益田、藪田と繋いで藪田のお約束の一安打のみに抑えての完封リレーです。
その中でもイヤな流れを見事に断ちきった大谷の三者三振が特筆もので、今日はストレートの伸びが抜群でした。
ストレートに威力があることで抜いたカーブを呆然と見送らざるをえないわけで、この大谷のピッチングを唐川は見習うべきでしょう。
お立ち台に呼びたかったぐらいの大谷は、それでも間違いなく今日のヒーローでした。
内と益田も力でぐいぐいと押すピッチングで中日打線はお手上げといった感じでしたし、やや強めの打球も球威で押し込んでいたことで差し込まれて伸びを欠き、しかもストライクゾーンでの勝負でしたので手を出さざるをえないという中日からすれば完全な悪循環でしょう。
気になるとすれば藪田がやはり武器であるストレートでなかなか空振りを取れなかったことで、最後は変化球に頼らざるをえなかったのが今後に不安を残しました。
また例によって形にこだわってのリレーは先日と同様で、万が一に誰かがこけたときのことを全く考えていないのには困りものです。

打線はとりあえず左手で投げていれば何とかなるかもしれない、みたいな小笠原をあっさりと攻略をしての先制パンチには拍手喝采です。
ボール先行で苦し紛れにストライクを取りにきたボールを見逃さず、逆らわずに右方向に運んだ今江のタイムリーは見事でした。
また唐川の調子を見れば無理に前進守備をする必要はないのにと思ったロッテな守備にも助けられての岡田の勝ち越しタイムリーで中日は完全に浮き足立ってしまい、ここで貴重な先発投手であるはずの山井を投入するのですから何がしたかったのかがよく分かりません。
結果的に中盤はその山井に抑えられただけに先発だったら苦戦は免れなかったでしょうから、ロッテとしては助かりました。
さりげなく岡田は9試合連続ヒットとのことでじわりと打率を上げてきましたし、これで取り残されているのは大松のみです。
巨人でチャレンジをしたのであればロッテでもと、サブローが一塁を守れればと思ったりもしています。
また当然のように内角を厳しく攻められ始めた角中はヒヤリとさせられる死球がありましたが、次の打席では達川ばりのアピールをするなど気持ちに余裕はあるようで、研究もされるでしょうし勝負を避けられる中で焦って調子を落とすようなことは今のところは心配をする必要なないでしょう。
ちなみにせっかくのマルチヒットで勢いづく清田に福浦を代打に送ったのは個人的には気に入らず、もちろん球場は盛り上がりましたが左腕が出てくるのは分かりきった話ですので、右腕に数字が今ひとつな清田ではありながらも打たせてあげたかったと、今後のことを考えてそう嘆いたシーンでした。

今日は恒例となったオリオンビールデーでしたので、具志堅用高が始球式にヒーローインタビューにと大活躍でした。
その始球式で具志堅とともに投げたオリオンビールのお偉いさんが着ていたのが伊志嶺の5番だったのが何とも物悲しく、また11番を背負ってくれる日がくることを願っています。
元ボクサーの具志堅にちなんでのファイティングポーズで決めた写真は明日のスポーツ紙を飾るのでしょうが、岡田さん、それではどちらかと言えばお縄を頂戴です。



  1 2 3 4 5 6 7 8 9

中日 

0 2 0 0 0 0 0 0 0 2 8 0

千葉ロッテ

1 3 0 0 0 0 0 1 X 5 12

0


◆6月3日(日) 千葉ロッテ-中日4回戦(ロッテ3勝1分、13時、QVCマリン、24,286人)
▽勝 唐川 10試合6勝2敗
▽S 藪田 24試合3敗15S
▽敗 小笠原 2試合1敗
▽本塁打 ブランコ12号(唐川)

▽バッテリー
千葉ロッテ 唐川、大谷、内、益田、藪田―里崎
中日 小笠原、山井、武藤、小林正―谷繁

 

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西村監督もご満悦

2012-06-02 22:53:51 | 千葉ロッテ

 

まるで放棄試合のようなスコアでの大勝は甲子園でのイヤな流れを断ち切るには充分すぎる白星で、投打ともに結果が出たことで西村監督もご満悦のようです。
逆に高木監督は冷静を装っていたようですが内心は悔しくて仕方がないと思われ、今ごろは舐めた発言を後悔していることでしょう。
関東にもこんなに中日ファンがいたのかと驚くぐらいに埋まったスタンドは大入りにこそなりませんでしたが今季2番目の大観衆で、その中での横綱相撲は喜ばしい限りです。
試合後のマリーンズストアでは浅尾のユニフォームを着た女性が福浦の下敷きを買っているという不思議な光景を目にしましたが、これを機に乗り換えるのもありかもしれません。

今日の成瀬は自己採点は100点満点の完封勝利で、今季のチーム一番乗りです。
チーム防御率はリーグ2位ながらも完封試合はこれまで4月にグライシンガーが七回まで投げてのものが唯一でしたので、まさにエースの貫禄でしょう。
いつの間にやら最多勝争いでトップに立つ6勝目はチームの勝ち頭ですから、なかなか前に進めない唐川やグライシンガー、そして藤岡にもいい刺激になると思います。
スライダーの調子が良かったのか外角の際どいコースに投げ込んでいましたし、内角もしっかりと攻めていましたので中日打線も的を絞れずに完全に手玉に取られていました。
試合の流れとしては初回に3点の援護をもらった直後の二回に先頭打者を歩かせたことをきっかけとした満塁のピンチを抑えきったこと、やはりここでしょう。
もし1点でも取られていたらどうなったかは分からず、やや甘めのストレートを谷繁が打ち損じてくれて助かりました。
五回までは2安打零封ながらも5点を失っていた山内の66球を上回る78球も投げていましたので本人が言うほどに思い通りのピッチングだったとは見ていませんが、丁寧に粘り強く投げたことで尻上がりに調子を上げていったと、それが終盤の井端や森野らの淡泊な攻撃に繋がったのではないかと思います。
これで交流戦の最多勝にも並びましたのでチームが優勝ともなればMVP候補になるでしょうから、明日もきっちりと勝って遠のきかけたVを再び引き寄せてもらいましょう。

今日はやや角度のある席でしたので、おそらくは今季初の打者の写真を並べてみます。
ただやはりネットが邪魔ですしSS席ではこのあたりが限界で、打者を上手く撮るにはS席がベストだと再認識をさせられました。
それはさておきこう見てみるとやはり角中の不細工さが目立ちますが、これこそが角中の特徴であり、また武器だとも言えます。
数年前の鎌ヶ谷でもあれだけ頭が突っ込んでよく打てるなと感心をしたものでしたが、体勢を崩されても体が柔らかいのか体幹がしっかりとしているのかボールにしっかりと力を伝えることができている角中の打球は意外なぐらいのスピードと伸びがあります。
この写真は初回にライトオーバーのツーベースを打ったときのもので、とてもそうは思えないような打撃フォームです。
もっとも鋭い打球ではありましたがパシフィックの外野手であれば捕られたかもしれませんので、先日のヤクルトもそうでしたがセントラルにとってのQVCマリンは魔の巣窟ぐらいの思いがあるのではないかと、さして強風でもなかった中でああいった守備をやらかしてくれるのですから笑いが止まりません。

止まらないと言えば井口のアーチ攻勢もとどまるところを知らず、6月にして昨年の9本に迫る8号ですのでびっくら仰天です。
この5試合で4本目ですから井口に何が起きたのかと、しかも3安打1四球と出塁率10割ですので先日の途中交代が嘘のような大活躍です。
ただ本人の言葉を借りれば左肩の具合がよくないので変な空振りをしないようコンパクトに振り抜いている結果とのことで、それを意識してできるのであれば普段からやってくれとは余計な突っ込みではありますが、いずれにせよ今季は試合終盤にあっさりと代走などでベンチに引っ込むところを見れば万全な体調ではないのでしょう。
そうなれば周りがしっかりとサポートをすることが大切で、落ちそうで落ちないサブローや今江はともかくとしても大松はどうにかならないのかと、やはりここがウィークポイントです。
積極的に大松をスタメンで起用をするだけの理由が今はないだけに福浦が守れない状態であることは想像に難くなく、それであれば同じ守れないホワイトセルを昇格させて福浦には治癒を最優先とさせた方がよいのではないかと、このあたりの枠の使い方がどうにも気になります。
ちなみに注目をしていた今日のベンチ入りは香月でしたので、ローテーションの5席目は渡辺俊で回していくのでしょう。

そして今日になってようやく公示がされて細谷に代わって鈴木が一軍に初お目見えで、予告先発があるだけにもったいぶる必要性がない中での無為に過ごす日々をどう考えているのかに疑問は尽きませんが、いずれにせよ左打者が偏重気味だけに正直なところどうにも微妙さがあります。
もちろん球団史上初、とは言いながらも4人ですから一概に比較はできないものの、ルーキーの全員が一軍に顔を揃えるのは喜ばしいことこの上ありません。
ただ試合前の守備練習ではショートを守っていたことから心配をしていた井口のスタメン起用が分かってしまいましたし、そのプロ初出場も偶然の産物でした。
先頭の井口のツーベースで代走で出てくるかと思いきや一番手は早坂で、もし続くサブローがヒットを打たなければ代走の出番は無かったでしょうし、そうでなくとも井口の体調を考えれば代打で起用をしてもよかったのではないかと、鈴木にはこういった勝ち試合の流れの中でのプロ初打席をプレゼントしてあげたかったです。
また代打であれ代走であれ井口の代わりであればウィニングボールを手にして話題にもなったでしょうからあまりにもったいなく、おそらくは先日の7点リードを追いつかれたことでさらに臆病になってしまったのでしょうし、隣に座っていた中日ファンがしきりにそれを口にして折れそうな心を支えているようにも見えたのでその気持ちも分からないでもないのですが、何はともあれ意識をして選手を育てることを苦手とする西村監督らしさが大爆発の八回の攻撃でした。

最後は完全に余談ですが、今日はチーバくんが応援に駆けつけてくれました。
イラストで見ると不気味なチーバくんも着ぐるみになると思ったよりも可愛らしく、これはこれでありかもしれません。
明日は80%、70%、そして50%と徐々に降水確率が低くなりつつありますので試合は開催をされると思いますから、是非とも明日も応援にきて欲しいぐらいです。
数年前まではロッテキラーだった小笠原はイヤな感じがありますが中止ともなれば月曜日に山井がきそうですので、明日の唐川で2008年のリベンジを期待します。



  1 2 3 4 5 6 7 8 9

中日 

0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 3 1

千葉ロッテ

3 0 1 0 1 0 1 3 X 9 11

0


◆6月2日(土) 千葉ロッテ-中日3回戦(ロッテ2勝1分、13時、QVCマリン、29,425人)
▽勝 成瀬 10試合6勝2敗
▽敗 山内 9試合5勝2敗
▽本塁打 井口8号(山内)、里崎3号(久本)

▽バッテリー
千葉ロッテ 成瀬―里崎
中日 山内、久本、朝倉―谷繁、福田

 

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バキューン種子島 史跡巡り篇 種子島の巻

2012-06-02 03:48:39 | 日本史

 

これまでの苦労が何だったんだと思えるような快晴に恵まれた種子島はしかしレンタサイクルが出払っていたために、仕方なく自らの足が頼りの史跡巡りです。
時間の許す限り海岸線を走り抜こうと思っていただけに肩すかしではありましたが、歩いたことで久しぶりに土地の方と多く会話ができたのは意外な収穫でした。
暑さにぶっ倒れそうにもなりましたし逆光にも悩まされましたが、ちょっとだけ原点に帰ったような気がします。

まず最初に向かったのは種子島総合開発センターで、俗称は鉄砲館です。
かなりユニークな形をしていますが、どうやら火縄銃をもたらした南蛮船をイメージしているとのことです。
それなりの数の火縄銃が展示をされており、それが故の鉄砲館なのでしょう。
入口に撮影用の模造銃らしきものがありましたがかなり貧弱なもので、もっとずっしりとした重みのある本物を触ってみたかったのが本音です。

鉄砲館の裏手がトップの写真のとおりに種子島氏の居城だった赤尾木城跡で、その脇に種子島時堯像がありました。
種子島に火縄銃がもたらされたときの当主だった時堯らしく、左手にしっかりとその火縄銃を持っています。
もっとも父の恵時はまだ壮年で健在であり、火縄銃の普及に尽力をしたのは時堯よりもむしろ恵時との話もあるようです。

次に向かったのは月窓亭で、市の指定文化財です。
江戸期の種子島氏の当主は鹿児島城下に屋敷を構えて住していましたが、明治維新により行き場を失った守時を旧家臣が迎え入れたのがこの月窓亭でした。
元は家臣の羽生氏の屋敷でしたが羽生道則が東京に住居を移したことで種子島氏当主が在することとなり、今は赤尾木城文化伝承館として一般に公開をされています。
どこか自分の母方の祖父母の家に近い感じがあり、何とも懐かしい感じがありました。

この月窓亭の近くにあったのが石敢当で、ここだけではなく何カ所かで見かけました。
中国から伝わった魔除けの石塔で、沖縄でも見たような気がします。
道が突き当たる場所は邪気や殺気を受ける悪い場所と考えられており、真っ直ぐにしか進めない鬼が道の突き当たりにある屋敷に突入をすることがないよう魔を除くために置かれたものとは説明板の受け売りですが、言われてみれば確かにT字路の付け根にありました。

ぐるっと回って赤尾木城跡に向かう途中にあったのが内城跡で、種子島氏が赤尾木城に移る前の居城です。
時堯もここを本拠としていましたし、赤尾木城に移ったのは孫の忠時の代になってからです。
今は榕城中学校になっており城跡らしき痕跡は見当たらず、またさすがに中に入り込むわけにもいきませんので早々に撤退をしました。

そしてこちらが赤尾木城跡で、石垣が残っていますので城の雰囲気があります。
ただやはり城跡が榕城小学校となっていますので周りから眺めるのが精一杯で、しかしそれも仕方がないでしょう。
ちなみに内城からこの赤尾木城に居城を移したのですが、先の場所から100メートルも離れていませんので、この小移動にどういった意図があったかはよく分かりません。

本源寺は種子島氏の菩提寺で、時堯の曾祖父にあたる時氏が建立をしました。
種子島を律宗から法華宗に改宗をしたのもこの時氏で、かつては広大な寺領を誇っていたそうです。
ただ例によって明治の廃仏毀釈により廃寺となりましたが、その後に再興をされて現在に至っています。

栖林神社は時堯の玄孫の久基を祭神としています。
久基は琉球から甘藷、つまりはさつまいもを移入して栽培普及をさせたことから「からいもの神様」と呼ばれているそうです。
この甘藷も含めて殖産興業に力を入れた久基の遺徳を偲んで建立をされたのが、この栖林神社とのことでした。

栖林神社の脇にあるのが御拝塔墓地で、種子島氏の墓所となります。
そろそろ代数を書かないと説明が苦しくなってきましたが、本源寺を建立した11代の時氏が種子島氏の二番目の墓所としたのがこの御拝塔墓地です。
ただ不思議なことにその時氏の墓は見当たらず、12代の忠時から28代の時望までの当主とその室、そして一族の墓が整然と並んでいました。

江戸期に入ってからの当主はともかくとして、戦国期の当主も含めて整然と並んでいることからして改葬をされたか、あるいは供養塔のようなものではないかと思われます。
12代の忠時から16代の久時までの墓は右手奥に並んでおり、その中央が14代の時堯とはあまりに出来すぎているような気がします。
何にせよ戒名が読み取れないぐらいに劣化をしている墓石も少なくはなかったので、こうやって説明の杭が立っているのには助けられました。

12代の忠時は時氏の子で、13代の恵時はその子にあたります。
恵時は悪政を敷いたとも言われており、それを憂いた弟の時述が縁戚の禰寝氏と謀って一時は追い落としましたが、恵時は子である14代の時堯とともに反攻して和睦の際に譲り渡した屋久島を奪い返すという戦国乱世らしい戦いが繰り広げられました。
ちなみに種子島が他氏に侵されたのは、このときだけだそうです。
時堯の嫡男は15代の時次でしたが7歳で早世をしたため、次男の久時が16代を継ぎました。
この久時は武勇に秀でて朝鮮の役でも活躍をして、精強を誇った島津氏の中核を担ったのが久時の鉄砲隊との評価もされています。
17代の忠時は久時の子ですが12代と同名で、しかもその子が父と同名ですから整理をしないとかなりこんがらがります。
父の久時が没した後に生まれたことから家督を継いだものの島津氏の介入を許してしまい、この後は徐々に種子島氏としての独立性が失われていきました。
写真は上段左から忠時、恵時、時堯、時次、久時、忠時です。

18代の久時は母が島津忠恒の娘であったことから叔父である光久の加冠で元服をしており、以降は当主の通字が「時」から「久」に変わります。
その後は19代の久基、20代の久達、21代の久芳、22代の久照、23代の久道と続きましたが、しかし久道に継ぐ子がないままに37歳で没したために種子島氏は存続の危機に立たされてしまい、島津斉宣の次女である久道の正室の松寿院が島津氏から養子を迎えるまでの15年間を女当主として種子島氏を支えました。
ただこう聞くと美談のようにも思えますが種子島氏には家督を継ぐに足る一門、門葉はいたはずですので、どこか島津氏のごり押しのように思えなくもありません。
そして24代を継いだのは島津斉宣の子であり松寿院の異母弟にあたる久珍で、これで種子島氏の血脈は断たれたことになります。
25代は久珍の子の久尚が継いで明治を迎え、久尚の嫡男の時丸が26代となるも夭折をしたために次男の守時が27代となり、そして28代の時望と繋がります。
明治に入ってから通字が「時」に戻ったのが意味深で、これまでの当主も初名は久基が義時、久達が時春、久芳が包時、久照が庸時、久道が輔時、久珍が時珍と名乗っていただけに、島津氏の圧制下にあっても種子島氏の伝統は脈々と息づいていたと考えれば嬉しくもなってきます。
写真は上段左から久時、久基、久達、久芳、久照、久道、松寿院、久珍、久尚、時丸、守時、時望です。

一門としては13代の恵時の子で14代の時堯の弟の時式、時堯の子で15代の時次、16代の久時の弟の隆勝、19代の久基の子で20代の久達の兄の憲時、久達の子で21代の久芳の弟の始時、関係は不明ながらも没年が明治なのでおそらくは久尚に近い筋の時享の墓がありました。
その他にも当主の室の墓がありましたが、申し訳ないながらも興味外ですので割愛をします。
写真は左から時式、隆勝、憲時、始時、時享です。

左手前には初代の信基、そして9代の時長と10代の幡時の合同墓がありました。
さすがにこれは供養塔のようなものと思われ、開基である11代の時氏が家祖の信基と父である幡時、叔父の時長を弔ったものだと想像をします。
今さらですが種子島氏は平清盛の後裔を称しており、信基は清盛の孫で北条時政の養子になったとしています。
家紋が三つ鱗であるのもそれが理由なのでしょうが、しかし実際には北条氏の支流である名越氏の代官であった肥後氏がその出自であるようで、そうなれば血筋としては藤原氏となりますので平氏とも北条氏とも関係はなくなりますが、しかしこの程度の仮冒はさして珍しくもありません。
写真は左が信基、右が時長と幡時です。

八板金兵衛は刀鍛冶で、時堯の命で火縄銃の複製を手がけます。
その製造法を学ぶために娘をポルトガル人に嫁がせたとはあまりに有名な話で、どこか眉唾ですがそれを言っても詮無きことでしょう。
どちらが金兵衛かが分からなかったのですが、おそらくは左ではないかと思います。

先の御拝塔墓地は種子島氏の二番目の墓所でしたが、こちらが最初の墓地である御坊墓地です。
元は慈遠寺の敷地内にありましたが今は廃寺となっており、当主の墓を家臣20家の墓が囲んでいるとは例によって説明板の受け売りです。
かなり荒廃をしたのか墓石の刻字が薄れてどれが誰のものかが分からなくなったために、松寿院が整理をさせたとのことです。

初代から4代までは合祀をされており、初代の信基、2代の信式、3代の信真、4代の真時の墓がこれにあたります。
参り墓との説明がありましたが、やはり供養塔のようなものなのでしょう。
もし種子島氏の当主が空白の15年間のときのことであれば、松寿院には一族の求心力の拠り所にしたいとの思いがあったのかもしれません。

左の写真の右側が5代の時基、左側が6代の時充、右の写真が7代の頼時の墓です。
こちらはかすかに刻字が見て取れましたので、あるいは本墓かもしれません。
しかしこうなると8代の清時と11代の時氏の墓がどこにあるかが分からないのが惜しすぎで、初代から28代までのうちの欠けた2代が心残りです。

そしてここにも14代の時堯、16代の久時の墓があります。
火縄銃伝来の時堯と武勇名高い久時は、当時でも特別扱いをされたのでしょう。
写真は左から時堯、久時、そして19代の久基の子の時純です。

予定には無かったのですが近くにあるよとの案内板に誘われて足を運んだのが南蛮鉄砲撃ち始めの地で、しかしただの空き地でしかありませんでした。
初めて火縄銃の試し撃ちがされたのがこの場所らしいのですが、説明板があってもふーんといった感じです。
挙げ句の果てには売地の看板が立っている始末で、そうなると私有地ですから数年後には家が建っていてもおかしくはないのかなと、何とも微妙な感じがあります。

種子島の最後は若狭の墓です。
八板金兵衛の娘でポルトガル人に嫁いでシンガポールまでは行ったものの、異国の地での生活が合わずに日本に戻ってきたとのことです。
このあたりの話は諸説紛々で何を信じていいかは分かりませんが、全くの伝説ということもないのでしょう。
ただ刀鍛冶、転じて鉄砲鍛冶の娘が「わかさ姫」と姫様扱いとなっているのはどうかとも思いますし、どこぞのホテルの前にあった不細工な人形は勘弁をしてもらいたかったです。


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山は動かず

2012-06-01 23:17:18 | 千葉ロッテ

ロッテの公示は今日もありませんでした。
昨日に途中交代で心配をされた井口は軽症を強調していますので明日の試合でのスタメン出場は確実ですし、移動日があったことで中継ぎ陣も一息ついたと考えているのでしょう。
目に見えない蓄積疲労や小さな故障の積み重ねで調子を落としつつある選手がいると考えているだけに歯がゆさがありますが、まさに動かざること山の如しです。
まだペナントレースは1/3にも満たないわけですからこの気の張った状態でどこまで走り続けられるのか、また浦和組のモチベーションが心配にもなります。

そんな中で甲子園での実質的な連敗でイヤな流れになったところで立ちはだかれるのか、エース成瀬のピッチングに注目が集まります。
投げ合うのは名前では見劣りがする山内ですが今季は既に5勝で防御率は1.33ですから数字的にはむしろ成瀬を上回っており、真っ当にいけば苦戦は免れません。
アドバンテージがあるとすればQVCマリンで投げるのが公式戦では初めてですから強風に期待をしようかなと、ただしロッテ戦の登板も初めてですから初物を苦手にする傾向があるロッテ打線がそのアドバンテージを打ち消してしまうかもしれず、何はともあれ雨が降らないことを願うばかりです。

そしてさりげなく渡辺俊が飛ばされました。
これは成瀬と唐川の中6日を維持するためなのか、はたまた中継ぎへの転出なのかは微妙ですが、ウルトラCと先日に書いたほど後者はウルトラではないかもしれません。
暫くは投げられない香月を漫然と一軍に置いたことでの結果的にかもしれませんが、甲子園では2試合ともベンチ入りをしていた渡辺俊です。
ブルペンに入っていたかどうかは分かりませんが、ここのところはその日の先発以外は全て中継ぎと抑えしかベンチに入れていないロッテですので、万が一の場合は渡辺俊を突っ込む意志をベンチが持っていたであろうことに疑いの余地はありません。
ただこれが永続的なものか一時的なものかは、明日のベンチに入るのが渡辺俊なのか香月なのかで白黒がつきそうです。
いずれにせよ負け方が酷すぎたこの2試合でしたので、その流れを断ちきる勝ちっぷりを難敵の中日を相手に見せてくれることを願っています。
前回の対戦のときと同様に、舐めきった高木と木俣の鼻を明かしてやりましょう。

 

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