那賀川から徳島に戻り、まずは徳島城を訪れました。
徳島城は天守閣や櫓などの遺構は残されておらず、最初に訪れたときにはただの公園に過ぎませんでした。
その後は多少の整備がされて綺麗になってはいますが、往時の繁栄を思わせるものはありません。
それでも1989年に鷲の門が再建をされたことは喜ばしく、表御殿外郭の門であるために現在の城跡からちょっと離れたところにあるのですが、それなりの偉容を誇っています。
周りがコンクリートの地面となっているのは、場所が場所だけに仕方がないでしょう。
城の周りは堀と石垣に囲まれており、下乗橋や数寄屋橋などが架けられているのですが、そもそもこのあたりは表御殿や奥御殿といった平時の居住地の跡であり、天守閣があった場所からは離れた地となっています。
本丸や二の丸、三の丸があったのは現在の城山の辺りであり、城跡としての整備はされていないとのことでした。
城内には蜂須賀家政の像があります。
戦前は蜂須賀正勝の甲冑姿の像だったそうですが、戦時中に供出をされてしまい、戦後に作り直された際には藩祖ということで子の家政に取って代わられてしまいました。
同じく城内にある徳島城博物館です。
それなりの規模を誇る展示がされていますが、そもそも徳島城が戦国末期の築城であったために、私が興味のあるようなものが少なかったのは織り込み済みです。
蜂須賀家の墓所のある興源寺への行き方を、広域地図のコピーを取って教えてくれるなど、係の方にはとても親切にしていただきました。
その興源寺です。
徳島城からそれなりに離れており、迷うには充分ぐらいの距離がありましたが、いただいた地図のコピーとポータブルナビのおかげで無事に到着をすることができました。
墓所には歴代藩主の墓が整然と並んでおり、きちんとした整備がされているようです。
水辺もあってか親子連れの散策の地になっているようで、小さな子どもの歓声が響き渡っていました。
藩祖である蜂須賀家政の父、正勝の墓は別格なのか、ちょっと離れたところにあります。
蜂須賀正勝は豊臣秀吉が木下藤吉郎と名乗っていた頃から仕えており、蜂須賀小六の名の方が通りがよいかもしれません。
講談で盗賊のように描かれていることで豪傑のイメージがありますが、むしろ謀臣に近い役回りであったようです。
その正勝が秀吉から阿波一国を賜るものの、老齢を理由に子の家政に譲ったことで、徳島藩の藩祖は家政ということになります。
伊達政宗をして「阿波の古狸」と評されるほど父に劣らない老練な手腕を見せ、また豊臣家には忠誠心があったようで、関ヶ原の戦いでも西軍につくなど微妙な動きを見せます。
東軍が勝利したために家督を子の至鎮に譲って隠居をしますが、その至鎮が早世をしたことで孫の忠英を後見し、81歳まで生き抜くことになります。
家政の子の至鎮が、徳島藩の初代藩主です。
徳川家康の養女を正室に迎えていたこともあり、東軍として関ヶ原の戦いに臨むことになります。
その功績もあって淡路を加増されて25万石余の大封を得ますが、病弱であったために僅か35歳で世を去ります。
その後は忠英、光隆、綱通、綱矩、宗員、宗英、宗鎮、至央、重喜、治昭、斉昌、斉裕と続きますが、短命な藩主が多く途中で松平氏、佐竹氏から養子を取ったことで、現在の当主には正勝の血は流れておらず、斉裕が徳川11代将軍の家斉の子であることから、徳川将軍家に連なる一族となっています。
何だかちょっと残念と言ってしまうと失礼にあたるかとは思いますが、その思いは拭えません。
【2009年8月 四国の旅】
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でも、ほのぼのとした雰囲気は感じられました。
せっかく広大な敷地があるのですから、経済状況が好転をしたら櫓などの再建を検討して欲しいと思っています。