電脳筆写『 心超臨界 』

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単に変わりやすい先入観にすぎない
( マーク・トウェイン )

活眼 活学 《 自然に溶け入る衣食住――安岡正篤 》

2024-09-06 | 03-自己・信念・努力
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西洋の文化は、一つのものが限りなく自分を分化し、形をとって発現してゆこうとする特徴を持っております。これに対して、東洋文化は複雑な差別を統一して、なるべく内に含蓄しようという傾向を著しく持っております。これだけは否むに否めない両者の相違であります。


『活眼 活学』
( 安岡正篤、PHP研究所 (1988/06)、p60 )
[1] 活眼・活学
4 日本人の心

◆自然に溶け入る衣食住

「東は東、西は西」という有名なキップリングの詩の句がありますが、戦後科学技術の偉大な発達は、東も西もなく、世界を一つにしまして、平等化する傾向が著しくなりました。しかしまたその反面に、平等に即して差別もますます明瞭になってきております。西洋の文化は、一つのものが限りなく自分を分化し、形をとって発現してゆこうとする特徴を持っております。これに対して、東洋文化は複雑な差別を統一して、なるべく内に含蓄しようという傾向を著しく持っております。これだけは否むに否めない両者の相違であります。試みに我々の衣食住をとってみましても、そのことが明瞭に分かります。

まず我々日本人の衣服であります。昔から和服は、洋服が外に出て活動するものに便利にできておりますのに比べますと、融通性・統一性を持った、静かな生活、くつろいだ生活をするのにふさわしい。ですから、静かにしておる時には和服が最も便利であります。殊に審美的要素に富んでおる婦人の服装などを見ますと、東洋人、殊に日本人の服装は複雑な要素がよく統一されて、いろいろな要求が内に含蓄されております。元来衣服であるところへ、花鳥風月を優にゆかしく取り入れて、それに詩を加えたり、書を加えたり、あらゆる精神的・芸術的要素を統一して、それを着ておるというような特徴が、単調に倦んでおる西洋婦人の非常に憧れる点でもあります。しかし、一面において、日本婦人の服装ぐらい手数のかかるものはないということもできます。これはその弱点の方であります。

食物でもそうで、西洋の食物は、我々が活動するのに、即ち功利的あるいは合理的によくできております。何カロリーの熱量、蛋白質、含水炭素、脂肪云々。そういう栄養素をどれだけ含んでおるかというふうにできております。しかし、これはあくまでも食物であります。しかるに中国料理や日本料理を見て参りますと、食物が単に食物ではない。栄養素や熱量を摂るのみが目的ではない。中国料理を御覧になると分かりましょうが、いろいろ我々の純粋味覚の満足、あるいは精力の蓄積と、いわゆるエロやらグロやらの要求を統一して、そしてなお純化されておらぬところも見えないではありませんが、その複雑な要求がよく純化され統一されておるという点において、日本料理ほど発達したものは世界に珍しいのではないかと思います。

日本の食物は、人間肉体の栄養や熱量を摂取するばかりではなく、また味覚を満足せしめるばかりでなく、あるいは我々の精力を養ったり、病を治すもののみならず、食膳に大自然を再現する一つの芸術でもあるのです。箸を一つとりましても、箸によって木を味わう。木の持つところの、難しく言えば「朴」の哲理、人間の永遠性の原理というものを楽しむのであります。茶碗によって土を味わう。匙(さじ)に散蓮華(ちりれんげ)をしのぶ。従って、食うことも単なる食ではない。人格生活の一部分になっておるのであります。

お茶を一杯飲むにいたしましても、お茶は決して渇をいやすというような単なる生理的満足ではない。茶というものは、我々の精神生活に配する、人格的な深い要求を満たすということが、あの中に含まっておることは申すまでもありません。

従って茶道というようなものになって参りますと、実に幽玄なもので、その至れるに及んでは、例えば井伊家に伝わっておりますが、井伊直弼の好んで行ないました一期一会(いちごいちえ)という心得があります。一期一会とは、即ち一生涯にただ一度会うことかも知れぬという心情で、風炉の前に主客端座いたします。その時今生(こんじょう)においてこれ限りかも知れぬ、人命というものは朝霧の如きものである。朝会って、夕べは計ることができない。ここで会えばまた会うことは人間として必ずしも期することができない。今生にこれを限りと思う気持ちになる。そこで茶を点(た)てると、人間はふざけた心、雑念というものをことごとく脱落して、真心が表われる。その真心を重んじたのが、あの一期一会の有名な精神であります。こうなりますと、茶を飲むということは、物質的問題ではなくて、深遠な悟道の問題となるわけであります。こういう諦観が、日本の方では生活の中に限りなく含まってきております。

住宅もそうでありまして、西洋の住宅は、大自然の中からどうして人間の世界を分派し出すか、自然という混沌たる中から、人間の天地をはっきり派生するようにできております。ところが東洋、例えば日本の住宅の如き、これとは異なって、人間の住居をどうして自然に統一するかということを旨としております。これは東西の建築を見て参りますと明瞭であります。こちらの方は「引き寄せてむすべば柴の庵にてとくればもとの野原なりけり」、あるいは「とかねども、もとの野原」でありましょう。

最も人間の深い霊的要求による宗教的建築を見て参りましても、ヨーロッパの教会建築、インドシナの仏教建築、それから日本の神社建築を比較いたします時に、やはり民族性の本領の相違を明らかに看取することができます。先方は、どうして寺院の建築を人工的に荘厳ならしめるかということに苦心を極めておりますが、それがだんだん東洋的、殊に日本の神社建築になりますと、どうして人間の一切の綾(あや)、飾り、粉飾を去って、大自然に冥合するかというふうに苦心しております。神社建築は木と石と火であります。そのほか何もない。その極まるに及んでは、山そのもの、森そのものを神体とし、神社として拝み入るようにできております。『老子』『荘子』でよく知られておるその『荘子』の中に、「すでに彫し、すでに琢してまた朴に還る」とあります。あたかも神社建築などは、その代表的なものでありましょう。
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