電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

光秀は、百世ののちまで敬慕されるような志士的実績をこの地上に残したかった――司馬遼太郎さん

2013-03-22 | 04-歴史・文化・社会
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『国取り物語(三)』http://tinyurl.com/bkf5yzy
【 司馬遼太郎、新潮社(1971/12/22)、p269 】

光秀は、落葉を踏んで、琵琶湖の西の山岳地帯を、北へ北へと分け入っている。弘治2年の冬。

このとし、師父ともいうべき道三が戦死し、明智氏が没落し、光秀自身は浪人になりはてた。

(なんと多難な年であったことよ)

光秀はそれを思い、これを想(おも)えば、うたた、ぼうぜんたらざるをえない。

たれかをたよって主取(しゅど)りをすべきであろう。しかし乱世のことだ、凡庸の主には仕えたくはない。できればひろく天下を歩いて英傑の人をもとめ、その下に仕えて自分の運命をひらきたい。

が、――

光秀という男の情熱はそれだけを求めているのではない。武士としては史書や文学書を読みすぎている男は、たとえば諸葛孔明(しょかつこうめい)のような、たとえば文天祥(ぶんてんしょう)のような、そういう生涯(しょうがい)を欲した。かれらは王室の復興や防衛にすべての情熱をそそぎこみ、その生涯そのものが光芒燦然(こうぼうさんぜん)たる一編の詩と化している。

(諸葛孔明、文天祥をみよ)

と、光秀はおもうのだ。

(その名、そのものが、格調の高い詩のひびきをもっているのではないか。男とうまれた以上、そういう生涯をもつべきだ)

この男を、どう理解すればよいか。自分の生涯を詩にしたいという願望は、つまりそういう願望をもつ気質は――男のなかでは、志士的気質というべきであろう。明知十兵衛光秀は、自分がそういう気質の人間であることを、むろん気づいている。

だから単なる主取りやその意味での立身では満足しない。もっと緊張感のある、もっと壮大な、もっと碧落(へきらく)の高鳴りわたるような、そういう将来を夢見ていた。

(おれだけの男だ)

と、いう自負がある。

(単なる主取りを望むだけなら、千石、二千石の俸禄(ほうろく)ぐらいはたちどころに、ころがってくるだろう)

法螺(ほら)ではない。

この男のもっている技術のうち、火術だけでも十分に二千石の価値はあった。少年のころから道三が、「これからは鉄砲だ」

と言い、堺(さかい)から購入した鉄砲を光秀にあたえ、その術を練磨(れんま)させた。いまでは二十間を離れて、枝につるした木綿針を射ちとばすことさえできる。火薬の配合法はおろか、戦場における鉄砲隊の使用法など、この新兵器についてのあらゆる知識と抱負をもっている。具眼の大名があれば光秀のこと才能を一万台に評価しても損ないであろう。

そのほか、槍術(そうじゅつ)、剣術に長じ、さらに古今の軍書についての造詣(ぞうけい)、城の設計法(なわばりほう)など、どの一芸をとっても光秀ほどの者は、天下に十人とはないであろう。

そういう自信がある。

(そのおれを、安く売るれか)

と、いう気持ちもあるし、それだけの資質にうまれてきた以上、たかだか大名の夢をみるより為(な)しうべくんば、百世ののちまで敬慕されるような志士的実績をこの地上に残したかった。

その対象はないか。

つまり志士的情熱の。――

と、光秀は美濃を脱出して以来あれこれと想いをこの一点にひそめてきたが、ここに打ってつけの対象がある。

足利将軍家であった。

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