電脳筆写『 心超臨界 』

歴史を綴るインクの正体は
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( マーク・トウェイン )

◆真珠湾攻撃は米国の理不尽で無鉄砲な締め付けに対する日本の反撃の烽火(のろし)

2024-07-06 | 05-真相・背景・経緯
§2-2 戦争を仕掛けるのはいつもアメリカ
◆真珠湾攻撃は米国の理不尽で無鉄砲な締め付けに対する日本の反撃の烽火(のろし)であった


西進への米国の果てしない衝動は、他の西欧諸国とは異なる独特の、非合理的な熱病じみたものを感じさせる。満州へも、中国本体の中心部へも、思う存分介入できなかった米国は、とうとう最後に南方からの介入で、抵抗を一気に排除しにかかった。フィリピン、グアムを軍事拠点に、英国やオーストラリア、オランダとの合作により南太平洋を取り囲む日本包囲攻撃の陣形を組み、大陸への資本進出を実行する障害除去のための軍事力動員の道に突っ走った。かの真珠湾攻撃は、米国の理不尽で無鉄砲なこの締め付けに対する日本の反撃の烽火(のろし)であった。


〈米国の理不尽な締め付けに反撃〉
◎真珠湾攻撃70年の意味――西尾幹二教授

『国家の行方』
( 西尾幹二、産経新聞出版 (2020/2/3)、p274 )

                     平成23(2011) 年8月5日

大震災後初の終戦記念日に続いて、真珠湾攻撃70周年記念日(今年[平成23年]12月8日)が近づいている。

第2次世界大戦で米国はドイツを主要な敵と見立て、対日戦はそのための手段だったと見る説があるが、19世紀からの歴史を考えるとそんなことは全く言えない。欧州戦線で米軍は「助っ人」を演じ切ったが、太平洋戦線では「主役」そのものだった。昭和14(1939)年まで、日本は米英一体とは必ずしも考えていなかったのに、あっという間に米国が正面の敵となった。かねて狙っていた標的に襲いかかる勢いだった。

米国内にはドイツ系市民が多数いて、ドイツに対する米国の戦意の形成は大戦直前の短期間だったのに対し、日本に対する戦意の歴史は根が深く、ハワイ併合時の(1898年)にすでにあり、日露戦争後(1906年)に露骨に明確になった。日系市民の存在は、ドイツ系と違って、米国内の敵意の発生の場、人種感情の最もホットな温床であった。

19世紀前半に、米国はメキシコと大戦争をしている。テキサスを併合し、アリゾナ、コロラド、ネバダ、ユタ、ワイオミングの各州に当たる地域を奪取し、ニューメキシコとカリフォルニアを買収、この勢いは西海岸をはみ出して西へ西へと太平洋にせり出した。

南北戦争の内乱でしばし足踏みした後、明治維新を経た新興日本の急成長を横目に、米国はスペインと開戦してフィリピンを併合、用意していたハワイ併合も果たした。ハワイ併合に、大隈重信らが抗議してしつこく食い下がった日本外交の抵抗は知られていない。米国は余生を駆って、グアム、サモア、ウェークなどの島を相次いでわがものとした。日本にとっては、脅威そのものだった。

米国の西進というパワーの源には、非白人国家に文明をもたらすことを神から与えられた使命と考える身勝手な宗教的動機もあったが、英国、オランダ、フランスに加えてドイツまでもが太平洋に植民地を築き、中国大陸が西欧に籠絡されていることへの、遅れてきたものの焦りがあった。

興味深いのは、フィリピンやグアムなどの領有には武力行使をためらわなかった米国が中国大陸を目前にして方針を急に変えたことである。米国は、大陸に武力を用いるのに有効な時期を逸していることに気づいた。ロシアと英国が早くから中国に介入していたからである。米国は「門戸開放」を唱えだした。俺にも分け前を寄越せという露骨なサインである。米国はそこで、中国大陸への侵攻を目指して、北方、中央部、南方の3方向から順次、介入を試みた。

北方ではロシアが日本より先に満州を押さえ、朝鮮半島を狙っていた。そこで、米国はロシアを追い払うために日本を利用し、日露戦争で日本を応援して漁夫の利を得ようとしたが、誇り高い日本民族がこれを許さない。鉄道王ハリマンの野望は打ち砕かれた。それでも、米国は満州への経済進出の手をゆるめない。

〈 なぜ米国は日本と戦争したか問 〉

第1次大戦中に、アジア市場には日本の影響力が高まったので、米資本が進路を拡大するには武力に訴えたかったのだろうが、各国の力学が複雑に張り巡らされた大陸の情勢下では、それも難しく、米国は上海を中心とする中国の中央部に狙いを移し、文化事業、キリスト教の宣教などを手段とし、非軍事的方法で揺さ振りをかける道を選んだ。日中の離間を謀るさまざまな手が打たれた。米国はことごとく日本を敵視した。米国への中国人留学生迎え入れの予備校である精華学院などを創設、中国人の排日テロを背後から支援し続けた。キリスト教宣教師はしばしば反日スパイの役割を演じた。

西進への米国の果てしない衝動は、他の西欧諸国とは異なる独特の、非合理的な熱病じみたものを感じさせる。満州へも、中国本体の中心部へも、思う存分介入できなかった米国は、とうとう最後に南方からの介入で、抵抗を一気に排除しにかかった。フィリピン、グアムを軍事拠点に、英国やオーストラリア、オランダとの合作により南太平洋を取り囲む日本包囲攻撃の陣形を組み、大陸への資本進出を実行する障害除去のための軍事力動員の道に突っ走った。

かの真珠湾攻撃は、米国の理不尽で無鉄砲なこの締め付けに対する日本の反撃の烽火(のろし)であった。

日本人は戦後、なぜわれわれは米国と戦争する愚かな選択をしたのかと自己反省ばかりしてきた。しかし、なぜ米国は日本と戦争するという無法を犯したのかと、むしろ問うべきだった。米国の西進の野望を問い質すことが必要だった。西へ向かうこの熱病は近年、中国を飛び越え、アフガニスタンから中東イスラム圏にまで到達し、ドルの急落を招き、遂に大国としての黄昏(たそがれ)を迎えつつある。真珠湾攻撃は、70年間かけて一定の効果をあげたのである。
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