【 このブログはメルマガ「こころは超臨界」の資料編として機能しています 】
「国盗り物語(一)」
【 司馬遼太郎、新潮文庫、p346 】
「なにかまだ疑団(ぎだん)があるのかね」
「ございます。かりに、庄九郎様が将軍様におなりあそばしたとして、その御台所(みだいどころ)はどなたでございます。勘九郎様の奥様でございますか、それとも庄九郎様のお万阿がなるのでございますか」
「あっははは、これはむずかしいところだ」
「お万阿にとっては笑いごとではございませぬ」
「それもそうだ。わしはそこまで頭がまわらなんだ。一体、勘九郎が天下をとるのか、庄九郎が天下をとるのか、いずれにせよとったほうの奴(やつ)の女房が御台所になるだろう」
「だろう?」
お万阿は弱ってしまった。
「いや、そうなる。理の当然なことだ」
「でも、どちらが天下をお取りになるのでございましょう」
「あっははは、どちらがとるか、楽しみなことだな」
「わるいやつ」
「とは、どちらの男のことだ」
お万阿はもう、わけがわからない。しかし考えているうちにだんだん腹が立ってきた。
(なまじい、このひとは――)
と思うのだ。
(妙覚寺本山でむずかしい学問をなされたゆえにこういう化物のような人間になったのであろう。要するに勘九郎といい庄九郎といっても、下帯の下で息づいている大事なものは一つではないか)
そう思うと、ますます腹が立ってきて、そって手をのばし、いきなりそれを、ぎゅっとひねりあげた。
「あっ、痛い。なにをする」
「旦那様」
お万阿は、月の光のなかで微笑(わら)っている。
「いま痛い、とおっしゃったのは、庄九郎でございますか、勘九郎でございますか」
「お万阿」
庄九郎も負けていない。
ふとんの中から二つの掌(て)を出して、虚空(こくう)でひろげてみせた。
「この両の掌をみろ」
「はい、見ております」
「よし」
ぱん、と掌を博(う)った。
「聞こえたか」
「はい」
「さればどう聞こえた」
「ぱん、と。――」
「その音、右の掌の音か、左の掌の音か」
「…………」
またややこしいことをいう、とお万阿はこんどは心を引き緊(し)めている。
「どちらの音だ」
「右の掌?」
「と思えば右の掌じゃ。左の掌、と思えば左の掌じゃ。左右一如になって音を発している。これが仏法の真髄というものだ」
「不可思議な」
「そうそう不可思議な教えである。しかしながら真如(しんにょ)(宇宙の絶対唯一(ゆいいつ)の真理)とはこれしかない。さればお万阿」
「…………」
「返事をせい」
「はい」
気乗り薄に、返事をした。
「二つの掌が作ったこの音こそ真如とすれば、勘九郎、庄九郎を統一する者が一つある」
「それはどなたでございます」
お万阿は思わず真剣になった。
「音よ」
「え」
「左右の掌が博ち出した音よ。お万阿がしつこく御台所のことをいうなら、この絶対真理の音の御台所になればよい」
「音はどこにいます」
「虚空にいる。両掌をたたけば、虚空で音が生ずる」
「ではその音をお万阿の前にもってきて、お万阿を抱くように命じてください」
いかがでございます、とお万阿は詰め寄った。
「あっははは」
庄九郎は笑っている。
「なにがおかしいのです」
「音は屁(へ)のようなものだ。掴(つか)めはせぬ」
「そうでございましょう。それならばなぜそのような詭弁(へりくつ)を申されます」
「詭弁ではない。大事な仏法の真髄をわしは話している。まだわからぬのか。釈迦牟二仏(しゃかむにぶつ)でさえ、女人の済度(さいど)はむずかしい、女人はついに悟れぬものだ、とおおせられたのは当然なことであるな」
「まあ勝手な」
お万阿は怒ってしまった。
「お釈迦さまがそのようなことを申されたのございますか。そうとすれば、あまりに男だけに都合のいい理屈ではありませぬか」
「わからぬかなあ」
庄九郎は、ぽりっ、と奥歯で豆をくだき、
「音とは、譬(たと)えだ。方便で真理を説明したまでのことだ。真理は庄九郎の中にある。庄九郎はお万阿の亭主であると同時に、音である」
「音である?」
「統一体ということだ。勘九郎をふくめて一如の姿が庄九郎であり、同時に勘九郎の別体でもある。これは華厳経(けごんきょう)というむずかしい経典にかかれている論理だ。この論理がわかればサトリというものがひらける」
「お万阿に、華厳とやらで悟れと申されるのでございますか」
「そう。これを悟らせるために、はるばると三カ国の境を越えてもどってきた」
かなわない――。
とお万阿はおもうのである。
【 これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています 】
「国盗り物語(一)」
【 司馬遼太郎、新潮文庫、p346 】
「なにかまだ疑団(ぎだん)があるのかね」
「ございます。かりに、庄九郎様が将軍様におなりあそばしたとして、その御台所(みだいどころ)はどなたでございます。勘九郎様の奥様でございますか、それとも庄九郎様のお万阿がなるのでございますか」
「あっははは、これはむずかしいところだ」
「お万阿にとっては笑いごとではございませぬ」
「それもそうだ。わしはそこまで頭がまわらなんだ。一体、勘九郎が天下をとるのか、庄九郎が天下をとるのか、いずれにせよとったほうの奴(やつ)の女房が御台所になるだろう」
「だろう?」
お万阿は弱ってしまった。
「いや、そうなる。理の当然なことだ」
「でも、どちらが天下をお取りになるのでございましょう」
「あっははは、どちらがとるか、楽しみなことだな」
「わるいやつ」
「とは、どちらの男のことだ」
お万阿はもう、わけがわからない。しかし考えているうちにだんだん腹が立ってきた。
(なまじい、このひとは――)
と思うのだ。
(妙覚寺本山でむずかしい学問をなされたゆえにこういう化物のような人間になったのであろう。要するに勘九郎といい庄九郎といっても、下帯の下で息づいている大事なものは一つではないか)
そう思うと、ますます腹が立ってきて、そって手をのばし、いきなりそれを、ぎゅっとひねりあげた。
「あっ、痛い。なにをする」
「旦那様」
お万阿は、月の光のなかで微笑(わら)っている。
「いま痛い、とおっしゃったのは、庄九郎でございますか、勘九郎でございますか」
「お万阿」
庄九郎も負けていない。
ふとんの中から二つの掌(て)を出して、虚空(こくう)でひろげてみせた。
「この両の掌をみろ」
「はい、見ております」
「よし」
ぱん、と掌を博(う)った。
「聞こえたか」
「はい」
「さればどう聞こえた」
「ぱん、と。――」
「その音、右の掌の音か、左の掌の音か」
「…………」
またややこしいことをいう、とお万阿はこんどは心を引き緊(し)めている。
「どちらの音だ」
「右の掌?」
「と思えば右の掌じゃ。左の掌、と思えば左の掌じゃ。左右一如になって音を発している。これが仏法の真髄というものだ」
「不可思議な」
「そうそう不可思議な教えである。しかしながら真如(しんにょ)(宇宙の絶対唯一(ゆいいつ)の真理)とはこれしかない。さればお万阿」
「…………」
「返事をせい」
「はい」
気乗り薄に、返事をした。
「二つの掌が作ったこの音こそ真如とすれば、勘九郎、庄九郎を統一する者が一つある」
「それはどなたでございます」
お万阿は思わず真剣になった。
「音よ」
「え」
「左右の掌が博ち出した音よ。お万阿がしつこく御台所のことをいうなら、この絶対真理の音の御台所になればよい」
「音はどこにいます」
「虚空にいる。両掌をたたけば、虚空で音が生ずる」
「ではその音をお万阿の前にもってきて、お万阿を抱くように命じてください」
いかがでございます、とお万阿は詰め寄った。
「あっははは」
庄九郎は笑っている。
「なにがおかしいのです」
「音は屁(へ)のようなものだ。掴(つか)めはせぬ」
「そうでございましょう。それならばなぜそのような詭弁(へりくつ)を申されます」
「詭弁ではない。大事な仏法の真髄をわしは話している。まだわからぬのか。釈迦牟二仏(しゃかむにぶつ)でさえ、女人の済度(さいど)はむずかしい、女人はついに悟れぬものだ、とおおせられたのは当然なことであるな」
「まあ勝手な」
お万阿は怒ってしまった。
「お釈迦さまがそのようなことを申されたのございますか。そうとすれば、あまりに男だけに都合のいい理屈ではありませぬか」
「わからぬかなあ」
庄九郎は、ぽりっ、と奥歯で豆をくだき、
「音とは、譬(たと)えだ。方便で真理を説明したまでのことだ。真理は庄九郎の中にある。庄九郎はお万阿の亭主であると同時に、音である」
「音である?」
「統一体ということだ。勘九郎をふくめて一如の姿が庄九郎であり、同時に勘九郎の別体でもある。これは華厳経(けごんきょう)というむずかしい経典にかかれている論理だ。この論理がわかればサトリというものがひらける」
「お万阿に、華厳とやらで悟れと申されるのでございますか」
「そう。これを悟らせるために、はるばると三カ国の境を越えてもどってきた」
かなわない――。
とお万阿はおもうのである。
【 これらの記事を発想の起点にしてメルマガを発行しています 】