電脳筆写『 心超臨界 』

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( ジョン・ロック )

日本史 鎌倉編 《 揺れ動く朝鮮半島の政治状況——渡部昇一 》

2024-08-30 | 04-歴史・文化・社会
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義満のころに高麗王だった辛禑王(しんぐうおう)の在位14年の間に、実に400回ちかい倭寇の侵略があったという。平均すると毎月2回以上である。これでは、たまったものではない義満のところなどにも、頻々(ひんぴん)として倭寇の取締まりを願ってきているのだが、それはあまり効果なかった。都を遷(うつ)すという案もあったが、そんなことを考えているうちに高麗は滅亡し、李王朝が成立した。


『日本史から見た日本人 鎌倉編』
( 渡部昇一、祥伝社 (2000/02)、p209 )
3章 室町幕府――日本的美意識の成立
――政治的天才・義満(よしみつ)と政治的孤立者・義政(よしまさ)
  の遺(のこ)したもの
(2) 倭寇(わこう)――海外進出の基本的“行動様式”

◆揺れ動く朝鮮半島の政治状況

特に元寇によって、大陸の海軍が全滅したあとでは倭寇の一人舞台である。しかも元の大船によって刺激を受けた倭寇は、舟の大型化を行ない、馬まで積めるようにし、朝鮮のみならず、攻撃目標をシナ沿岸に及ぼし、さらに南洋にまで至るのである。

元の日本侵攻によって一番酷い目に遭ったのは朝鮮であり、そのことは井上靖の小説『風濤(ふうとう)』にも巧妙に描かれている。元のために国力が底をつくまで造船や補給の協力をさせられたうえに、その後は、倭寇にほとんど毎年、しかも1年に何回もの襲撃をうけることになったのである。『アングロ・サクソン年代記』にも似て、朝鮮の『東国通鑑(とうごくつがん)』は、倭寇襲来についての悲痛な記事に満ちている。

特に天授(てんじゅ)元年(1375)、日本の倭寇の頭(かしら)であった藤原経光(つねみつ)がせっかく朝鮮に帰順したのに、これを騙して殺そうとしたことがバレてからは、その報復がすごかった。

元来の襲撃目標は、第一に金銀財宝、それに船腹に余裕のあるときは年貢米を入れておく海岸の倉庫や、それを運ぶ船だったのに、この事件以後は、見つけしだい、女子どもをあまさず殺すようになったという。

そのため全羅(ぜんら)・慶尚(けいしょう)・楊広(ようこう)といった、いわゆる三南の沿岸地方は「蕭然(シュクゼン)トシテ一(イツ)ニ空(ムナ)シ」という状態になってしまった。倭寇の船団は、2、3隻のものから200隻、500隻に及んだという。どんな小さい船にせよ、1隻には10人以上、6、70人は乗っていたと考えられるから、数千から時としては万に近い人数が朝鮮海岸を荒らしまわったことになる。

義満のころに高麗王だった辛禑王(しんぐうおう)の在位14年の間に、実に400回ちかい倭寇の侵略があったという。平均すると毎月2回以上である。これでは、たまったものではない義満のところなどにも、頻々(ひんぴん)として倭寇の取締まりを願ってきているのだが、それはあまり効果なかった。都を遷(うつ)すという案もあったが、そんなことを考えているうちに高麗は滅亡し、李王朝が成立した。

李成桂(りせいけい)(のちの太祖(たいそ))は弱体な高麗末期にあって、しばしば武功があった。何しろ当時は紅巾(こうきん)の賊(元朝末期に反乱を起こした秘密結社のこと。紅巾を頭にまいたのでこの名がある。のちに、この中から朱元璋(しゅがんしょう)が出て、明を建国した)、女真(じょしん)人(ツングース族)、元の敗残軍に加えて、倭寇があったのだから大変である。

しかも当時は、元に対して明が勃興してきた時代であるのに、高麗王は判断を誤り、元を助けるために明の占領していた遼陽(りょうよう)を攻撃することに決定したのである。このとき、李成桂も遠征軍に加えられていたが、鴨緑江(おうりょくこう)近くまで進んだとき、その遠征の不可なることを悟り、軍を返して首都に入り、親元派を一掃するクーデターを起こして成功し、親明政策をとった。その後、自(みずか)ら王位に就いたのである。
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