電脳筆写『 心超臨界 』

人生は良いカードを手にすることではない
手持ちのカードで良いプレーをすることにあるのだ
ジョッシュ・ビリングス

「余計なことは言わない」は大事――曽野綾子

2024-03-19 | 03-自己・信念・努力
電脳筆写『心超臨界』へようこそ!
日本の歴史、伝統、文化を正しく学び次世代へつなぎたいと願っています。
20年間で約9千の記事を収めたブログは私の「人生ノート」になりました。
そのノートから少しずつ反芻学習することを日課にしています。
生涯学習にお付き合いいただき、ありがとうございます。

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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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私はまだ個人的に、離婚だの、喧嘩だので、訴訟を起こしたことはないのだが、国が関係している裁判の、証人として出廷したことはあった。旧軍の関わっている集団自決について取材し、書いたことがあるので、証人として呼び出されたのである。どういうものを厳密に誘導尋問と言うのかわからないが、その間、何度か会話の流れにそって「そうですね」と言わされそうな瞬間も感じたが、私は立ち止まった。ここは一家が集まって蜜柑を食べながら喋る団欒の場でもないし、クラス会の社交的なお喋りの時間でもない。だから「その点まではわかりません」「はっきりお答えはできません」で押し通した。


◆794 言葉の重さについて
「余計なことは言わない」は大事
( 曽野綾子の「透明な歳月の光」産経新聞H30.04.11 )

誰それがどう言った、実はこうだった、という話は通俗的な興味で世間の話題になることはわかるが、通常私たちにとってむずかしいのは、嘘をつき通すことである。

推理小説作家は頭がよくて、筋の伏線をよく配備し、そういえばあの犯人の影は「あの場面にもあった」と思い当たるように話を組み立てている。

しかし、素人のわれわれが、ある事実をごまかすために話を作ろうとすると、大体の場合、どこかで不備を残し、すぐ尻尾を出すような言いわけしかできない。

だから正直がいい。ほんとうの話をすることくらい楽なことはない。しかし人間は、よく嘘をつく動物らしい。人に対して嘘をつくだけでなく、自分に対しても嘘をつく。人のことはすぐ悪口を言うが、自分のことはなかなか見捨てない。

私はまだ個人的に、離婚だの、喧嘩だので、訴訟を起こしたことはないのだが、国が関係している裁判の、証人として出廷したことはあった。旧軍の関わっている集団自決について取材し、書いたことがあるので、証人として呼び出されたのである。

そんな体験の結果だが、法廷における私の仕事は、まことに楽なものであった。「緊張したでしょう」と言った人もいたが、本当のことだけを言えばいいのだから、こんな簡単なことはなかった。

どういうものを厳密に誘導尋問と言うのかわからないが、その間、何度か会話の流れにそって「そうですね」と言わされそうな瞬間も感じたが、私は立ち止まった。ここは一家が集まって蜜柑を食べながら喋る団欒の場でもないし、クラス会の社交的なお喋りの時間でもない。だから「その点まではわかりません」「はっきりお答えはできません」で押し通した。

人間的には、その場の空気に呑まれると、いい気分になって、不明確な部分まで証言しそうな心理がある。しかしその流れに対して立ち止まるのも、人間の義務なのだろう。

世の中の会話には、幾通りのものがある。それこそ口からでまかせを口にするのが楽しい時間もあれば、一言が重大な意味を持つ場合もある。

まだ文学修行中だった頃、私は「原稿用紙が電報用紙に見えるくらい、言葉を削らなければならない」と思いつめていた。今は電報などというものは見たこともない世代も増えたが、電報は普通カタカナで一字いくらという計算で料金を払う。携帯電話など見たこともなかった時代の典型的な電報は「チチシンダ、スグカエレ」とか「カネオクレ、イチロウ」などという文章であった。一字いくらだから、誰もが字数をけちる。その結果、文章からはいらない部分が削られるのである。

日本人である以上、少なくとも日本語を使いこなせねばならない。しかし今、コマーシャルの中でさえ、不正確な言葉が使われ、それが子供たちに自国語として覚えられることを思うと、時々悲しくなる。
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