植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

簡体三国志:諸葛亮

2010年11月27日 23時58分08秒 | ゲームシステム
所属:劉備
年齢:約19歳(200年の時)

 稀代の天才と言っても良い人物で、政治家・軍師としてだけでなく、発明家でもあり武器や輸送器具を考案したり、南征の際に現地の生贄の風習を改めさせるために代用品として饅頭を作った話もあります。
 しかし、若いときは戦乱を逃れて荊州で世捨て人の暮らしをしており、劉表が名士を優遇する人物だった為か仕官せずにいました。そんなおり友人の徐庶が劉備に諸葛亮のことを話したために、三顧の礼を持って迎えられることになります。一介の書生だった諸葛亮の元を左将軍だった劉備が3回も訪れたと言うのはちょっと諸葛亮の箔付けの気が少ししますが…

 諸葛亮は劉備と合うとまずは現在の劉備の置かれている状況を説明し、最終的に漢王朝再興を願うとしても、現状は北に曹操、東に孫権が割拠しているので、それに対抗できる第三勢力になることを目標とし、その具体的な方針として荊州・益州を領有することを勧めます。これが天下三分の計と言われる隆中策です。

 劉備と諸葛亮はこの方針に沿って、赤壁の戦いで第三勢力として孫権と同盟し、そして戦後は呉を退けて荊州の大半を所有。そして益州の劉璋を攻略し、順調に隆中策を実現していきます。そして、荊州・益州を足がかりとして、荊州から関羽が北上し洛陽を伺い、そして益州からは漢中を攻略し、そこから長安を伺い、漢王朝を再興する為に魏へ攻勢を仕掛けますが、呉が魏と手を組んだことにより、荊州を呉に奪われ荊州の要であった関羽を失ったことで、隆中策は頓挫します。

 そしてその後、劉備が病死すると、諸葛亮が丞相として蜀の実権を握って劉備の意思を継いで、魏への侵攻である北伐を幾度となく敢行するのです。しかし、成果を挙げることなく、五度目の北伐において五丈原で没してしましまいます。その死は過労とも言われ、細かい事務処理も一手に自身の手で行うほど異常なほど働いていたとされています。

 さて、相性を示すマークですが劉備とは合っていたのでしょうが、関羽などとは微妙な関係であり、また劉禅時代になって劉備の時代とは違った体制を築いていたことから、劉備・関羽などとは異なる□□としました。
 能力は、戦争に使用する統率は実は言われるほどではなかったと指摘があるとおり、1ランク落として4、武力は1、政治と知力のみ5としました。
 
コメント
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