植民地戦争+α

歴史テーマの中量級のボードゲームを制作し、ゲームマーケットに出展しています。
なので歴史とボドゲの話が多いです。

簡体三国志:劉備

2010年11月14日 20時54分27秒 | ゲームシステム
所属:独立→(公孫瓚)→(陶謙)→独立→(呂布)→(曹操)→(袁紹)→(劉表)→独立
年齢:39歳(200年の時)

 三国志の主人公の1人です。前漢の中山靖王劉勝の末裔と称していますが、単なる自称でそれを証明するものはありません。父が早く亡くなった為、家は貧乏で筵を織って生活していたと言うのは有名な話です。
 それでも地方豪族の家柄ですので、少しは財があった叔父の援助で、儒学者として有名な盧植の下で学問を学びます。ここで9歳年上の公孫瓚と仲が良くなります。ここで劉備は派手な服装で男伊達を気取り、豪侠と好んで交わったとありますから、かなりやんちゃで人気者だったようです。
 劉備23歳の時に黄巾の乱が起こり、知り合った関羽・張飛・簡雍・田豫らと共に義勇軍を結成し参加しその名を挙げ、その功により中山国安熹県の尉に任命されます。ここで関羽・張飛と知り合っているのですが、演義で語られる桃園の誓いは無かったようですが、ここから約30年寝食や生死を共にする仲となり、生まれた日は違えど、死ぬ日は一緒ということぐらいは言い交わしていたようです。ちなみにこの時から簡雍も苦楽を共にしているのですね。で、田豫の方は、後に劉備が公孫瓚を頼ったあたりで、公孫瓚の配下となり別れています。
 劉備の方は、公孫瓚の命令で曹操に攻められる陶謙の援軍に向かいます。ここで公孫瓚配下の趙雲が同行し、知り合うことになります。徐州 陶謙のところでは曹操軍を撤退させると、そのまま徐州に留まり陶謙が病死した後、徐州牧の地位を受けこの地を治めることになります。このときに糜竺や孫乾が配下となります。
 やっと領地を得たのも束の間、逃げ延びて来た呂布を招きいれた為に、その後裏切られ徐州を奪われてしまいます。それから劉備は、曹操・袁紹・劉表と言った群雄の下を渡り歩く流浪生活を余儀なくされます。
 そんな中、諸葛亮とめぐり合い、三顧の礼をもって配下にすることで、流浪生活に終止符を打ちます。諸葛亮の政略により、赤壁の戦いのドサクサに紛れて、荊州南部を占拠して再び本拠地を得ます。そして荊州を足がかりに蜀・益州を攻略し、諸葛亮が示した天下三分の計を実現します。
 さらに漢中を得て家臣の勧めにより、漢中王となり、曹丕が魏の皇帝になると、追って蜀漢の皇帝へと即位します。

 しかし、荊州の所有問題により、呉が魏と組んで荊州を守る関羽を攻め、関羽が討ち取られると、家臣の制止も聞かずに呉への復讐戦を開始します。この中で張飛も失い、劉備も陸遜に破れ、事後を諸葛亮に託して没します。時に劉備62歳、筵売りから皇帝にまでなった男の半生に幕が下りました。


 さて、まずマークですが、あちこち渡り歩いた都合、□□と揃えるよりも△□ぐらいの方が、あちこちを配下にしやすかったので、△□としました。これによって、公孫瓚△○、袁紹×△、劉表□○、劉璋□○とマークが1つは合うようになりました。
 また、諸葛亮の方を□□としたのは、蜀の政権が劉備時代と、諸葛亮時代とであきらかに異なっていた為にそうしました。一説には諸葛亮と劉備が水魚の交わりと言われるほどべったりではなかったと言う説もありましたし…

 さて能力は、あまり高くしませんでした。戦争はそれなりに死線を掻い潜ってきたのですが、如何せん負け戦が多く、一騎打ちもしていますが、勝利という訳ではありません。また政治も策謀も駄目ってことも無ければ優れている訳でもなかったので、3/3/3/3 としました。
 唯一、特殊能力として、戦争で負けても必ず逃げれているので、「戦争で死なない」をつけました。これで気軽に負け覚悟で戦争が行える利点があります。
 
コメント
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