ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「幸せ」を追い求めなくても「幸せ」

2015-12-30 09:01:30 | 精神世界
昨日はムスリムの人がなぜ豚肉を食べないのか?ということについて、ひょっとするとその理由についてはムスリムの人々はそんなに「なぜ?」について考えることなく、「コーランに書いてあることは守るだけ」と思っているに過ぎないのかも、それって少しわかるような気がする、というところで終わりました。
なぜ、それがわかるような気がするのかについて今日は書きたいと思います。(これはムスリムの人たちがコーランに書いてある内容についてはすべて受け入れあれこれ詮索することなどない、ということを前提にして書いていますが、その事実はわかりません。)



唐突ですが、誰もが幸せを求めて生きていますよね。
不幸であることが大好きとか、不幸を追い求めて私は生きています、という人はいらっしゃらないに違いありません。
ただ、そんなことはそんなに気にして生きていない、という方はいらっしゃるかもしれませんね。
実は私がそうでした。
それは私が、「幸せ」のイメージを、昔小坂明子という人の歌にありましたが、「部屋には古い暖炉があって、お花が飾ってあり、子犬を飼っており、ソファの私の横には常に愛している旦那さまがいるの~」(ちなみに歌詞のままではありません。)というような甘い甘いとろけるシュークリームのように描いていたからかもしれません。
で、「ケッ、そんなものが幸せなら私はいらねぇやい。」と思っていたからです。



私にとって「幸せ」とは「生きがいを感じて活き活きと生きていること」であり、では何に生きがいを感じるかといえば、そりゃあそれは自分の使命がわかってそれに打ちこんでいるということでしょう、と思っていました。
そしてさらに「使命」はといえば、たいていそれは「仕事」と直結しているものでしょう、と思っていました。(まれにそれから報酬を得て生活をまかなうというたぐいの場合ではないこともありましょうが、少なくともその人にとっての「ライフワーク」となるものでしょう、と思っていました。)
だから私は日々生きているなかで女の子っぽく「幸せになりたい」とか口にしたことはありません。
それは小さい頃からそうでした。



そして私は今、「幸せか?」と問われれば1も2もなく「幸せです。」と答える日々を送っています。
幸せになりたい、幸せだと感じている人ならこの状態が永遠につづくことを願って生きる。
けれど、悩みのない人生なんてない、ということももう誰もがわかっていることでしょう。
禅問答のようですが、悩みがなければ「何も悩むことがない」ということが悩みになってしまうのではないでしょうか。
今がとっても幸せだなぁ、と感じていらっしゃる人ならば「この幸せを失いたくない」という思いが恐れとなって悩みとなってしまうように。
お釈迦様は、この世での人の苦悩とは「生老病死」だと言いました。
それがもし聖書に書かれているように神の支配する楽園の王国の時代となりもはや人は死ぬことも老いることも病気になることもなくなったとしても、「生きる」ことの悩みだけは残されるわけです。
だから悩みはなくならない。
人間として生きている限り、どれだけ幸せであっても悩みはなくならないわけです。
つまり、どうしてもこうしてもその時に抱えている悩みによって心がざわつく時がある。
幸せであってもざわつく心を抱えているときがなくならない、というのは何だかイヤだな、と思いました。
悩みがあることが「不幸」なのかといえばそうとも思わないから、それはそれでよしとしても、ざわつく心を抱えてなんというかテンションというかバイオリズムというかがハイ&ローのジェットコースターみたいなのはイヤだな~と思いました。
たとえどんな悩みを抱えているときであっても、泰然自若として心ができるだけ安寧でいられる自分でいたい。
それにはどうしたらいいのか? それがここ2,3年での私のテーマだったような気もします。



そして今の私がそれについてどう考えているかといったら、心が安寧でいたいなら何か“絶対的な存在”に対して畏れを抱いて暮らしていく、ということを選択するのが良いのではないのかな、と思いました。
それが人によっては「信仰」ということでしょう。
なんとなぁくですが、人はこの世で生きているBeingとしての存在のなかで人間というものが一番出来が良くて一番エライんだ、と傲慢にならないためにも何かを“畏れて”“敬う”存在があるべきではないのか、と思うようになりました。
それは「相対的にみて」畏れたり、敬うべき存在というものではなく、「絶対的な」存在としてあるべきではないのか、と。
その存在の教えのままに生きていこうとすれば、人間って安寧な境地を得られるのではないかな、と思うようになりました。
いくら両親を尊敬している、自分の生き方の手本にしている、という人がいらっしゃったとしても、そのご両親も同じ人間ですから“絶対的な存在”ではない。
もっと“絶対的な存在”のもの・・・。
それが呼び方によって「神」となるのか、「宇宙の根源的エネルギー」となるのか、「創造者」となるのか、はたまたそれ以外の別の呼び方となるのか、それは私にとってはどうでもいいことです。
なにせ、そこから発せられる「こうしなさい」という教えについては「あ」も「う」もなく付き従うことができる、と心から思える存在のもの。



幼い頃に楽しくてはしゃぎまわっていると親に、
「道路の四つ角に来たら、どんなことがあっても一度立ち止まって左右を見なさい!」
とたしなめられると、せっかくの楽しい瞬間を邪魔されたような気分になって白けたり、そんな親を疎ましく思ったり、叱られている意味がわからなかったりしてむくれてしまうことがあったと思いますが、それらの教えは大人になった今、「あぁ、私の身の安全のために言ってくれていたのだな。」ということがわかります。
けれど、当時は「どんなときであっても一度立ち止まれ」としか言われなかったので、ただ意味もわからずにそれを守るしかなかった。
意味がわからないとそれを守ることが苦痛でもあったし、腹立たしいときもあった。
でも親という存在は必ず子どもである自分のためを思って言ってくれていることだけは信じられたから守ることができた。
“絶対的な存在”に付き従う、とはそういうことだと思うのです。
その教えをうっとおしいなー、意味わかんねぇなー、うざったいなーと思うときもあるかもしれないけれど、必ず自分のために言ってくれているのだと思えば悩みがなくならなくてもいつも安寧でいられる。
信仰ってそういうことかな、と今私は思っています。



たまたま今私は聖書を通読しようとしていますが、特定の宗教を指定して「これでなくては!」と推奨するつもりはありません。
人によって「神」と呼ぶ存在がどう呼ぼうが何であっても良いと思いますが、ただ、それを「人間の叡智の及ぶもっと向こうにあるものなんだなぁ。」というだけではなく、崇拝に価する存在として認識することが必要なようには思っています。
ムスリムの人たちが「豚肉を食べないのはなぜか?」ということについて、ひょっとしたら彼らはそんな理由などはどうでもよく「ただコーランにそう書いてあるから守るだけ」と思っているのかもしれないな、と思ったのはそういうわけです。
“絶対的な存在”が私たちのためを思って発している命令であることが信じられるから、そのときには「なぜ?」と思っても問いただすこともなく、ただ付き従い守ります、という行為。(それによって今、イスラム国のような過激なやからが生まれてしまっているではないか、と言われると、ですよねぇ・・と宗教の功罪を思わざるを得ませんが。イスラム教のことは勉強しておりませんので簡単には言えませんが、彼らはきっと自分たちでコーランを勝手な解釈で捻じ曲げているのだと思います。普通のイスラム教徒の人たちが彼らと一緒にされるのは迷惑だ、と言っているくらいなんですから。)
そういうものがあったほうが人間、ラクかもなぁ、と正直、思ったわけです。



もちろん神は私たち人間に「選択」の意志を与えて下さったわけですから、そんなのは私はイヤだ、と思う人がいてもその人を責めたりはしないでしょう。
けれど付き従うことを決めた人たちはそれが「信仰」ということなのかもしれませんね。
それによっていつも安寧な境地でいることができれば、「幸せとは?」「使命とは?」「生きがいとは?」と汲々としてギラギラとした目つきで言わなくてもよくなるような気がしています。
もちろん、それが「私にとってはこういうことなんだな」とわかることはステキなことですが、ことさらに追い求めなくても肩の力を抜いてリラックスして、そして自分を正して生きていれば自然と向こうからやってきたり、目の前にあることに気付いたりするものではないかな、と思っています。





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