ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「自己愛が強い」=「自己受容ができている」ではない

2019-08-27 09:01:06 | 精神世界
<neW !>

   「太陽の自分エクササイズ ~自己受容ヴァージョン~」
                          リリース!  
   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、こちらの「自己受容ヴァージョン」は自己受容に特化した凝縮版です。

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   是非こちらをご覧下さい。

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
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 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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今日は、タイトルのとおり、「自己愛が強い」ということは「自己受容ができている」ということではない、ということについて書きたいと思います。
もちろん、イコールの場合もありますよ。
しかし必ずしもそうでない場合もある、というお話しです。



昨日私は、自分がルィーズ・ヘイの「鏡のワーク」をしたときに、3歳の頃の自分の顔を思い浮かべて
「愛してるよ。可愛いね」
という言葉が言えなかった、と書きました。
けれどこれまでの自分の人生を振り返ってみた時、特別に「自分を受け容れることができていなかったから、ほんとうに困った」という思いを抱いたことはなかったのです。
幼稚園でたまたま選手宣誓をやらされてそれがすこぶる父兄の評判がよかったことに端を発して(このときはほんとうにあいうえお順で役割を決めて行ったら私にそういう役割が振り当てられたのか、どうしてそうなったのかは全く覚えがありません。別にそつなくそれをこなせそうだから選ばれた、ということではなかった、ということだけは確かです)、学童のときには学級委員をやり、生徒のときには生徒会の副会長をやり、常に立候補という形ではなく、押しだされるような形でなにかの役割をやってきました。
つまり、生徒たちみなの代表として何かする、ということに対してまったく違和感を抱かずに大人になったのですね。
そして大人になってからも会社では社長賞をとるなど、そういう役割は続いていきました。
私は、
“自分より先に他人から「わたし」という人間を認められることによって初めて自分を受け容れることができていた”人間だったのです。
だから自分で自分を受け容れられていない、ということに気付きにくかったのですね。
「どうやらあの子は仕事をこなし成果をあげるから優秀らしい」という眼で扱われることによって、その社会的役割をこなし、自分の存在価値に気付く・・。
この繰り返しでした。



では、逆に他人から認められない人はどうなっていくでしょう?
最近、連日話題になっていた「あおり運転」の容疑者を思い出してください。
宮崎容疑者という人は、大学までは快活で親も「優秀な子に育ってくれてよかった」と周囲にもらすほどの出来の良い子どもだったらしいです。
しかし就職をして、その会社と何か折り合いが悪かったのか、その会社ではたまたま宮崎容疑者の能力が発揮できなかった。
となったとき、挫折を味わったことのない彼はガラガラと崩壊していったようです。
それからはたまたま親の資産であったマンションの管理をすることによって羽振りもよかったようで、自分という人格ではなく、背後にお金をちらつかせることによって自分の価値を周囲に認めさせようとしてきたのではないでしょうか。
そしてそれもうまくいかなくなったとき、どうなるか・・?
異常に「自己愛」が強くなるのです。
「どうしてこんな優秀な俺を誰も認めないんだ!」
という反発が、せめて自分は自分を認めてやろう、俺は俺の優秀さを知っている、という形で異常な自己愛となるのですね。
もちろん、反対に「俺って実は優秀じゃなかったんだ・・」みたいに自分を卑下し、落ち込んでしまう人もいると思います。
その真逆の反応を見せた典型例が宮崎容疑者のような人だ、ということです。



過剰な自己愛はすべてをぶち壊します。
「わたしは正しい」
「わたしは能力がある」
といった強い思い込みは、周囲への不満や他人へのうらみ、社会に対する反発となっていくのです。
自己愛自体は本来、誰にでもあるものです。
自己愛自体がまったくない、という人はいません。
現在アメリカで1番人気のある精神分析論を編み出したコフートも、「自己愛のどこが悪い」という基本理念から出発しています。
それが悪いわけではなく、他人に認められないから自己愛が高まり、自分可愛さのあまり、他人に対する攻撃やわがままや身勝手なふるまいが昂じることが問題なのです。
「あおり運転」の宮崎容疑者はまさにそれを体現してくれた人だった、と思います。
そしてそんな彼をかくまったということで現在逮捕されている通称「ガラケー女」の喜本容疑者との関係も、お互いに唯一無二、自分を認めてくれる、という相手だったからこそ離れられなかったのではないでしょうか。
逮捕され、引き離されたあとのふたりはまるで別人のように良くも悪くもそれまで放っていた「気」を失っていましたものね。



以上で「自己愛」と「自分を受け容れている」ということとは別物だ、という説明になったでしょうか。
感情が安定していて「自己愛」に満たされている人は、たぶん「自己受容」も出来ている人です。
ただ順序が逆で、あまりにも対人関係が悪くなってしまったがゆえに、自分を愛してくれる人間はもはや自分しかいない、という状態になったときに異常に自己愛が高まるとそれは反作用として人を憎んだり攻撃的になったり、という行動としてあらわれるから、そういうものは違う、というお話しでした。



では、「自己愛」と「自己受容」が必ずしもイコールではない、ということはわかったけれども、あなたの人生何が問題だったの? と言われそうですよね。
私自身の生い立ちとして、小さいころから人に頼られるような役目を負ってきて、そして現実的にそれらをこなしてきた、という人間がかりに「私は自分自身を受け容れてこられなかったのか!」ということに気付いたからといって、何の問題があるの? ということについてです。
外側に現れている現象としては、たいてい何らかの役目を与えてもそつなく期待以上の成果をあげるよなぁ、とそれらをこなしてきて、本人としては疲弊してしまいました、ということでもありません。
それは自分を偽ってきたのだ、ほんとうはそんなに私って優秀じゃなかったのに、やりたくなかったのに、と言いたいわけでもありません。
では、何が問題なのか?
何も問題ではありません。
問題がある、とかこういうところを直さなくてはおまえは絶対に幸せにはなれないよ、ということではなくて、そこに気付いて認めてあげるだけで今よりさらにラクに自由になれるよ、ということだけなんです。
だから
「私も似たような人生だったな」とか「似たようなことを感じてきたことがあるな」という方で「このままでまったく満足しているし、より良くなんてことも求めていない」という方はそれでいいんです。
ただ私は、少しばかりの違和感をずっと抱いて生きてきました。
社会的な役割から解き放たれたときの自分には何が残っているんだろう?
何かしらちょっとした視点の違いで、パタパタとオセロの黒が白に変わるように私はもっとラクに生きられるのではないか、という思いがくすぶり続けていたのです。
それが探れないことにはこれまでずっと自己探求をしてきたことが意味をなさなくなってしまう、ここに目をつぶっておくわけにはいかない、みたいな。
そんな私がどうして「自己受容」ってやっぱり必要だなぁ、すべての根底と言っても良いよなぁ、と確信するに至ったかはまた明日お話ししたいと思います。


もし私と同じように、
「単なる自己愛とは違う、自分をほんとうに受け容れるという感覚が知りたい!」
と思う方は、是非冒頭でもご案内していますが、「太陽の自分コース ~自己受容ヴァージョン~」の案内を見てみて下さいね。
是非こちらをご覧下さい。



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