ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

「バリュー」講座に参加して  ~問題回避型のビリーフを取り除く~

2018-08-12 09:01:21 | ワークショップ

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さて、昨日はバリューに付随している信念を探った結果、色んな気付きを得た、という記事をUPしました。
そしてそのなかでも、「収入(お金)」に付随するビリーフのなかで
「なぜ“収入(お金)が重要なのか?」を自分に問いかけてみると、真っ先に
「ただ『時間』を身売りするような仕事をしても仕方がない(away from)」
というビリーフが現れ、これがちょっと答えとして唐突な感覚があるので、この中に隠されている私の原点は何か? そこにひそむマイナスの思い込みを手放したい、と思い、自分でもう少しこのビリーフのことを掘り下げてみることにしました。



NLPのタイムラインセラピーでは、まずはこのビリーフが形成された最初の出来事を特定します。
最初の出来事・・・ 根本的な原因・・・ 切り離せば問題が消えるような出来事はなんだろう・・・?
考えてみました。
わからない・・・
最初の出来事は思い浮かばなかったけれど、思い当ることと言えば、母がずっと
「いつも時間に追われているような気がする」
と言っていたことです。
それを言うときの母は、いつもイライラしており、かなり疲れた様子でした。
だから、時間に追われるような仕事が良い仕事のわけがない、と思っていたことは確かです。



そして、子どもの私にそんなことを言われても、どう返していいのかわかりませんでした。
「お母さん、毎日お店をやりながら私のための家事もごくろうさま。大変だねぇ」
とでも言ってあげれば母は溜飲を下げたのでしょうが、小さな子どもがそんな世間ズレしたようなことを言うわけもなく、そのうち私は
「子どもの私がどう返答していいのか困るようなことを投げかけてくる母はどうかしている!」
と腹を立てるようになりました。
そう言われるたびにイヤな気持ちになったものです。
すると次に母は、
「時間に追われ過ぎて、吐き気がするほど気持ち悪くなってきた。」
と身体の不調を訴えます。
そして、そんな不調な身体を抱えながらもやることはきちんとやり切り、頑張っているわたし、というのをアピールする作戦に入るわけです。



そしてそんなにも母がなぜ時間に追われる生活になるのか、と言えば、仕事が忙しいからです。
朝起きて私を学校に送り出し、洗濯などの家事を片づけてからは店の仕事のことばかり。
母と父はふたりで大衆食堂を経営していたので、店を掃除してから、買い物や仕入れに出かけ、そして下ごしらえをします。
そして、16:30には開店、23:00閉店、という毎日。(閉店時間は私が高校になる頃から21:30になりましたが)
「忙しい、忙しい」というのが口癖の人は商店をやっている人には多いのかもしれませんが、それでもその自分の仕事に誇りをもっていればともかく、父も母もまったくと言っていいほど自分たちの仕事に誇りなぞカケラも持っていませんでした。



口を開けば、
「俺たちのやっていることなんて、誰にでも出来る大した仕事じゃないんだから、お前はもっと上を目指せ」
「あ~ぁ、庶民がこんなに毎日たいへんな思いをして働いているというのに、政治家は汚職かよ。いったい稼いでいる奴っていうのはたいてい悪いことしてるやつばかりだよな」
「疲れた、疲れた」
こんな言葉ばかりを聞かされて育った私は、当然のことながら両親の仕事をまったく尊敬することができませんでした。
そしてひいては、
“毎日毎日、同じことばかりを繰り返すことになる仕事”
“疲れ切って泥のように眠るしかないほど、肉体を酷使する仕事”
を心のどこかでさげずむようになりました。
そして、
「稼いでいる人というのは多かれ少なかれ、税金をごまかすような悪事を働いている。」
と思うようになりました。
しかし、父の、政治家などが汚職をしているニュースをテレビで見ては
「稼いでいる奴っていうのはたいてい悪いことしてる」
という発言の裏には、それを羨ましいと思っているというニュアンスも感じていましたので、
「それを発覚しない程度に、法律すれすれのところでうまくごまかすことができればその人は賢い。」
という価値観も私の中で形成されました。



つまり、私は端的に言ってしまえば、
「職業には貴賤があると思って」いた、のです。
学校の道徳の授業などでは「職業には貴賤はない」と習い、そういうエピソードも紹介され、うん、そのとおりだ、と頭では思っても、その裏では私は、
「頭脳を使うようなデスクワークや研究職のような仕事でないと仕事は意味がない。
肉体労働は割が合わない。損だ。ルーティン的な仕事にも、毎日時間に追われるばかりでやりがいはない」
と「頭脳を使う仕事」=エライ、「肉体労働」=社会の日陰者、という図式を作り上げたのでした。



そして、さらには「頭脳を使う仕事は高収入のはず」というビリーフも形成しました。
それ自体のビリーフは悪いことでもなんでもないとは思いますが、その裏には「肉体労働」や「ルーティンワーク」(=つまり、作業的な、頭を使わないけれど時間を切り売りするような仕事)をバカにするビリーフがあるわけですからタチが悪い。
それは父が
「お前は俺たちのようにはなるな」
という自分たちを反面教師とせよ、と教え込んだので、私はそれを素直に受け取ったわけです。



「頭脳を使う高収入の仕事」は、人々の尊敬を集め、「あなたでないとこの仕事はできない」と言われる仕事のはずだ、と思いました。
それは、自分から「どうですか、この仕事はいりまへんか~」などと売り込まなくても、引く手あまたの仕事のはず。
だから売り込みは嫌い。
自分自身を売り込んだり、自分がやっている仕事を売り込んだりしなくては生きていけないような仕事はみっともない、だってそれは「自分は求められていない」ということの証明だもの、と思うようになりました。
実際、私が大学を出てはじめて就職したときの会社では、「商品企画室」という部署に配属され、それはとてもやりがいを感じるものでした。
次に「マーケティング」に異動になったときも、仕事の流れからいって、川上、つまり最初の源流のような仕事であり、ここが情報を発信しないと、あとのすべては回っていかないでしょう、という仕事でしたので、やっぱりとてもやりがいを感じていました。
“求められている仕事”だと思っていたからです。



それから私は会社を辞め、独立し、“売り込まなくてはいけない”立場となりました。
でも、やっぱり「売り込む」ということは苦手だし、あまりしたくはないことでした。
必要な情報を提供することはできます。
けれど、営業の極意ってよく「断られてからが本当の勝負」なんて言い方をしたりするじゃないですか。
そんなマネはとてもできない、と思いました。
私は、その人が判断できるだけの情報は提供する。
それに対して、その人が「必要ない」という判断をした。
はい、そうですか、それはあなたのご決断ですものね、その先に私が土足で立ち入るようなことは致しません、というのがお互いを尊重し合う人間の姿だ、と思ってしまうわけです。



親は「自分たちのような職業なんて選ぶな」と言いました。
そして私はそう言われたとおり、親の店を継ぐつもりなんてみじんもありませんでした。
そして就職した会社では、ある程度シンクタンクのような部署に配属されて満足でした。
「頭を使った仕事は、人々の尊敬を集め、売り込まなくてもいくらでも仕事に困らない、つまり収入に困らない仕事」のはずでした。
しかし、独立して私は売り込まなくてはいけない立場となった。
売り込まなくてはいけないということは、黙ってても望まれるような仕事ではないわけだ・・
望まれなければ仕事はなく、そうなると当然収入にも枯渇する。



親の仕事は売り込む必要のない仕事でした。
ある程度人通りのある立地で価格を抑えて提供する大衆食堂だったからです。
あれほど、“時間に対して自らの肉体を身売りするかのような仕事”を忌み嫌い、頭脳を使う仕事をしようとした結果、売り込まなくてはならなくなった。
あんなにバカにしていた親の仕事なのに、親の仕事のほうが売り込む必要のない仕事だった。
なんなんだ、この空虚感・・・ 
親の仕事を冷めた目で見ていた私ですが、親自身も私も「こんな仕事なんて・・・」と思っていた親の仕事のほうが売り込まなくても毎日どんどんお客さんは来て、食べていくのには困るようなことがない。
私はずっと否定してきた親の仕事をどう位置付けていいのかわからなくなり、もやもやとしました。
尊敬するような仕事をしていないはずだった親の仕事。
けれど、現実にはそんな親の成果にとどかない自分がいる。



私はここから進めませんでした。
NLPのタイムラインセラピーでは、ペアを組んだ1人が、退行催眠のようなかたちで、根源となる原因、最初の出来事がなんであったかがわかった人を導いていきます。
でもワークショップではそこまで行う時間がなかったため、私はとりあえず1人でその根源に行き当たることまではできました。
けれど、ここからどうしたらいいのかわからない・・
なので、ひとまず私が今抱いているビリーフとは真逆の言葉をかたっぱしからつくってみました。

「売り込んだっていいんだよ。」
「売り込むことに罪悪感を覚える必要は何もない。」
「売り込んでもいいし、売り込まなくてもいいし、それはどちらでもいい」
「売り込むことが必要な仕事だからといって、それが『自分は求められていない』仕事だ、ということにはならない」
「ただ待っているだけでは全然引き合いがない仕事は = 求められていない というわけではない」
「時間に追われるような仕事だって、やりがいを感じることはできる」
「人々の尊敬を集めるのは、その人自身がいかに自分の仕事に対してやりがいを感じているか、貢献を感じているかであり、頭を使った仕事だから、肉体を使った仕事だからで分類する必要はない。それはおまえが小さい頃に受けた人からの受け売りの価値観だから、もうそれは捨てていい」

なんだか少しスッキリしました。
マインド(思考)では、この考え方でいいのだ、という気がします。
ただ、まだこのマインドに対して完全に心が一致する、というところまではいかない。
行動も一致しないだろう。
そんな地点にいるのが今の私って感じかな~



そしてもし、私の両親がこのワークをやったらどうなるだろう?と考えました。
彼らの中に作られたビリーフの中で大きいものは間違いなく「戦争体験」です。
ただ生きるため、生き延びるためだけに、人間は大変な思いをしなくてはならない。
そしてその状態からほんの少し世の中が上向きになってくると、今度は“要領のいい奴”“法律ぎりぎりくらいのところで汚いことをする奴”たちが得をするようになる。
自分たちのようにただクソ真面目に安価な食べ物を提供し続けるしかなかった仕事についた者はなんだか割を食ったような、損をしたような気持ちにさせられる。
悪事に手を染めるわけではなく、うまく世の中渡っていくには、やっぱり頭を使う仕事につくのが1番だ。
自分たちのような思いを子どもにはさせたくない。
だから子供にはずっと
「俺たちのようにはなるなよ。もっと頭を使う仕事に就けよ」
と言い続けよう。
-----ってまぁ、こんな感じかな。
そしてついでにこのビリーフもひっくり返してみれば、
「今の日本は高度成長期ではないんだから、もう肉体労働よりは頭脳を使う仕事のほうが割がいい、などと考える必要はない」
「ただ、自分が打ち込めてやりがいを感じる好きなことをやればいいだけのこと」
「情熱を感じて打ち込める仕事が1番幸せ」



そうだ!
だからぐるぐるしちゃったけど、私は自分自身が仕事のジャンルで「情熱」を第一位に位置づけ、その後矛盾した価値観として「パートナーの協力・賛同」との葛藤を統合した結果、「魂の喜び」としたことが、やっぱりすべてだったんだ!と思いました。
これら一連のワークはとても面白いと思いました。
やってみるだけの価値はあると思います。





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