ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

若者に贈る言葉

2011-01-15 09:02:00 | 身辺雑事

先日の祝日は成人の日でしたね。

新成人のみなさま、おめでとうございます。

今年は去年とは違って、成人の日に暴れたとか、無礼な行いをした、というようなニュースが流れないので、全国各地でも穏やかな成人式がいとなまれたようですね。

よかった、よかった。


テレビで成人が映し出されるのを見ては、女子の場合「みんな、振袖着てるんだなぁ。」と思いました。

それも、肩にファーのショールを羽織っている様子まで皆、一様。

ヘアスタイルも似ている。髪飾りも似ている・・

一時、華美な振袖出席はやめようと働きかけた自治体もあったようですが、またそんな話も聞かないようになり・・ 今は、横並びな感じで皆さん、振袖を着てらっしゃる方が多いようにお見受けしました。

それがいけない、ということではなく。

ふと私が感慨深く思ったのは、自分の成人式のときのことです。

私は俗に「クロワッサン世代」と呼ばれ、人とは違ったことをしたい、人とは違ったように見えたい、という世代でしたので(世代の問題ではなく、おまえ、個人の性格だろうが、という声は無視し・・)、私は振袖を着ませんでした。

親は買ってやろうか、と言ったのですが、どうせお金を出してもらうなら、一生のうちに数えるほどしか着ない振袖でなく、もっと毎日のように使用できるものがいいと思った私は、毛皮のコートをねだりました。(私のハタチの頃には、振袖のレンタルというものはなかったので、買うか着ないか、だったのです。)


毛皮といっても、これまた「毛皮着てますぅ!」というのも嫌だったので、私は、表地がスエードで、内側がファーになっているコートを買ってもらいました。

外に毛が出ててもなんともならんだろーと思ったので、内側が毛になっていて温かいものは、実質をとるタイプの私のお眼鏡にかなったのでした。(外側がファーのコートより安かったし)

それでも、振袖を買ってもらうよりはうんと安い買い物で済んだので、どうだ、私は親孝行だろうってなもんで鼻息荒かったわん。(とんでもない勘違いですけどね。第一、ハタチやそこいらの娘っ子が毛皮だなんて分不相応ですわよね。)


そうして私はくりんくりんにかけたアフロのようなヘアスタイルをオキシドールでふいてヘアダイした髪で、毛皮のコートを着て、成人式に出かけたのでした。(もちろん、当時からヘアカラー剤はありましたよ。けれど、学生でお金もないし、健康でさして髪も痛まないタイプだったので、友人がオキシドールをしみこませた綿で髪をふけば、茶髪になるよ、と言ったのを受け、そのとおりにしていたのでした。)

振袖を着ていない女子はほとんどいなくて、私は自分が少数派でいられたことに大満足でした。

・・・しかし、このときの写真は汚点ですね~

ヤンキーなんだかお笑いの漫才師なんだかわけのわからないへんてこりんな私がたいして笑顔でもなく写っている成人式の写真。

不気味ですわ~

とんがっていたいことを主張してるんだか、笑ってもらいたいんだかわけがわからん。

ま、そんなことはさておき。

そんな風変わりな格好をしてでも人とは違った格好をしていたい、と思った私に比べて、今の新成人は、逆にみんなから離れたくない、みんなとほぼ同じように見えていたい、ということに汲々としているように見えました。

そして、たまたまテレビで昨年ノーベル化学賞をとった方が「次世代をになう若者にメッセージを」と記者に言われ、「若者よ、海外へ出なさい。」と言っているのを見て、何かがピンときました。

私がハタチの頃に、ちょうど小田実さんという方が書かれた「なんでも見てやろう」という本がベストセラーとなり、たいそう話題になりました。

私は何が話題になってるんだ!?ということを自分の目で確かめたくて、この本を読みました。

私が本を読んだときには、ちょっともうブームが終焉になっていて外れていた、ということもあり、その本に書かれていることがさほど新鮮には感じませんでした。

ようするに、若くしてエネルギーをもてあましていた筆者が何でもこの目で確かめてやろう、と海外のあちこちに出かけて感じたことを書いた旅行記でした。

本当にその筆者と同じ目線で、「へぇ~! アメリカってこう言うところがあるんだぁ。」「アメリカ人はこういうときにこうするんだぁ。」という新鮮な驚きを感じられないとつまらない、といういわば賞味期限付きの本のように思えました。

しかし、当時その本がそれだけ新鮮に感じられるというくらい、情報社会は整備されていなくて、実際にその地に行った人の意見にまさるものはない、という時代だったのです。

だからこそ、自分の目で確かめなくちゃ、という時代でした。

しかし、今はどうでしょう。

情報だけで言えば、瞬時にしてインターネットで調べられます。

「こういう事件をアメリカではどんな反応として受け取っているんだろう?」ということが調べたければ、ものの1時間後にはその人はその分野での大家になっているでしょう。

どこに出かけなくても、リアルな映像もネットで見ることができます。

現場に行かなければ感じられない空気感とか、情報というものもそれは確かにあるでしょう。

けれど、微差であることを問わなければ、たいていのものは手に入ってしまう。

そしてひとり自分の部屋でそれだけのことを調べた、ということについて他人との差を推し量ることはできません。

小田実さんのように、「どうだ。おれは○○カ国回ったぞ。たいていの俺と同じ年齢の若者より、俺は多くのものを見ているだろう、知っているだろう。」ということができなくなったのです。


そういう意味で、今の若者は可愛そうだな、と思いました。

自分の立ち位置がよくわからないからです。

「ナンバーワンにならなくてもいい。もっともっと特別なオンリーワン」というあのセリフを私はナンバーワンの立ち位置を知ったうえで、あえてあぁ、それなら私はナンバーワンでなくてもいいわ、ここいらで。その代わり、このことに関してはオンリーワンになりたいものだ、というように推し量る世代です。

そして、「世界にひとつだけの花」が流行った当時も、人もそのように考えてこの歌を聴いているのだろう、と思い込んでいました。

でも、きっと今の若者は違うのでしょうね。

ナンバーワンそのものの立ち位置も知らない。最初から自分がどんな立ち位置にいるかもわからない。だからこそ、もう、最初から人と比較なんてしなくてもいい、というように受け取っているのでしょう。

オンリーワンの立ち位置を最初から人といっさい比較せずに決められる人というのはそうそういないと思います。

ある程度「あぁ、あの人はあそこか。じゃあ、私はこのくらいでいいな。」とか距離感を測って決めることによって安心感を得たい。

でもそうしたくても、人の立ち位置の情報がわからないから、シャドーボクシングしているようなもの。そんなことで無意味な焦りを感じるくらいなら、最初から人と比較したり、勝負したりということは放棄しよう、ということでしょう。

競争や比較というと、今の時代はいけないことのように思いがちですが、競争や比較があるからこそ、「もっとよりよく」という気持ちも生まれるでしょうし、初めて自分の立ち位置を確認できる、という良さもあるでしょう。

それが最初から否定されたような中に置かれているから、今の若者は気の毒だ、と思いました。

だから、ノーベル化学者の「若者よ、もっと海外へ行け。」も、なんだか空回りして聞こえました。小田実の再来のようなことを今の時代に言われても・・みたいな。

私と同じような世代以前の人が言ってることだよなぁ、っていう感じで。

少なくとも、目指すものがあるなら、同じものを目指す仲間と一緒に語り合うために、そして一度自分の立ち位置を確認するために、仲間を求めてさまようための旅に出てみるのはよいのではないでしょうか。

それからそれらの仲間との距離感を推し量って、そこから抜け出て、オンリーワンの道を行くのを決めても遅くはないのではないか、と思うのです。




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