ちょいスピでセラピー的なKizukiの日々

色んな世の中の出来事、セラピーなどから気付きを得て、ありのままの自分に還ることを目指して生きてます。

ゲートキーパー講演会に出て

2019-08-24 09:01:29 | 身辺雑事
<neW 告知!>

    1か月以内に
      「太陽の自分エクササイズ 凝縮ヴァージョン」
                          をリリースします!

  「太陽の自分エクササイズ」はこちら→

   「自己受容」「自己表現」を網羅した、「This is Meと言える自分になる」 太陽の自分エクササイズ。
   それに対して、凝縮版は徹底的に自己受容について深く落とし込みます。
   

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<今後のワークショップ予定>


「色で暮らしを彩る講座」   
場所:ヒーリングサロン「些々羅」 岐阜市
STEP1 募集中!  参加費:¥15000(税込)
      ※どこで、を問わず、色について学んだことがある人は自己申告により参加費が半額になります。
[内容]
 ・色からのメッセージ
 ・色の性質
 ・その色を使ってどんなことが可能になるの? ~五感を使って色を取り入れる~
 座学というより、楽しいワークショップ形式で自然に色のメッセージを自分に取り入れましょう!

STEP2(※STEP2はSTEP1を受講した人のみ受けることができます) ¥20000
8/26(月)  10:00~15:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席

STEP3(※STEP3はSTEP1,2を受講した人のみ受けることができます) ¥30000
9/11(水)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
9/14(土)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり) 満席
10/11(金)  10:00~17:00(※ランチ休憩1時間あり)  満席 
 お問い合わせは、 chakra@aura-soma.name まで

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岐阜市が主催する「ゲートキーパー講演会」に行ってきました。
「ゲートキーパー」とは、ゲートを守る人、そのゲートって何の? と言えば、自殺の、です。
自殺を考えている人に踏みとどまらせるための門番になる、ってことですね。
ちなみにスピリチュアルの世界では、蝶のことを「ゲートキーパー」と呼んだりすることがあります。
黄泉の国と現世との門番、という意味で。
今回は、具体的にこの世での自殺を踏みとどまらせる人、の意味のゲートキーパーです。



「広報ぎふ」でこの講演会があるとわかったとき、どうして申し込んだのか、今となってはそのときの自分の決断がはかりかねます。
というのは、昔から私は「セラピスト」として、自殺を考えるほど重症な方のお手伝いはちょっと自分には無理だ、と思って来たからです。
生半可な知識や「癒してあげたい」なんて甘い決意のレベルでは到底手におえない、ということの一端を見た思いのときもありました。
だからこれはおいそれと踏み込んでいい世界ではない、相当な覚悟と正しい知識をもって臨まねば、と思っているのにどうして申し込んでしまったのか・・
たぶん、その一歩も二歩も手前のレベルの話で何か参考になれば、という程度の軽い気持ちだったんでしょうね・・ そのときは。



そして会場である「メディアコスモス」の「考えるスタジオ」に入っていって驚きました。
100人には達していないだろうけれども、ゆうに50人を超える人たちがすでに集まっていました。
この講演会は無料でしたし、市がやることですから、なるべく大勢の人たちに集まってもらわないと、と一生懸命PRに力を入れたということもないでしょう。
市が発行する広報誌に熱心に目を通した人たちだけが知った、というレベルだと思われます。
それでもこれだけ集まるなんて。
こんなにも自殺を食い止めることに興味を抱いている人たちがいらっしゃる・・彼らはどういう人々なのだろう? と思いました。
さて、そして講演が始まりました。
おふたりの方が約1時間ずつを受け持たれて講演をされました。
おひとりは大学の教授、おひとりは病院でカウンセラーをやっておられる臨床心理士の方でした。



こういうセミナーや講座に参加すると、どんなものであっても、1つや2つは
「そうだったのか!」
と何かしら発見があったりするものですが、今回の講演会は正直、楽しくなかったです。
それはおふたりの演者のせいではありません。
何がこんなにも楽しくないんだろう・・と講演の間じゅう、そのことをつらつらと考えていました。
そしてわかりました。
ごく事務的に淡々と行われ過ぎだ、という感じがあったからです。
それは市の主催だからでしょう。
こういう行政が主催のものって、たぶん、年間計画に基づいて担当者がこれぞ、と思う人選をして、その人のところに講演をお願いしにいくのですよね。
けれど、担当者である彼ら自身はそのテーマに熱い気持ちがあるわけではない。
ただもっと上から降りてきたものを仕事としてお願いしにあがるだけ。
だからその熱意のなさが演者にも伝染してしまっているのだな、と思いました。
大学の教授の講演は、あぁ、いつも生徒にこういう授業をしているのだろうな、という教科書通りの授業を聞いているような感じでしたし、病院カウンセラーの方のものは、これまでにご自身が行ってきたカウンセリングの事例でしたが、特段「ほぉ! そういうこともあるのか!」という事例でもなく、淡々と流しました、という感じでした。



「ゲートキーパーとは悩みや問題を抱えている人がいることに“気付き”、“声をかけ”、彼らの話に“耳を傾け”、専門家に“つなぎ”、“見守る”人のことです」
なんて通り一遍のことを言われたって、具体的にはどうすればいいのかさっぱりわかりません。
自分の家族や友人ならいつもとは違う変化に“気付く”ことぐらいはできるかもしれませんが、それ以外の人たちの様子に気付くってどうしたらできるのでしょう?
“声をかけ”って言ったって、警察じゃないんですから、街でいきなり声なんてかけられませんよ。
話に“耳を傾ける”にしても、鬱や自殺を考えているほどの人には安易にかけてはいけない言葉ってあるじゃないですか。
それを知らずしてほんの一言のあいづちくらいのつもりのものが、決定的にその人の絶望感を煽ってしまったなんてことになってしまったら・・・と思うと恐くてそんなこともできません。
だからあなたたちには専門的な知識はなくてもいいんだよ、専門家に“つなぐ”ことをしてください、そして“見守ってください”と言われても、それもねぇ・・
見守る、って具体的にはどうすることなの? 
「何もせず見ている」こととどう違うの? って思ってしまう。
これらのどれか1つに対してでもいい、これは具体的にはこういうことですよ、という話があればまだ納得できたかもしれないけれど、そういう話はありませんでした。



大学の教授のお話しは、若年層の自殺者に限った話でした。
ちなみに自殺者の総数自体は減っているんだそうです。
ただ、不登校の数、虐待は増えているからその芽は増えている、ということになるというわけですね。
ではどんな年代に自殺者が多いか、というと70代だそうです。
私はこちらの方に胸が締め付けられる思いがしました。
70代で絶望した人にどんな希望を与えてあげることができるのか・・ と言われたら、こちらの方がずっと深刻だ、という気がしたからです。
若者はその気になればいくらでもまだ道を切り開いていくことができると思うけれども、身体は衰えていくばかり、年金生活で身体もままならなければこれから収入をどう頑張ったって増やすすべもない・・
平均寿命からいったらあと10年は生きることになる。
あと10年、どうやって生きて行けばいいというんだ? という彼らの心にどう寄り添えばいいというのか。
そんな年代の彼らが絶望を感じているとしたら、
「頑張ればこの先、いいことあるかもしれないしね」
なんて言えるわけもないし。
これは若年層、70代に限定したことではないですが、自殺を考える人というのは、「死にたい」というより「生きていてもいいのかな」とか「生きていてもしょうがない」という考え方なんだそうです。
ゆるやかなセルフネグレクトですね。
子どもがわかりやすい不良少年になるほうがまだしも更生しやすい、というのとおなじように「死にたい」と激しく渇望する人は、その理由をなんとか取り除くか和らげてあげられないだろうか、と考えられるかもしれないけれども、「死にたいって積極的に思う気力もない」ような人にどう勇気づけてあげたらいいのか途方にくれることでしょう。



1つだけ考えさせられたのは、病院でカウンセリングをやってらっしゃる方がこういう事例を話されたときのことです。
「あるとき、何にもしゃべらない人がカウンセリングにくることになったの。
その男性は『いま、何か困ってることない?』とか、『最近、楽しいことあった?』とか聞いても『別に』とか『ない』とか短い答えを返すのみで、まったくしゃべらないんです。でも、不思議に2週間に1度のカウンセリングにはきちんきちんとやってきました。
私は、彼の予約が入っていると気が重くなりました。あぁ、また何もしゃべらないんだろうなぁ、40分、50分がとても長く感じるだろうなぁ、と思うと逃げ出したくなりました。そして彼もあれだけ何もしゃべらないのに、どうして来るんだろう? と思いました。
でも、あるときこう思ったんです。
『別に』とか『ない』とかのたったこれだけの言葉でも、彼はこれまで他人と会話として話したことはなかったんじゃないかな、って。
そして『別に』とか『ない』と話したあとの彼の沈黙は、彼が自分自身と対話をする唯一の時間だったのではないか、って。」



ふつう「別に」とか「ない」とかのぶっきらぼうな答えが子どもから返ってくるのを聞きなれている親なぞは、その言葉からは「拒否」を感じることでしょう。
「めんどくせぇな」
「どうせ話したっておまえにはわからないんだよ」
というような心の叫び。
けれど、ずっと何十年もいじめや虐待にあって人と話してこず、勤めてからも人と話すような仕事ではなく、こつこつと作業に励むような工場であれば、そういう人にとっては「別に」や「ない」などのぶっきらぼうな言葉さえ、人とつながっていることを実感できる大切な言葉であり、相手を拒否するための言葉でもなんでもなかったのか、という気付きは衝撃的でした。
私たちは話しているとつい沈黙を恐れます。
けれど、沈黙はクライアントが自分とのおしゃべりに忙しい時間かもしれないのです。
それを恐れずに待ってあげることは必要だよな、ということは常々言い聞かせているのですが、改めてそれを思いました。




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