団塊的“It's me”

喜寿老(きじゅろう77歳)の道草随筆 月・水・金の週と火・木の週交互に投稿。土日祭日休み

辞世問題 宗教②

2007年06月16日 | Weblog
 “神学にはほとんど絶望している医療伝道団のようなものだった。神が何の助けの手も差し伸べてくれないことは承知で、それを決して口に出さずに、二人はただ目前の一人の赤子の命を救うことに専念する。イボ族の5万人の幼児の命を助けるために、雨を降らすことなど神は考えたこともないのだ。”トマス・ハリス著 『ハンニバル・下』P.266常日頃私が考えていることをハリスが書いてくれている。

 他人と良い関係を保ちたいなら、宗教、政治の話を持ち出すなという。私も今まではそうしてきた。これは独り言である。ヒンズー教、キリスト教(セルビア正教、ロシア正教、プロテスタント、カトリック)、イスラム教の国々で暮らした。どの宗教に対してもこれが本物だと暮らしの中で思ったことがない。これこそ本物、全てを捨てて帰依しても良いと、人びとを観察して思ったこともない。今自分の心にあることは、もし神がいるならば、現存するどの宗教の神にもあてはまらない全てから超越した、自然そのもののような神だと考える。イラクのシーア派とスンニ派の争いは、同人種、同宗教、同国人の間であることが悲しい。人間が愚かであって、神は神聖かつ絶対な存在である、人を見るな、神を仰げと、多くの宗教関係者は言う。私は素直に「本当だろうか?」と疑問に思う。これだけ多くの異なる宗教があり、皆自分のところこそ絶対真実であるという。真実はひとつしかない。外れた宗教を信じた人は、どうなるのか? 

 高校生のとき、キリスト教の洗礼を受けた。それがきっかけでカナダの全寮制のキリスト教の高校へ留学した。絶望することばかりだった。ひどい人種差別を経験した。厳格なキリスト教の学校であれだけの差別があったのだから、一般社会でのそれはもっと偏見に充ち、過酷であろう。日本と何等変わらない。自分の心に“あらゆる差別の芽”があるのをよく知っている。それはいつでも芽を伸ばす用意が整っている。教養知性でしかそれを押さえ込んでおくことはできない。そのタガを外せば、いつだって『自分以外はみんなバカ』の嫌な自分に戻ることができる。

 30代前半まで宗教から距離をおいて暮らした。最初の結婚の破綻をきっかけに、仏教に傾倒して坐禅を2年間続けた。静かに黙して自分に向き合うスタイルが気に入った。宗教というより、自己修練だったと思う。

 団塊世代は時間ができたら、自ら宗教探求をしてみるのも良い。相手に折伏されるのでなく、自ら寺、教会、神社の門をたたき、ゆっくり話を聞いてみる、体験してみるのもひとつの方法である。しかし最近の宗教は、なぜか忙しない。即断即決を強要されるようだ。選挙の票集めではあるまいに。 

 私は二人の子連れで再婚した。そして妻の海外転勤を期に自分の事業から身をひいて、主夫に転身した。波乱万丈、自滅的、自己憐憫から脱出でき、何もなかったかのような平凡な生活を今はしている。死に直面した大病を患った。宗教の真実をつかめぬまま辞世する確率は非常に高い。触らぬ神に祟りなし、が正直な今の心境である。他人の宗教の自由を認める。私の自由も認めて、私を放っておいて欲しい。電話、訪問、駅前での宗教の勧誘、強要、選挙投票依頼は謹んでお断りしている。

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