巣窟日誌

お仕事と研究と私的出来事

オイルショックの思い出:紙も洗剤も砂糖も醤油も…

2004-06-15 18:35:25 | 日記・エッセイ・コラム
原油価格が高騰している。また石油危機が来るのだろうか。

あのときのパニックはもうごめんだ。だからこのあたりで、1973年の第一次オイルショックのときに、国内で起こったことを書いておこう。第4次中東戦争を契機として、原油価格が高騰したことに端を発する、あの一連の騒動のことだ。これから書くのは、当時のわたしの周囲で起こった出来事なので、品不足の様子については、地域によって多少違いがあるだろう。
 
中学生だったわたしが覚えているのは、ひたすら「いろいろなものが店頭からなくなった」ということだ。

まず、石油使用そのものを節約するために、日本国中が節電に走った。繁華街の街燈は半分以上が消され、テレビも毎日の放送を夜12時で終了した。

当時、公立の学校の暖房は、石炭から石油へ切り替わりつつあるときで、わたしの通った中学では、石油ストーブに切り替わったばかりだった。石油危機のために、冬の1日の各クラスへの灯油の割り当ては、1時間半燃やせる分だけだった。朝のショートホームルームでは、どの時間帯に何分石油ストーブを燃やすかが、毎日話し合われた。「今日は2時間目に体育があるので、着替え終わるまで少し燃やしてほしい」「体育の授業の後は皆暖かいはずだから、ストーブは燃やさなくてよい」といった具合だった。

物不足感と売り惜しみから、いろいろなものが品不足になった。皆が買いだめに走ったのである。ガソリン、灯油などの石油関連製品はともかく、紙、砂糖、洗剤、醤油などが次々に店頭から消えた。

洗濯用洗剤が店頭から消え、全員がマルセル石鹸や粉石けんに走った結果、それも店頭からなくなってしまった。スーパーの店頭に「○月○日に粉石けんがXX箱入荷する予定です」との張り紙が出さると、主婦たちはその日には早くから行列を作った。台所用洗剤の代わりに、クレンザーでごしごしと食器を洗った。

砂糖はスーパーの棚から一斉に消えた後、少し色の付いた三温糖が少しばかり出回ったが、あいかわらず上白糖やグラニュー糖はなかった。

中学生として一番困ったのは、紙不足だった。ある日を境に、トイレットペーパーだけではなく、すべての紙がなくなってしまったのだ。ノート類が消えたと思うと、紙の質が悪く、以前より枚数の少ないノートが、以前の倍以上の値段で売られるようになった。

もちろん、学校のトイレットペーパーもなくなった。価格が一挙に4倍になったために、学校の予算ではまかなえなくなってしまったのだ。学校の掲示板には「学校はトイレットペーパーを買えなくなってしまったので、家から紙をもってきてほしい」という趣旨の張り紙が出されたが、家でもティッシュやちり紙が手に入りにくい状態なので、どうしようもなかった。

トイレットペーパー等の紙が消えたあとしばらくして、質が悪い黒っぽいちり紙が出回った。このちり紙の厚さは、オイルショック前のちり紙の半分ぐらいだった。

子供たちにとってショックだったことのひとつは、ある日突然漫画雑誌が、ページ数は半分近くに、そして価格が1.5倍ぐらいになってしまったことだ。週刊少女フレンド等、毎週発行していた漫画雑誌数誌は、ここを契機として月二回刊に切り替わりはじめ、それは現在に至っている。

漫画雑誌がこのような状態だから、通常の書籍の値段も高騰した。書籍や辞書の中には、定価が印刷されていないものが出てきた。紙の価格に連動して、いつでも値上げできるようにとの備えだった。

主婦たちは「○○がなくなるらしい」「駅前のスーパーで、明日XXが入荷するらしい」というクチコミの噂にいちいち踊らされ、一方子供たちは、ノートの各行の罫線の間にもう1本罫線を引いて1ページのノートの行数を増やし、そこに小さな字をかいて、ノートの節約をしたりした。

今となっては半分笑い話みたいな出来事だったが、あの時はみんなが、そんなことに必死に対処していたのだ。本当は、そんなに品物は不足していなかったのに。