
「リミッツ・オブ・コントロール」を吉祥寺バウスシアターで見ました。
この映画の監督であるジム・ジャームッシュの作品について、初期の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を見ていいなと思い、その後も「ブロークン・フラワーズ」とか「コーヒー&シガレッツ」を見たりしていましたので、この映画もぜひ見てみたいものだと思っていました。
この映画のストーリーはすこぶる単純で、殺し屋の主人公が、スペインに飛んで依頼通りに人を殺すというだけのものです。そればかりか、殺される人物がいる場所にまで主人公の辿り着く過程が、繰り返し延々と、それも動きと言葉を極端に抑制して描かれているために、見る人によっては頗る退屈な映画になると思われます。
ですが、この「繰り返し」という点は、「ブロークン・フラワーズ」でもおなじみの手法(「コーヒー&シガレッツ」も、ある意味では同じ手法と言えるでしょう)なので、彼の作品を見ている人にとってはそれほど違和感がないのかもしれません。
とはいえ、まず主人公が喫茶店でエスプレッソを2つ頼み、そこに組織からの指令を伝える連絡役の人物が現れて何事か話をし、最後に指令書の入ったマッチを交換して別れるというシーンが、連絡役の人物を様々に変えながらも、しつこいくらい繰り返されるのです!
こうなると、数次にわたる連絡の積み重ねの末に実行される殺人は、さぞかしすごいことになるのではと観客も身構えるようになります。ですが、その殺人自体は頗る簡潔に描かれます(たとえようもなく警戒が厳重な住居に、どうやって主人公が侵入できたのかという誰でも興味を持つ点は、ナント省略されてしまっています!)。
これでは、見ている方は大いに肩透かしを食らった感じを持ちます。ですが逆に、そんなことを期待すべきではなかったのかもしれないと思い直して、むしろ、そこに至る過程を反芻するようになります。
この映画には様々の連絡役が登場しますが、どうも主人公がマドリッドにある美術館で見た絵に関係しているように描かれているな〔たとえば、ギターが描かれている絵を見ると、そのあとでギターを抱えた連絡役が登場します〕、ただそうだとしても、主人公が興味を持つ絵画は前もって決められてはいないでしょうから、それと組織からの指令とが直接的に連接するとは考えられないし、どうもそんなに理詰めで考えても仕方のない作品なのかもしれない、これはこれでそのまま素直に受け止めればいいのかもしれない、ですが仮にそうだとしても、この作品はいったい何なのだ、と考えてしまいます。
ここまでくると、あとは評論家諸氏の出番となるでしょう。
ただ、福本次郎氏は、例によって「結局、男の彷徨を通じて何が言いたかったのかほとんどわからなかった。「想像力を使え」というのがこの作品のテーマなのは確かだが、……、どんな解釈もなりたつ展開は、「中心も端もない宇宙」のごとくとらえどころのない茫洋としたものだった」と、相変わらず自分では考えようとせず、評論家としての仕事を放棄してしまいます。
これに対して、渡まち子氏は、「映画は論文ではないのですべてを説明する必要はない。語られない部分に対して想像力を刺激してくれれば、その作品は十分に魅力がある。ジャームッシュのこの新作はまさにそんな1本だ」と想像力の活性化を提唱します。
渡氏は、まさに評論家の仕事をしようとしています。ただ、その姿勢は買うものの、「刺激」を受けた結果どうなったのかは示してはくれません。
〔ここでこんなに想像力のことを持ち上げるのであれば、渡氏は、どうして「プール」についてはその力を発揮しなかったのでしょうか?やはり、ジャームッシュという名前に惹かれてしまうとしか考えられないところです〕
最後に山口拓朗氏ですが、「受け身で見ている限り、この映画を見たことにはならない。想像力を使うことで何かが見えてくる、いや、想像力を使わなければ、何一つ見えてこないぞ、というメッセージである」と述べており、非常に前向きなので期待を持たせます。ところが、何が見えてくるのか山口氏も明らかにはしません。ただ「自分自身の未開の感性や想像力を掘り起こしたいという人にとっては、何かしらのインスピレーションを与えてくれるだろう」ということです。
そうであれば、結局のところ、明示できないものの“何かしらのインスピレーション”があったと納得できるかどうかが、この映画を高く評価するかどうかの分かれ目となるのでしょう。
といって、何かインスピレーションを受け取ることは、そんなに難しくはないでしょう。あの「おすぎ」までもが、「ストーリーは頭に入ってこなくても、なんとなく大好きになっている映画」と述べているくらいなのですから!
この映画の監督であるジム・ジャームッシュの作品について、初期の「ストレンジャー・ザン・パラダイス」を見ていいなと思い、その後も「ブロークン・フラワーズ」とか「コーヒー&シガレッツ」を見たりしていましたので、この映画もぜひ見てみたいものだと思っていました。
この映画のストーリーはすこぶる単純で、殺し屋の主人公が、スペインに飛んで依頼通りに人を殺すというだけのものです。そればかりか、殺される人物がいる場所にまで主人公の辿り着く過程が、繰り返し延々と、それも動きと言葉を極端に抑制して描かれているために、見る人によっては頗る退屈な映画になると思われます。
ですが、この「繰り返し」という点は、「ブロークン・フラワーズ」でもおなじみの手法(「コーヒー&シガレッツ」も、ある意味では同じ手法と言えるでしょう)なので、彼の作品を見ている人にとってはそれほど違和感がないのかもしれません。
とはいえ、まず主人公が喫茶店でエスプレッソを2つ頼み、そこに組織からの指令を伝える連絡役の人物が現れて何事か話をし、最後に指令書の入ったマッチを交換して別れるというシーンが、連絡役の人物を様々に変えながらも、しつこいくらい繰り返されるのです!
こうなると、数次にわたる連絡の積み重ねの末に実行される殺人は、さぞかしすごいことになるのではと観客も身構えるようになります。ですが、その殺人自体は頗る簡潔に描かれます(たとえようもなく警戒が厳重な住居に、どうやって主人公が侵入できたのかという誰でも興味を持つ点は、ナント省略されてしまっています!)。
これでは、見ている方は大いに肩透かしを食らった感じを持ちます。ですが逆に、そんなことを期待すべきではなかったのかもしれないと思い直して、むしろ、そこに至る過程を反芻するようになります。
この映画には様々の連絡役が登場しますが、どうも主人公がマドリッドにある美術館で見た絵に関係しているように描かれているな〔たとえば、ギターが描かれている絵を見ると、そのあとでギターを抱えた連絡役が登場します〕、ただそうだとしても、主人公が興味を持つ絵画は前もって決められてはいないでしょうから、それと組織からの指令とが直接的に連接するとは考えられないし、どうもそんなに理詰めで考えても仕方のない作品なのかもしれない、これはこれでそのまま素直に受け止めればいいのかもしれない、ですが仮にそうだとしても、この作品はいったい何なのだ、と考えてしまいます。
ここまでくると、あとは評論家諸氏の出番となるでしょう。
ただ、福本次郎氏は、例によって「結局、男の彷徨を通じて何が言いたかったのかほとんどわからなかった。「想像力を使え」というのがこの作品のテーマなのは確かだが、……、どんな解釈もなりたつ展開は、「中心も端もない宇宙」のごとくとらえどころのない茫洋としたものだった」と、相変わらず自分では考えようとせず、評論家としての仕事を放棄してしまいます。
これに対して、渡まち子氏は、「映画は論文ではないのですべてを説明する必要はない。語られない部分に対して想像力を刺激してくれれば、その作品は十分に魅力がある。ジャームッシュのこの新作はまさにそんな1本だ」と想像力の活性化を提唱します。
渡氏は、まさに評論家の仕事をしようとしています。ただ、その姿勢は買うものの、「刺激」を受けた結果どうなったのかは示してはくれません。
〔ここでこんなに想像力のことを持ち上げるのであれば、渡氏は、どうして「プール」についてはその力を発揮しなかったのでしょうか?やはり、ジャームッシュという名前に惹かれてしまうとしか考えられないところです〕
最後に山口拓朗氏ですが、「受け身で見ている限り、この映画を見たことにはならない。想像力を使うことで何かが見えてくる、いや、想像力を使わなければ、何一つ見えてこないぞ、というメッセージである」と述べており、非常に前向きなので期待を持たせます。ところが、何が見えてくるのか山口氏も明らかにはしません。ただ「自分自身の未開の感性や想像力を掘り起こしたいという人にとっては、何かしらのインスピレーションを与えてくれるだろう」ということです。
そうであれば、結局のところ、明示できないものの“何かしらのインスピレーション”があったと納得できるかどうかが、この映画を高く評価するかどうかの分かれ目となるのでしょう。
といって、何かインスピレーションを受け取ることは、そんなに難しくはないでしょう。あの「おすぎ」までもが、「ストーリーは頭に入ってこなくても、なんとなく大好きになっている映画」と述べているくらいなのですから!
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