映画的・絵画的・音楽的

映画を見た後にネタバレOKで映画を、展覧会を見たら絵画を、など様々のことについて気楽に話しましょう。

あの日、欲望の大地で

2009年10月28日 | 洋画(09年)
 「あの日、欲望の大地で」をル・シネマで見ました。
 前田有一氏が80点もの高得点を付けていることもあり、見てきました。

 最初のうちは、次々に画面が変わるのでイライラしてしまいますが、いくつかのエピソードを分断して編集していることが飲み込めてくると気にならなくなり、それもトレーラーハウスの爆発事故を引き起こしたのが娘時代のシルヴィアだったことを効果的に映し出すための手法だと分かってくれば、マア納得できるというものです。

 とはいえ、生後2日の自分の娘を置いてシルヴィアは家出してしまいますが、シルヴィアが、自分も母親と同じような行動をとってしまったと自覚し、さらに自分の娘が同じ過ちを繰り返してしまうのを恐れたらしいというのでは、かなり薄弱な動機のように思われるところです。

 この点については、60点の福本次郎氏が、「赤茶けた荒涼とした大地と陰鬱な雲に覆われた街、トレーラーハウスに通う人妻と奔放なセックスにふける女。舞台となる風景は対照的でもそこで繰り広げられる欲望は相似形をなす。それは彼女たちが血のつながった母娘だから」と述べています。
 ですが、仮にそうだとしても、今頃“血の繋がり”を持ち出すとは随分古臭いストーリーだ、と言えるでしょう〔それも「相似形」と言うだけでは、何の説明にもならないと思いますが〕!

 そういえば、母親とメキシコ人とのトレーラーハウスにおける「奔放なセックス」は、『チャタレー夫人の恋人』における夫人と森番とが、その小屋で繰り広げたものに類似していますし〔それぞれの夫の状況も酷似しています〕、娘時代のシルヴィアとボーイフレンドとの関係は、シェイクスピアの『ロメオとジュリエット』めいてもいます。

 内容がかくも古臭い上に、娘時代のシルヴィアと大人になってレストランに勤めているシルヴィアとが同一人物である点は、やや違和感があるものの受け入れ可能ながら、ボーイフレンドについては、飛行機の操縦士姿の大人の彼が青年時代とはあまりに容貌が違っていて、とても同一人物とは思えず、最後まで違和感が残ります(尤も、大人になってからの登場時間はごくわずかにすぎませんが)。

 それに、娘時代のシルヴィアが導火線を用いてトレーラーハウスに火を点け、それが単なる火災でとどまらずに思いがけずガス爆発が起こって母親たちを殺してしまうわけですが、シルヴィアの心のトラウマになってしまうだけにしては大きすぎる事件ではないでしょうか?
 さらに、導火線の跡は爆発炎上しても残るはずではとも思え、そうであれば第三者の存在が疑われてしかるべきでしょう。にもかかわらず、この大事件が単なる「事故」で済まされてしまった、という点もあまり納得できませんでした。

 という具合に、見ながらいろいろ疑問を感じました。
 にもかかわらず、監督がさまざまな工夫を凝らしてこの映画を製作しているという熱意が、十分に観客に伝わってきますので、全体としてそれほど悪い印象は残りません。さらにまた、見終わってから色々反芻してあれこれ議論できるというのも大きな楽しみではないでしょうか?

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