孤帆の遠影碧空に尽き

年に3回ほどアジアの国を中心に旅行、それが時間の流れに刻む印となっています。そんな私の思うこといろいろ。

ベンガル飢饉(1943年)における英首相チャーチルの責任

2010-09-12 20:03:53 | 災害

(1943年のベンガル飢饉の街角 “”より By Photo Tractatus
http://www.flickr.com/photos/photo-tractatus/4914941865/in/photostream/# )

【「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」】
インドのベンガル地方は過去から何回も大規模な飢饉を繰り返してきた地域ですが、第2次大戦中の1943年にも300万人とも言われる死者を出す大飢饉に襲われています。
この1943年のベンガル飢饉を悲惨なものにした原因として、宗主国イギリスの首相チャーチルのインド人への嫌悪があったとする本が出版されています。

****チャーチルのインド人嫌悪、歴史的飢饉の原因に 印新刊が告発*****
第2次世界大戦中の英首相ウィンストン・チャーチルが、インド人に対する人種的嫌悪感から、飢饉にあえぐインドへの援助を拒み、数百万人を餓死に追いやったと主張する本が出版された。

第2次大戦中、日本軍がインドへのコメの主要輸出国だった隣国ビルマを占領した後も、英国人が支配する植民地総督府は、兵士や軍需労働者にしか備蓄食糧を開放しなかった。パニック買いでコメ価格は高騰。また日本軍が侵入した場合に植民地内の輸送船や牛車が敵の手に渡ることを恐れた総督府は、これらを押収したり破壊したりしたため、流通網も破壊された。
こうして1943年、「人為的」に起きたベンガル飢饉では300万人が餓死し、英植民地インドにおける暗黒の歴史となっている。インド人作家マドゥシュリー・ムカージー氏(49)は最新刊『Churchill's Secret War』(チャーチルの秘密の戦争)で、この大飢饉の直接的な責任はチャーチルにあることを示す新たな証拠を暴いたと語る。

■度重なる支援要請を拒否
第2次大戦の英政府の閣議記録や埋もれていた官庁記録、個人的なアーカイブなどを分析した結果、当時、オーストラリアからインド経由で地中海地域へ向かう航路の船は輸出用のコメを満載していた。しかし、チャーチルは緊急食糧支援の要請をことごとく拒否し続けたという。
ムカージー氏は「チャーチルに対策が無かったわけではない。インドへの援助は何度も話にあがったが、チャートルと側近たちがその都度、阻止していたのだ」と指摘する。「米国とオーストラリアが援助を申し出ても、戦時下の英政府がそのための船を空けたがらなかった。米政府は自国の船で穀物を送るとまで申し出たのに、英政府はそれにも反応しなかった」

■強烈なインド人嫌悪
チャーチルはインド人を蔑む言葉をよく口にしたという。チャーチル内閣のレオ・アメリーインド担当相に対して、「インド人は嫌いだ。野蛮な地域に住む汚らわしい人間たちだ」と述べ、またあるときは、飢饉はインド人自らが引き起こしたもので、「ウサギのように繁殖するからだ」とののしった。
特にインド独立運動の指導者マハトマ・ガンジーについて「半裸の聖者を気取った弁護士」だと愚弄(ぐろう)し、援助を求める総督府の英高官らに対し、「なぜガンジーはまだ死んでいないのか」などと返答したという。
ナチス・ドイツと戦う指導者として歴史に名が残るチャーチルだが、アメリー担当相はチャーチルのあまりの暴言に、ある時ついに「首相とヒトラーの考え方に大きな違いがあるとは思えない」と直言したこともあった。

■インド史から消された災厄
チャーチルの伝記はこれまでに数え切れないほど執筆されているが、ムカージー氏の新刊は新情報を発掘したという意味で画期的な成果だと、著名な歴史ジャーナリストのマックス・ヘイスティングスやインドの作家たちが称賛している。
ムカージー氏は「チャーチルを攻撃しようと思って調査し始めたわけではない。ベンガル飢饉について調べていくうちに徐々に、チャーチルが飢饉で果たした役割が浮かび上がってきた」と言う。
現在はドイツ人の夫とともに独フランクフルトに在住しているインド出身のムカージー氏は、ベンガル飢饉については小学校の教師からも両親からも習ったことはなく、インドの歴史からも消去されてきたと批判する。それは「インド社会の中流に、罪の意識があるからだ。彼らは(総督府下で)仕事に就いていたから、つまり配給を割り当てられていた。けれど田舎の人間はいなくなっても構わないとみなされたのだ」
7年の歳月をかけて執筆したムカージー氏は、インド奥地の村々に散るベンガル飢饉の生存者から生々しい話を取材で聞くにつれ、チャーチルに対する強烈な批判意識が生じたという。「彼がよく批判されるのは、ドイツ市民に対する爆撃についてだが、ベンガル飢饉でこれだけ多くの犠牲者が出たことついて直接の責任を問われたことはまったくない。しかし、これこそがチャーチル最大の汚点だと思う」【9月11日 AFP】
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真相はもちろんわかりませんが、チャーチルあるいはイギリスに限らず、当時の宗主国の植民地住民への意識を考えるなら、ありえない話ではないように思えます。

【飢饉を引き起こす食糧分配問題】
9歳の時に1943年のベンガル大飢饉、それに伴うヒンズー教徒とイスラム教徒の激しい抗争・流血を経験したことで、インドはなぜ貧しいのかという疑問から経済学者となる決心をしたと言われるアマルティア・セン(インドの経済学者、1998年のノーベル経済学賞受賞者)は、飢饉は食料不足から起こるだけではなく、不平等からも起こると指摘、食物を分配するためのメカニズムを問題にしています。

セン氏は08年5月、世界中で食料品価格が高騰し暴動などが起こったときに、ニューヨーク・タイムズ紙に次のような文章を寄稿しています。

“多くの貧困層を持つ国が突如として急激な経済成長を経験するが、その新たな繁栄を共有できるのは国民のわずか半分だけである。恵まれた人々は新たな所得の多くを食料に拠出し、供給が非常に急速に拡大でもしない限り、価格は高騰する。現在、残りの貧困層は食料価格の高騰に直面しているが、所得水準は低いままで、飢えが始まっている。このような悲劇は世界中で繰り返し起こっている。

好例は英国のインド統治の終盤に起こった1943年のベンガル飢饉である。都市の貧困層は所得の急上昇を経験した。特にコルカタ(カルカッタ)では、日本との戦争への莫大な拠出により景気が刺激され、食料価格が4倍増となった。地方の貧困層は、殆ど所得が伸びなかった中でこうした価格の高騰に直面することになった。
政府の誤った政策により分断は悪化した。英国の統治陣営は戦時中の都市部の不満を予防することに決めたことから、政府は農村部で購入した食料を、相当な補助金を付与して、都市部で販売した。この動きにより、農村部の食料価格は更に上昇し、農村部の低所得者は飢えに苦しんだ。ベンガル飢饉により200~300万人の人々が死亡している。”【abetch  http://abetch.exblog.jp/7156462/  より】

当時のベンガル地方における購買力の低下、食料価格の高騰、不適切な配分、売り惜しみなどの流通上の問題については、次のような説明もあります。
“1942年に、ベンガルが悲惨なサイクロンによって当られた時に、地域の穀物の多数は台無しになった。 戦時の要求のため、当時は既に急速な価格インフレーションがあった。 国内での食糧が十分になかったのに、ベンガルで作り出された食糧の多くは中東にいたイギリスとインド軍隊に輸出されていた。 商人は価格が上がって利益が増加する事を望み、食糧を貯蔵し、問題を悪化させた。 皆に与える十分な食糧があったが、貧困で得る事ができず、人々は高い値段に苦しんだ。戦争の真最中だったため、英国はベンガルの食糧の絶望的な主要にすぐ答える事ができなかった。ベンガル人が助けを求めても、イギリスは銃を食糧の前に置き、助けの叫びは無視された。 区域の政府は輸出を禁止することを断り、外国から食糧を輸入しようともせず、食糧危機を助けられる事を何もしなかった。”【飢えた国 一粒一粒が重要である所
http://library.thinkquest.org/08aug/02479/html_lowfi_jap/story_history.html

サタジット・レイ監督の映画「遠い雷鳴」も、この1943年のベンガル飢饉を背景とした作品です。
その中では、米価高騰のきっかけとして、日本軍がシンガポール占領、ビルマ侵入があげられています。

【絶対的に食糧が不足することは稀である】
【ウィキペディア】では飢饉について次のように記されています。
“食糧の不足が何らかの理由で発生しても、必ずしも飢饉となるわけではない。とりわけ近年の農業技術の発達や食糧生産量の増加、国際的な輸送体制の下では、絶対的に食糧が不足することは稀である。
実際に、飢饉に際してもその地域、国家のすべての人が餓死するわけではなく、むしろ一部の人々が餓死する一方で、一部の人々には食糧が豊富にある場合が多い。また、飢饉が発生している地域から食糧が外部へと運び出される例も見られる。そして、過去の飢饉の記録を見ると、洋の東西や時代を問わず、都市部で餓死者が少ないか、食料が不足していないことが多く、むしろ、都市部へ人が避難して衛生状態が悪化したことによる疫病の例が多い。”

そして、「食糧の分配」が歪み飢饉を引き起こす理由として、「収入の減少・喪失」「食糧価格の高騰」「救済手段の不備」をあげています。

飢饉の被害を拡大させたイギリス・チャーチル首相の責任は、戦時下において軍事用の食糧調達を優先させたこと、適切な救済措置をとらなかったことにあると思われます。その背景に「インド人への嫌悪感」にあったとしたら・・・ナチスのホロコースト、スターリンのカチンの森などにも共通するものがあります。

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8 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-02-25 16:41:51
英国本土自体、Uボートの通商破壊作戦によって、民間人は食糧難で栄養失調多かったんですよね。平時ならともかく未曾有の世界大戦中に1万キロも離れてるインドに支援なできる余裕ありませんのでなんともいえませんねぇ。そもそも、日本軍が南アジアへ侵攻してきてるのに、英印軍の要となる貴重なインド人わざわざ減らしたがりますかね。ソ連によるホロドモールは証明されてますけど。イギリスの場合は人工的に飢饉をもたらした状況証拠すらありません。
Unknown (Unknown)
2015-02-25 16:43:45
ドイツ人の夫の時点で、あぁなるほどなと思います。当時のドイツの宿敵ですもんねチャーチルは。
Unknown (Unknown)
2015-02-25 16:54:19
スターリンといえば、ソ連支配下でのホロドモールこそが人工的飢饉ですね。これ以外は毛沢東による大躍進政策における飢饉。人工的飢饉といえば、これくらいしか思いつきません。インドはかつての日本の三大飢饉と同じく旱魃によるものばかりだと思います。小氷期回復期でも飢饉繰り返してるんですから。もちろん、助かった人もいますけど、イギリス本国でも食糧難だったのに、ベンガル地方すべての人に行き渡る食料分配自体困難だったのは想像に難くありません。
Unknown (Unknown)
2015-02-25 16:57:03
現代だとソマリアの飢餓も深刻ですね。
飽食国家日本の売れ残り廃棄処分する食料分だけでも、世界中の飢餓を救えると思います。
Unknown (Unknown)
2015-02-25 17:05:03
19世紀小氷期で頻発したインド飢餓の一つ、オリッサ飢饉の例。飢饉の発生原因は旱魃。地理的に隔絶された地域への食料の輸送作業は悪天候のため、難航した。また、この地域のインフラストラクチャーが貧弱だったこともあり、船によるオリッサ外からの食糧の輸送は困難であると同時に、内陸部の輸送も困難であった。帝国政府は、1万トンのコメをこの地域に運んだが、9月よりも前に、飢えに苦しむ人々の口には届かなかった。飢えとマラリアにより、少なくともオリッサでは人口の3分の1にあたる100万人が1866年中に、その後2年間で、おおよそ400から500万人が死亡した。1866年に降った豪雨はまた、洪水を引き起こし、オリッサ低地部のコメ生産を破壊した。2年連続の少雨を予想していた帝国政府は、結果として、定価で4万トンのコメを購入し、この地域の救済に充てた。とはいえ、この4万トンの数字は多くを見積もりすぎた数字であり、続く1867年の大豊作を迎えるまでに消費されたコメの量はその半分に過ぎなかった。
飢饉は1868年に終焉を迎えたが、帝国政府が飢饉の救済に9500万ルピーを支出することとなったが、これだけ多い支出になったのは、輸入されたコメの価格が高いことにあった。

Unknown (Unknown)
2018-05-12 17:45:49
まあ本書を読まずに何を呻いたところで、、、。

しかし

>ドイツ人の夫の時点で、あぁなるほどなと思います。当時のドイツの宿敵ですもんねチャーチルは。

これは、、凄い狭い世界観ですね。てか「インド人作家」の時点で思わないとダメだろうお前は。
Unknown (ojirowashi)
2018-10-06 17:16:03
>実際に、飢饉に際してもその地域、国家のすべての人が餓死するわけではなく、むしろ一部の人々が餓死する一方で、一部の人々には食糧が豊富にある場合が多い。

「いやー、その通り。朕はたらふく食った」ヒロヒト
こたつ記事 (unknown)
2019-05-01 20:59:18
この記事はほぼ外部サイトからの転載&まとめでしょうか?

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