(このおはなしはフィクションです。実在の個人や団体には一切関係ありません)
わたしがダンサーになりたいと思ったのは16歳の時だった。
ダンサー志望の友人に誘われて公演を見に行き、ミイラ取りがミイラになってしまったのだ。
ダンススクールに通いたいと言うと、両親は猛反対した。「ばかばかしい」「才能もないくせに」「くだらないことを考えている暇があったら勉強しなさい」
そんな声すら、二階で勉強しているであろうお兄ちゃんの邪魔にならないよう、ひそめがちになるのがわが家だった。
お兄ちゃんはわが家の王様だった。長男でできがいいと、日本の家庭では往々にしてそうなる。全ての優先順位はお兄ちゃんが一番で、妹のわたしはほとんど顧みられなかった。
わたしが38℃の熱を出して寝ていた時も、かけられた言葉は、「お兄ちゃんにうつさないようにね」だった。
それなら、やりたいことぐらい好きにやらせてくれればいいのに。
わたしは件の友人と一緒にアルバイトをしてレッスン代をつくり、スクールに通った。
ある日、ロッカールームで着替えようとして、わたしは呆然とした。レオタードがめちゃめちゃに切り裂かれている。やったのはお兄ちゃんだとすぐわかった。お兄ちゃんは時々わたしの部屋へ物を借りに来るが、一度レオタードを干してあるのを見られたことがあったのだ。
両親に内緒でスクールに通っているので、わたしは誰にも訴えられなかった。本人に直接抗議すると、空とぼけられた上に、「おまえ、親に隠れてそんなことやってたの。黙っててやるから、金貸してよ」と、口止め料までまきあげられた。お兄ちゃんには、こういう陰湿なところがある。学校でも、弱みを握った級友を何人か便利屋にしているらしかった。
お兄ちゃんが神戸の大学に合格して、学校の近くで一人暮らしをすることになった時は、本当に嬉しかった。これでもう、陰でいじめられなくなる。
だが、お兄ちゃんは置き土産のように、両親にわたしがダンスを習っていることを告げ口していった。おかげで、わたしは両親と大喧嘩するハメになった。
両親は、ダンスなんて不良かはみだし者がやることだと思っているようだった。大事な夢をそんな風に言われて悲しかったが、何より我慢できなかったのは、「お兄ちゃんはあんなに賢いのに、どうしておまえはそんなに愚かなんだ」と比べられたことだ。わたしはカッとなって、お兄ちゃんは大人の前ではいい子ぶっているけれど、実は底意地が悪くてずるい人間であることをぶちまけた。両親はわたしの言うことなど、てんで信じてくれなかった。それどころか、「あんないいお兄ちゃんを中傷するなんて、おまえは何て情けない人間なんだ」と嘆かれた。
この家は、わたしにとって完全アウェイだと思い知った瞬間だった。
わたしは高校を卒業すると同時に家を飛び出した。
それからの道のりは、もちろん平坦なものではなかった。
両親とはまるきり縁が切れてしまったわけではなかったが、経済的にも精神的にもサポートを受けることはなかった。「親戚には派遣で働いてるって言ってあるから、間違ってもダンスをやってるなんて言わないでちょうだいね」と口止めされた時は、それほど世間に顔向けできないようなことをしているのだろうかと不思議になった。
一方、お兄ちゃんは、親の金でぬくぬくと大学生活を謳歌していた。就職は、誰もが知っているような大手企業に内定を貰った。なんのかんの言っても、日本の会社は高学歴男子に弱いようだ。
その会社を一年でやめて、母校の大学院に進みたいと言い出した時は、さすがに両親も戸惑ったようだった。博士号をとりたいといえば聞こえはいいが、要は仕事が続かなかったのだ。
会社を辞めたのは本人にしかわからない事情もあるだろうからどうこう言うつもりはなかったが、一年でも社会人として働いたのなら院に行くお金ぐらい自分で何とかすればいいのに、お兄ちゃんは相変わらず親がかりだった。学費も、神戸のマンションの賃料も生活費も、全て父に出して貰っていた。
阪神淡路大震災が起きたのはその冬だった。
お兄ちゃんは倒壊したマンションの下敷きになって亡くなった。遺体に取りすがって号泣する両親のかたわらで、わたしは途方に暮れていた。
悲しみたくても悲しめない。といって、ざまあみろとか、天罰だとも思えなかった。
わたしはお兄ちゃんにいなくなってほしかったわけではない。わたしと関係ないところで生きてくれるなら、お兄ちゃんなんか、はっきり言ってどうでもよかったのだ。
わたしにはもう、わたしの世界がある。家族よりわかりあえる仲間もできた。こんな世界だからライバル心剥き出しの人もいるし、理不尽なこともしょっちゅうだ。でも、少なくとも今いる場所は完全アウェイではなかった。
両親はどうせ、わたしの方が死ねばよかったのにと思っているだろう。わたしは葬儀が終わるとすぐみすぼらしいアパートに戻った。
わたしが震災で兄をなくしたからか、神戸を拠点に活動するダンスチームの振り付けを頼まれた。
震災後20年のイベントで踊るので、わたしにも出演してほしいという。
わたしは、「最愛の家族を失った悲しみとか、絆とか、癒やしと再生とかいうきれいなテーマではやれませんがいいですか?」と訊ねた。ひねくれた言いぐさに聞こえるかもしれないが、わたしにはそういうものが本当にぴんとこないのだ。自分が理解できないものをテーマに据えることはできない。
それでも構わないというので、わたしは心の底の本当の叫びをダンスで表現した。
本当は愛し合いたかったんだよー。お父さんともお母さんともお兄ちゃんとも。家族なんだから、あたりまえじゃないか。
わたしのことも認めてほしかった。わたしの夢も理解してほしかった。応援してほしかった。
だけど、ないがしろにされて、全否定されて、悲しかった、辛かった、情けなかった、思い切り傷ついた。
お兄ちゃんが死んだとき、わたしも「最愛の家族を失った悲しみ」を味わいたかった。でも、お兄ちゃんはそんな家族じゃなかった。
そんな家族がほしかった。そんな家族でありたかった。アウェイじゃなくて、ホームで生まれ育ちたかった。
ふと見ると、食い入るようにステージを見つめながら、涙を流している女の人がいた。
わたしが表現しているものに、魂の底から感応してくれていることがわかった。
あの人も、何らかの意味でアウェイにいるのだろうか。わたしのように、ホームを探しているのだろうか。いつか、わたしたちはホームにたどり着けるのだろうか。
そんなことはわからない。わたしにできるのは、今現在を精一杯生きることだけだ。
だから、ステージの上で、自分自身の肉体で、わたしは叫び続けた。