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「日本人の明治観をただす」①

2019-06-11 | 気になる本

中塚 明(2019)『日本人の明治観をただす』高文研 の読書メモ

 著者がこの本で考えたいこと、(カッコ内のコメントは私)

 日本が5大国に1つになったのは、日本が日清戦争で中国に、日露戦争で帝政ロシアに勝利した結果である。日本が目指した最大の目的は、朝鮮を支配することである。15年安倍首相が「戦後70年談話」では、「日露戦争をまるで植民地の解放戦争であったかのように」、言い紛らわした。

 日清戦争から50年目、日露戦争から40年目の、1945年に大破綻(「日本帝国」は崩壊)した。(アベ政権はアメリカの下で、「積極的平和主義」を語り、軍事力の拡大で「成長」を進めていて、仕上げに憲法9条の改定を狙っている。)

 2つの戦争の間には、中国の民族運動である義和団の蜂起に、日本は鎮圧・北清事変に最も多くの軍隊を派遣した。

 梅田正巳は、「神話にもとづく神国意識を核として形成された神国ナショナリズムには、その形成過程そのもののなかに排外主義・侵略主義が埋め込まれていた」。

 明治8年、日本の朝鮮に対する武力行使がはじまり、「朝鮮の後進性を言い立て日本の侵略の事実をおおいかくす」操作が、この江華島事件からはじまった。

 日清戦史で隠蔽されてきた朝鮮農民との戦争。戦争布告は天皇で、原稿は官僚の仕事。詔勅では、朝鮮は「独立した国」で東学農民戦争が起こり、清国が朝鮮政府に依頼されたとして鎮圧のため出兵することにしたのに対し、日本政府も居留民の保護を口実として出兵し、日清戦争が引き起こされる。

 皆殺しをはかる日本政府・日本軍。日本政府は国王を「とりこ」にして戦争の「名分」を手に入れようとした占領の事実は、内外に隠し通さなければならなかった。日本政府・日本軍は、広い範囲での東学農民運動に直面、大衆的・民族的な抗日闘争の最初であった。世界にしれては困る王宮占領をあえてして、ウソの報告で内外の世論をあざむいた日本政府のやり方は、他方で朝鮮の民族的自主性をまったく認めないやり方と表裏の関係にある。こういうものの考え方は、「昭和の戦争」でも一貫して、そして今でも日本人の頭の片すみにこびりついている。日本軍は東学農民軍をことごとく皆殺しにした。犠牲になった死者は3万人以上。(日本軍は他国へ侵略しそれに抵抗した農民軍を殺したのである。) 

日露戦争の目的は?

日清戦争での日本の勝利は、ヨーロッパの帝国主義列強による中国本土分割を一気に進めさせることになった。1898年には、ドイツが山東半島、ロシアが遼東半島の旅順・大連港を、英も九龍半島、翌年にはフランスが広州湾を租借し、そこを拠点に勢力を拡大した。明治維新から43年、日本は日清戦争、義和団鎮圧戦争、そして日露戦争をへて朝鮮を完全に従属させ植民地とする目標を実現した。一方「韓国併合」の翌年1911年には、新しい通商航海条約に調印した。欧米諸国とも新通商条約に調印し、関税自主権を回復、幕末以来の不平等条約から解放された。日本では、いまでも満州事変を日清戦争や日露戦争と関連させて、そのつながりのなかで説く議論はない。反対に、「明治は栄光の時代、満州事変から敗戦に至る昭和の前半は、明治への裏切り、背信の時代だったのだ」という主張が大勢を占めている。(軍事力の強化が不平等をなくしたと観るのか?安倍首相が言う「日本を取り戻す」とは、明治のこのようなことをさすのだろうか?その一方で軍事力の強いアメリカには、不平等な貿易を余儀なくされている。)帝国主義というものは、相手の持ち物をはぎとりながら、平気で善意の保証をしたり、人殺しをしながら生命の尊厳を公言したりするやり方の常習者なのだ。

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