おっさんひとり犬いっぴき

家族がふえてノンキな暮らし

わび、さび

2018-06-12 11:17:06 | 福島

 毎日少しずつ千利休の本を読む。読み進めるのがもったいないからではなく、もともとお茶の世界に興味がないからだが、千利休が始めたというわび茶、さび茶というものが、今の日本の文化や芸術の発展の大きな礎になっていることには、感心する。

 華美なものを求める日本文化というものを探せば日光東照宮のような場所もあるが、やはり日本文化といえば渋く控えめ目なものが主だったものになる。日本家屋が銀閣寺の書院造りをモデルとして発展したのは有名だ。決して金閣寺はメジャーな家屋にはならなかった。

 わび、さびとは学校の時に教えられた言葉だが、その本質というのは案外わからない。侘しい、寂しいものが良しとはいうものの、大概の人はそんな貧乏たらしいものは嫌だ。それでも芸術の世界になると途端に、そういうものがもてはやされるというのも不思議だ。

 わび、さびという言葉には、本来物がないこと、不足しているといういう意味合いがあるらしい。つまり、不必要なものを削りに削って、最後は少々足りなくなるくらいのところまで行って、ない物は身近なもので工夫するというのが、わび、さびの精神ということになるらしい。シンプル・イズ・ベストという考え方は、特に物や情報があふれる現代では、非常にわかりやすい。

 が、それなのに、お茶の世界と言えば、どうしてもウン千万円という高価な茶器や掛け軸、わざわざ小汚い茶室まで拵えるなんて、よほどの金持ちでなければ楽しめない。これがわび、さびなのかと疑いたくなるが、それについて千利休の先生であった武野紹鴎という人はこう言っている。「花も紅葉もないような見るべきもののない世界に、美を感じるというのがわび茶の精神だが、春爛漫の桜や秋の錦おりなす紅葉を嫌というほど見たことがない人に、何もない世界に美を感じることは難しい」。つまり、贅沢三昧した金持ちしか、わび、さびの良さはわからないと言っているのである。

 それに対して、弟子の千利休は反論した。名所、名物に接することができない人こそ、自分の心の中に桜や紅葉を見出すことができる、と。が、我々のような凡人は、結局、名所や名物に接するために、遠い憧ればかり抱いているのだ。

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