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新聞の片隅に載ったニュースから(232)   大西五郎

2016年07月29日 20時22分40秒 | Weblog

正社員の一部手当て 契約社員にも支給を 浜松の会社に高裁命令(16.7.26 朝日新聞)

 同じ労働で正社員にだけ支給される手当があるのは不当だとして、東証1部上場の物流会社「ハマキョウレックス」(静岡県浜松市)の契約社員の男性(54)が、給食手当などの支払いを求めた訴訟の控訴審判決が26日、大阪高裁であった。池田光宏裁判長は一部手当を契約社員に支給しないのは違法として同社に77万円の支払を命じた。

 支給手当について、高裁で違法判決が出るのは初めて。代理人弁護士は「同様の訴訟に与える影響は大きい」と評価した。

 2013年4月施行の労働計約法20条は、無期雇用の正社員らと有期契約で働く契約社員らとの不合理な差別を禁じている。判決は、正社員は広域の転勤や組織の中核を担う可能性があると指摘。各手当について転勤の有無など立場にかかわるかどうかに基き、判断すべきだと指摘した。

 そのうえで、給食と無事故、通勤、作業の四つの手当は正社員の職務内容などとは無関係で、契約社員に支給しないのは違法と判断し、会社の責任を認めた。

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  最初にこの記事読んで疑問に思ったのは、浜松の会社の事案なのに浜松とは管轄外の大阪高裁が控訴審判決を下したことです。インターネットで検索してみましたら、時事通信の報道では提訴した契約社員の人は滋賀県の彦根支社に勤めていたので、大津地裁に提訴しましたが敗訴したので、大阪高裁に控訴したのだと分かりました。(読者に疑問を持たせるような原稿は良くありませんね)

 安倍内閣は一億総活躍社会を目指すと宣言しました。少子高齢化に歯止めをかけ、人口1億人を維持して、家庭・職場・地域でだれもでも活躍できる社会を作り出すというのです。

三本の矢の成果として平成28年1月の雇用統計では、役員を除く雇用者5332万人のうち、正規の従業員が前年同期に比べ60万人増加し3325万人になった。完全失業者も213万人で前年同期に比べ15万人減ったと“アベノミクスの成果”を誇りました。

 しかし総務省統計局の雇用統計を見てみますと、非正規の職員・従業員は28万人増えて2007万人と全従業員の37.6%に及んでいます。非正規の従業員うち男性では「正規の職員・従業員の仕事がないから(仕方なく非正規の従業員になった)」が前年同期に比べ2万人増えています。アベノミクスによる好調な雇用情勢の実態は“仕方なく低賃金の非正規従業員になった人”が数字上で作り出したものです。

 日本の多くの企業では、問題になった企業と同様、正規の従業員と同じ仕事をしていても手当(賃金)に差がつく非正規従業員を雇っていますが、政府はこのような実態には目をつむり、見かけの数字上の“作られた労働事情の安定”に目をつむってはなりません。

「差があることの不合理」を戒めたこの判決が、代理人弁護士が言うように「全国の裁判」に広がって欲しいと思います。                                  

                             大西 五郎

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日米世論とネトウヨ諸君、最大の歴史誤認識   文科系

2016年07月29日 12時39分51秒 | 歴史・戦争責任・戦争体験など

 これは、昨日エントリー「お答え」の続きである。25日の拙稿「ならず者国家」にお二人からこんなコメントが付いた。

【 Unknown (sica)2016-07-28 05:54:14>  >世界平和組織の必要不必要論と、役に立っているか否かとは、別の論議であると言いたい<
「世界平和組織」などという、存在しておらず、また将来作られる見通しの全くない組織の必要性や役に立つかどうかなどを議論しても、全く無意味だと思います
それは政治というより宗教の部類の話です。】

【 Unknown (sagakaoruzeisyu)2016-07-28 07:19:37  ならず者国家?(エントリーはアメリカのことを書いているのだが、ここにおけるsicaさんとのコメント遣り取りで、太平洋戦争に至る日本を同じようにそう呼ぶことに同意し合っている。文科系注) 当時の日本人が、あの戦争を戦ったからこそ、今の日本も世界もあるんです。アフリカ諸国の独立も第二次世界大戦後のことですし、日露戦争がなく、第一次・第二次大戦に日本が参戦していなければ、世界は“今よりもずっと”白人上位のひどい世界でしょうね。】

 このお二人に対して反論したのが、昨日のエントリ-だが、日本の戦争責任を認めているという意味でネトウヨとは思われないsicaさんも、国際連盟、国際連合について(の歴史を)知らないのは、同じなのである。そして、上の後者のような歴史認識をネトウヨ諸君が平気で書いてくるのも、事態は同じことなのである。そこで昨日も、また16日にも、僕はこんな文章を書いた。

【戦争責任と言うからには、道義的責任よりも法的責任が重いのは明らだろう。そして、20世紀の戦争には、国際連盟が出来て史上初めての法的枠組みが生まれていた。この枠組みが唯一当時の法的責任基準と言えよう。満州事変の国連リットン調査団報告によって日本はこの基準で裁かれて、これへの反対1票ということから国連を脱退している。もしこれ以外の基準があるならば、「こちらの方が重要な基準だ」という形で、これによってこの法的責任をこのように否定するというように論ずるべきではないか。
 大平洋戦争は、「15年戦争」とよく語られることがあるが、満州事変の帰結とも言えるのだからまとめて「アジア太平洋戦争」と観て、日本に国際連盟法上の戦争責任があった。東京裁判もそのように裁いた。国連を脱退したのだから、その法では裁けないということにさえならない。これはこと戦争ということに関しては、こんな理屈を語るのと同じではないか。
「僕は人を殺した。が、日本国民をやめると宣言した。だからそれ以降は日本の法律を適用できない」。次いでこの言葉の先の議論もやってみよう。「そういう僕は、今後どの国にも属さないことにする。よって、誰にも死刑にされないはずだ」。と、こういうお方はたちまち誰かに殺されるはずだ。彼の命を保護する国家が居ないからである。絶好の臓器提供者とみなされるかも知れない。】

 なお、25日エントリー「ならず者国家」には、こんなコメントも付けさせていただいた。こう言う僕の命題を前提として、上記お二人はコメントを書いている。

【 『世界平和組織の存否を巡る、世界史的対立と述べても良いだろう。これは、19世紀以前までの「弱肉強食」無政府的戦争世界を「名実ともに」もたらしてもよいと考えるか否かという、世界観的対立、問題なのである。』
 これは日本人が苦手な、すぐれて論理的な問題である。特に、ここの『「名実ともに」』ということを今は強調してみたい。
 言うまでもなく、次の二つは別の事を語るはずだ。「国連なんか平和組織として何の役にも立っていない」、「世界平和組織は要らない」。
 戦国時代を終わらせて警察権を一手に握ってなされた徳川三百年の鎖国平和は、戦国時代以降築かれた技術、流通、資本が外に出て行くこともなく内需に向けられたことによって、世界でも有数の民生、識字率向上などの教育や、世界有数の二大都市(文化)などを生んだ。これがまた、アジアでも唯一の近代化日本の土台となった。これは、日本史を見る場合の一つの定説だろう。良くも悪くも、日本人は、全体組織による平和を望む民族だと、僕は理解してきた。
 これと同様に、世界平和組織の必要不必要論と、役に立っているか否かとは、別の論議であると言いたい。冷戦が終わった時にアメリカが上のケネディの言葉のようにこちらよりに舵を切っていたら、今の世界はどれだけ平和になっていたことだろうかと思う。ユーゴ内戦、9・11、アフガン・イラク戦争、シリア内乱、イスラム国、アラブの春、難民、イギリス離脱などもなかったと思うのである。】

 現代日本人はどうしてこれほど、国際連盟、国際連合について無知なのだろうか。小学生でも習うのに、僕には本当に不思議だった。国際連盟を無視すれば日本の戦争責任が随分軽くなることは確かだろうが。そして、今日米が同一歩調を歩むためには、アメリカと同じように日本も国連を無視しなければならない局面も多くなるはずなのかな?

 

コメント (11)
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改めて「僕が政治論以外も書くわけ」 文科系

2016年07月29日 12時19分12秒 | その他

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった時からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

  僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
 「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
  こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

  さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けるからナンセンスということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
  やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいことがあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。人生が生きるに値すると自ら示せなくって、どんな政治が語れるというのか、と。

  なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある誠実な論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
  そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学学生自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。かと言って、文化を重視しているかに見えたいわゆる新左翼には、僕は近づいた事はない。

  なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

  ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、孫のハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。

コメント (4)
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