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改めて「僕が政治論以外も書くわけ」 文科系

2016年07月29日 12時19分12秒 | その他

 表記のことを、改めてまとめてみたい。随筆、サッカー評論などなど一見関係ないようなことを僕はなぜここに書いてきたか。ここが始まった時からしばらくはかなり気にしていたことだが、最近はあまりこれを書いたことがなかったと思いついて。

  僕がまだ若い頃から、こんなことが当時の大学で当たり前であった左翼の世界の常識のように広く語られていた。「外では『民主的な夫』、家での実質は関白亭主。そんなのがごろごろ」。そういう男たちの政治論に接する機会があると、正直どこか斜めに構えてこれを聞いていたものだ。どんな偉い左翼人士に対しても。レーニンの著作にたびたび出てくるこういった内容の言葉も、そんなわけでなぜか身に染みて受け取れたものだった。
 「どんな有力な反動政治家の気の利いた名演説や、そういう反動政治方針よりも、恐るべきものは人々の生活習慣である」
  こういう僕の身についた感覚から僕の左翼隣人、いや人間一般を観る目も、いつしかこうなっていた。その人の言葉を聞いていてもそれをそのままには信じず、実は、言葉をも参考にしつつその人の実生活がどうかといつも観察していた。誤解されては困るが、これは人間不信というのではなくって、自分をも含んだ以下のような人間認識と言ってよい。人は一般に自分自身を知っているわけではなくって、自分の行為と言葉が知らずに自分にとって重大な矛盾をはらんでいることなどはいっぱいあるものだ、と。こういう人間観は実は、哲学をちょっとでもまじめに学んだことがある者の宿命でもあろう。哲学史では、自覚が最も難しくって大切なことだと語ってきたのだから。ソクラテスの「汝自身を知れ」、近代以降でもデカルトの「私は、思う(疑う)。そういう私も含めてすべてを疑う私こそ、まず第一に存在すると言えるものだ」などは、みなこれと同じことを述べているものだ。

  さて、だとしたら政治論だけやっていても何か広く本質的なことを語っているなんてことはないだろう。そんなのはリアリティーに欠けるからナンセンスということもあるし、「非現実的話」「非現実的世界」もはなはだしいことさえもあるわけである。それでこうなる。生活も語ってほしい。その人の最も生活らしい生活と言える、好きなこと、文化活動なんかも知りたい。どういう人がその論を語っているかということもなければ、説得力不十分なのではないか、などなどと。もちろん、何を書いてもそれが文章である限りは嘘も書けるのだけれど、その人の実際や自覚のにおいのしない政治論だけの話よりはまだはるかにましだろうし、随筆なんかでもリアリティーのない文章は結構馬脚が顕れているものだと、などなど、そういうことである。
  やがて、こんな風にも考えるようになった。幸せな活動が自分自身に実質希薄な人が人を幸せにするなんて?とか、人の困難を除くことだけが幸せと語っているに等しい人の言葉なんて?とか。そういう人を見ると今の僕は、まずこう言いたくなる。人の困難を除くよりもまず、自分、人生にはこれだけ楽しいことがあると子孫に実際に示して見せてみろよ、と。人生が生きるに値すると自ら示せなくって、どんな政治が語れるというのか、と。

  なお、以上は政治論だけをやっているのだと、人生の一断面の話だけしているという自覚がある誠実な論じ方ならばそれはそれでよく、五月蠅いことは言わない。だが、当時の左翼政治論壇では、こんなことさえ語られたのである。「歴史進歩の方向に沿って進むのが、人間のあるべき道である」と。つまり、政治と哲学が結びついていたのだ。それどころか、戦前から政治が文学や哲学や政治学、そういう学者たちの上位に君臨していたと言える現象のなんと多かったことか。
  そんなわけで僕は、当時では当たり前であった大学学生自治会には近づいたことがなかった。そして、左翼になってからもこの「政治優位哲学」には常に距離を置いていたものだった。これはなぜか僕の宿痾のようなものになっていた。かと言って、文化を重視しているかに見えたいわゆる新左翼には、僕は近づいた事はない。

  なお、こういう「公的な場所」に「私的な文章」を載せるなんて?という感覚も日本には非常に多いはずだ。こういう「公私の峻別」がまた、日本の公的なもののリアリティーをなくしてはいなかったか。公的発言に私的な事を入れると、まるで何か邪な意図があるに違いないとでも言うような。逆に日本ではもっともっとこんな事が必要なのだろう。政治をもっと私的な事に引きつけて、随筆風に語ること。正真正銘の公私混同はいけないが、私の実際に裏付けられないような公(の言葉)は日本という国においてはそのままでは、こういったものと同等扱いされることも多いはずだ。自分の子供をエリートにするためだけに高給をもらっているに等しい文科省官僚の公的発言、「貴男が男女平等を語っているの?」と連れ合いに冷笑される亭主。

  ややこしい内容を、舌足らずに書いたなと、自分でも隔靴掻痒。最近のここをお読み頂いている皆様にはどうか、意のある所をお酌み取り頂きたい。なお僕の文章はブログも同人誌随筆も、ほぼすべて連れ合いや同居に等しい娘にもしょっちゅう読んでもらっている。例えば、孫のハーちゃん随筆などは、彼らとの対話、共同生活の場所にもなっている。


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4 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (Unknown)
2016-07-30 18:19:56
結局、いつも、「オレってスゲー」て、結論じゃない。
自己顕示欲の正当化・・すら、できていないけど。
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Unknown (Unknown)
2016-07-30 18:42:13
クリック一つで他へ行けるネット上で、それをやる意味は全く無いどころか、より重要な話から目を逸らす為でしかないだろうに。
文ちゃん、「ここは、オレのサイト」ぐらいに思っている。
返信する
Unknown (Unknown)
2016-07-30 20:05:26
割と定期的に、この手のスレ立てるけど、結局、文ちゃんの自慰行為なんだよね。
返信する
読んで下さった方へ (文科系)
2016-11-12 05:54:19
 このエントリーを読んで下さった方がいらっしゃるようです。古いこれがアクセスベスト10に入ったから分かりました。この事は、僕にとってとても嬉しい事、読んで下さった方にはそれもお分かりでしょう。深謝です。

 とまー、こんな積もりで僕はここに参加してきました。だからこそ「9条」などという名前を付けていても、1日最高アクセス3426などという事も起こったのだろうと勝手に多少の自負をしてきました。

 僕の第一の関心を敢えて言うならば、政治にあるのではなく人間にあるという事です。そしてまた、人間に関心がある人は自分と言う人間に当然関心があるのでなければならないはずです。これと利己主義というのは全く別の話だとも言いたいです。日本の政治論は、人間不在だから面白くないと、それは、公私峻別をやるからだと、そう思ってきた訳でした。

 語っている人間が見えない政治論なんて、非リアル、つまり嘘の多いインチキに決まっているという事。無意識の嘘も含めての事ですから、これは語っている事が実現しないという事でもありますよね。
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