九条バトル !! (憲法問題のみならず、人間的なテーマならなんでも大歓迎!!)

憲法論議はいよいよ本番に。自由な掲示板です。憲法問題以外でも、人間的な話題なら何でも大歓迎。是非ひと言 !!!

 戦争、軍事力保持、アメリカ  文科系

2016年07月16日 15時01分16秒 | 国内政治・経済・社会問題

 らくせきさんが昨日行った当ブログ参加者に見る対立分類は、言うならば、対立しやすかった問題、立場による区別。僕はここの意見の違い、「平行線」の原因をこんなことに求めてきた。②以降は、自分も含めてのことである。以下は、反戦論者が、「慣れない」戦争不可避論にであった場合の必須の知識と思うから、今の日本で極めて大切なものだと強調したい。僕がここで戦争不可避論者と10年討論してきて、「目から鱗が取れたような・・・」も含めて学んだことばかりである。

①第一に、何よりもこれがあるだろう。無意識の「証明されざる前提」か、「(ディベートのような)自覚されたポジショントーク」か。このうち、後者は討論する相手としては先ず論外になる。論議自身に忠実になれないことが明らかなのだから。ただ、ブログ論議ではこの見分けは先ず無理、難しい。

②人の人生・世界観がある時急に変わることがある。これは、自分の過去のその大前提が替わったということだろう。宗教に回心、カルトなどに洗脳、政治信念に転向などの言葉があるが、今までの人生の大前提を崩してそこに新しいものを入れることと言える。この作業には必ず次のことが伴う。過去の前提を言葉で提示して、その否定物と入れ替えたという意味で、多少とも自覚が進んだというような(なお、この前進とは自覚の前進であって、なんらか人倫的な前進というものではない)。こういう無意識の証明されざる前提という観点に関わって、らくせきさん提出の三つをここでの過去論争を振り返りつつ僕なりに眺めてみたい。

③まず、戦争責任。
 責任と言うからには、道義的責任よりも法的責任が重いのは明らだろう。そして、20世紀の戦争には、国際連盟が出来て史上初めての法的枠組みが生まれていた。この枠組みが唯一当時の法的責任基準と言えよう。満州事変の国連調査団報告によって日本はこの基準で裁かれて、これへの反対1票ということから国連を脱退している。もしこれ以外の基準があるならば、「こちらの方が重要な基準だ」という形で、これによってこの法的責任をこのように否定するというように論ずるべきではないか。

④対米従属・自立 軍事力(不)保持
 軍事力保持論者は「戦争は無くならない」「攻めてくる国はある」という前提を必ず持っていた。そこにも、永久にまたは「当分は」無くならないと、二つの意見があったように思うが、この両者に共通の点が一つ存在した。「戦争を無くす」という言動、というよりもそういう方向の思考そのものがないことである。そんな論議は非現実的と考えて、頭から振り払っているように僕には見えた。なお、「永久に無くならない」と堂々と語る人がおられたが、これはその証明などを無視した議論つまり、狂信ということになる。さらになお、このように「戦争をなくすという思考そのものがない方」と、「無くせるものならそちらに与したい」という方とは、天と地ほどの開きがあるはずだ。現にある戦争を無くすということは、人類の実践行動にかかっていると考える他はないからである。ご自分がこのどちらであるか、人は細心の注意を払って自覚された方がよいと申し上げたい。前者は軍事増強論にしかならないが、後者は全く違うからである。

 対米従属論の方は、「戦争不可避論」が生む日本国防論の一変種と観る。「経済的に得」なり「1国では守りきれない」なり、「アメリカが攻めて来ないのだからまだマシ」と述べるなり・・・。よってこの立場は、「戦争は(当分)無くならない」という論争相手と見て良いと思う。

⑤以上を踏まえて僕について述べればこういうことになる。
 大平洋戦争は満州事変の帰結だったのだからまとめて「アジア太平洋戦争」と観て、日本に国際連盟法上の戦争責任があった。東京裁判もそのように裁いた。国連を脱退したのだから、その法では裁けないということにさえならない。これはこと戦争ということに関しては、こんな理屈を語るのと同じではないか。「僕は人を殺した。が、日本国民をやめると宣言した。だからそれ以降は日本の法律を適用できない」。次いでこの言葉の先の議論もやってみよう。「そういう僕は、今後どの国にも属さないことにする。よって、誰にも死刑にされないはずだ」。と、こういうお方はたちまち誰かに殺されるはずだ。彼の命を保護する国家が居ないからである。絶好の臓器提供者とみなされるかも知れない。 
 戦争は人間の世界政治が起こすもの。いつか人間が止められるものと僕は考えている。ただ、この「いつか」の解釈が大変重要だろう。それによって戦争派になるか否かの分かれ道もできるような。そのスパンはどのくらい長く見うるだろうか。この論議は、過去300年ほどの世界史をどう見るかというそんな論争と、その知見からの未来予想いうことにしかならないはずだ。つまり、この世界史を見ぬものには、このスパンは語れない。この命題は当然、僕の自戒も含めて語っているつもりだが、今日ここでは論じない。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする